青い水を汲みにきた死神







「お前、土方さんに何したんでィ」


沖田の、いつにない厳しい鞭を、彼の言葉の中に感じとると、神楽はちらと、沖田を見上げ、いくらか顔を伏せ、体を捻るようにした。
そうすれば許されるということを、どこかで知っている仕草である。何かがふと、目覚めたような仕草である。神楽は、銀時にも最近こういう甘え方をするが、銀時は怒っても神楽を沖田のように厭な気分にはさせない。銀時の激高は怖いが、神楽は銀時の愛情が誰よりも厚いことを知っているので、瞬間的には怯えるが、その怯えは長続きしないのだ。
沖田は神楽の甘えにも構わず、厳しい声で言った。


「あんなに気狂いになっちゃ、使い物にならねーよ」


最近の土方のことを言っているのだ。
ある日を境に、土方は変わった。それまでの土方は、真選組の副長として、近藤への忠誠と敬意とから、控えめに、堅物に振舞っていたが、だがそうやっている中にも、奔放な、生の男を感じさせていた。だが神楽と親交を持つようになり、少しずつ、その生なものが体の内側に籠り、生ぐささを洗い落としていって、よほどのことがあって、節制の誓いを破る羽目にならぬ限り、土方の中の生なものは、彼の体から漲り出ることはあるまいと思われた。沖田はそれを見ていた。そうして彼の土方への信頼は実は深まって行ったのである。
なのに、いま、その土方は欲望を解放した苦患僧の中に入り込んでいる。


「お前が誑かしたんだろ?」
「……何のことかわからないアル」
「あの人は、お前にキチガイのように惚れてやがる」


じっと睨みつけてくる沖田に神楽が飽きて、ふと、身じろぎをしたりするのにつれて、沖田は、抑えようとしても次第に高まってくる、いつものサディスティックな偏執に憑りつかれてきた。サディスティックな、肉感的な欲望は、だんだんと昂進してくるが、思うように発散できないので中に籠ってくるものが、うずくように、体の内部に膨れ上がってくる。
一種の不思議な肉の魔力をつけて、少しずつ大きくなって来た神楽が、十五歳を超えたあたりから沖田はこういう、裸の女の誘惑に抗おうとする聖者のような状態に追い込まれる。そういう恍惚と苦痛の日々を、月に何度か重ねてきた。どこかに火のある時間である。だが、土方は、それを必死に自制してきたはずだった。まだ少女の神楽で、妄想を愉しむことを良しとしないストイックさがあった。それがどうだ、今ではケダモノだ……。とっくにケダモノの自分が言えた話ではないが、土方はすでに、自分の人生が滅茶苦茶になっても構わないと思っているのだ。
毎週、水曜日になると遠くの公園まで出かける神楽を、沖田は知っていた。会うことはずっと避けていたが、公園に入って行く神楽を何度か遠くから見つめたことはある。今日は自決するような心持を抱いて、神楽の来る時間を憎からず待った。神楽は沖田を嫌っているが、待ち伏せされてることを知りつつ来る気配がある。神楽が来ると、胸の動悸がいくらか高くなる。そうして神楽を傍に置いている時でも、神楽のいない時間でも、神楽が自分に親しもうとしないことを気にかけ、またはそれを憎んで、罪人でも罰するように、神楽に酷い罰を与えてやりたくなる。神楽が自分になついて来ないということが、時に大きな問題になって、沖田の頭を占領していた。


(こんな幼い人妻の……。まだ稚い魔女のようなものだ。こんな女の心持を、こんなに真剣になって考える男が、あるだろうか? しかも恋する獣のような状態で……。土方は、もう駄目だ……あれは、もう、手遅れだ……)


沖田は、想った。もし神楽が、せめて少しでも沖田になついてくれているのだったら、俺は土方を始末したかもしれない。いや、たしかに始末したに違いない。沖田は、暗い額をはりつけて火のように暴れた土方を、目の前に見ていながら、そう想ったのだ。あの日、土方の胸の中で荒れ狂った炎は、鎮火もせず、いまもぐずぐずと燻っているらしい。
沖田は心のどこかで、土方を憎み、土方の居ない生活を夢みていた。それは大分前からのことだ。土方が居ない、神楽と二人だけの時間を夢みていた。自分と神楽との間は、何も土方がいてもいないでも、それでどうという関係ではない。だが、土方が傍にいなければ、気持ちが楽なのだ。重苦しいものを何処かで感じていないでいられる。自分はそれが出来る位置にいる。
沖田は、人間が悪魔になるということが、いかに容易いものかを知った。悪魔は神の傍にいる。


(いや、神の中にいるんだ)


と、沖田は想った。
自分の魂が悪魔の跳梁の場となったのは、若い頃から自分の周囲に土方がいたからだ。それがいけなかったのだと考えて、悔いにうたれながら、また一方では、死んだ姉の無念さに、心を痛めた。


「……男を二人、手玉にとるってのは、どういう気分なんでィ」


その日、沖田の突っかかるような態度は普段より特に厳しく、執拗であった。


「手玉にとってないアル……」
「旦那も、土方も、お前にクビったけだろーが」
「そんなの知ったこっちゃないネ」
「悪女みたいでさァ」
「いい女って意味アルか…?」
「悪女は悪い女でィ。 お前みたいにこざかしくて、淫乱で、ゆるい女でさァ」


沖田は、自分の抱いている苦痛も、自分の心の臓を悪魔の跳梁に任せてするが儘にさせている自分の、切ない魂の悶えも、何も知らずに、相変わらず沖田を嫌い、横着に怠け、少しでも早く自分の傍から逃げようとしている神楽を見て、不意な怒りを覚えた。神楽が、もう帰りたそうにしているのにも拘らず、沖田は言葉の鞭を緩めなかった。


「そのうちお前、淫姦の罪でしょっぴかれんじゃねーの。 そんなムラムラした顔して、デカい乳揺らして、その辺の男ども誘惑してよォ。 そういう股のゆるい女なんでィ、お前は」


神楽がさっき見せた、甘えを帯びたようすが、今日の沖田に更に火を点けている。
自分では知らずに、ふと固い殻のようなガクを破って尖端を見せる花の蕾のような、それでいて不思議にふてぶてしい、惹きつけられないではいられない媚態である。沖田の心の臓を掴んで、身動きも出来なくさせた、媚びである。
神楽は知らずにやったことである。いつになく厳しく言われたので、誤魔化そうとしてやったのだ。神楽は確かに、自分が土方を虜にしていることを知っている。それでそれを誤魔化そうとしたのだ。神楽が少しこわく思い、どうかして、沖田の厳しさを弛めようと思った時、思わず知らずに出た媚態である。可愛らしい様子をして、うまく誤魔化してしまおうとした、ズルい心持があった。その狡猾が、沖田には酷く可哀らしいものに見えた。神楽が甘えるように身体を捻った時、沖田は、何かの柔らかな、小鳥の尨毛のようなもので、胸を逆さに撫で上げられたように思った。しかもその柔らかなものの中には女の狡猾があった。沖田の、あまり感じたことのない、一人の女の狡猾が、柔らかな甘えの中に、薔薇の芽にある棘のように引っかかっていて、それが沖田の胸を小さな痛みで、突いたのだ。そんな様子をした神楽が、沖田は憎らしくてならないのだが、その様子は同時に、その上にも厳しくしかりつけてやらなくではいられなくなる、残酷なほどの厳しさで言葉の鞭を繰りかえさせてやらないではいられなくなるような衝動も、沖田に与えたのである。


(震えているのか……俺の手は……)


沖田は、我にもなく自分の指が震えるのを感じた。


「旦那だけじゃあきたらず、土方ともセックスしたいんだろ」


沖田の暴言に呆然としていた神楽の顔が、怒りなのか、頬のあたりがさっと朱をはいて、唇を噛みしめている。
その白魔のような、重い滑らかさを持った皮膚が、一層潤いを持っていて、沖田の胸を掻き乱してきた。


「セックスしてやれよ。泣いて喜ぶか、自殺でもすんじゃねーのアイツ」


沖田は言っていて、自分で頭に血が昇った。


「俺もお前の裸で、想像してるぜェ。 気持ち悪いだろ? だけど、お前が悪いんだ」


神楽は沖田の暴言に嫌悪を露わにしたが、そむけた顔の頬から耳が紅潮するのを、沖田は見た。


「俺のことが嫌いだろうけどよォ、旦那のことも、本当は好きじゃないんだろ?」
「好きアル」
「いーや好きじゃないね。 旦那がお前を溺愛してるから、旦那が好きなだけだろ。そうだろ」
「好きアル!」
「お前は、好きでもない男にセックスされまくって、…いや、調教されまくって乱れる、淫乱な女なんだよ」


神楽はぷるぷると震えて、顔を真っ赤にした。と同時に小さな咽喉が何かを飲みこむように、鳴った。愕きと屈辱で頭が一杯になったのだろう。神楽は幼い子供のように手放しのまましゃくりあげて泣き始めた。
沖田の顔は、神楽がいつも嫌う、鋭い眼が光り、唇は微笑うような形に白い歯を見せた顔になっていた。沖田は、神楽をじっと視ていたが、頭全体が熱くなったくるめくような怒りが、潮が引くようにすっと退いて、恍惚とした、羽毛の上に乗ったような或るものが手脚の末端まで流れるのを覚えた。その恍惚の中で、この上にも追い打ちをかけて泣かせてやりたい欲望が、体を痺れるようにさせながら、突き上げるようにして起きている。
沖田は危うい際で、自制した。
一方で、沖田の中の常識は、狼狽していた。
何かで冷やされたように、理性のある心に還ると、沖田は、神楽の肩を両掌で軽く抑え、まだそむけている神楽の顔を、覗きこんだ。


「………俺が悪かった……チャイナ。 泣かないでくれよ……。俺が悪かった」


沖田の両掌が感情を籠めて、優しく神楽の肩を抑え直すようにした。そうして、ふとポケットを探ると、ハンカチを持って、神楽の肩を抱いて自分の方に向かせ、またしゃくりあげている神楽の涙を拭いてやろうとした。
神楽は最初、沖田の暴言に、愕きと憎しみで頭が混乱していて、懸命な沖田の言葉も耳に入らぬようすで嗚咽し続けていたが、次第に、沖田が自分に詫びているのが判り始めると、少しずつ嗚咽が治まって来ていた。だが、沖田が銀時のように、自分の涙を拭いてくれようとするのを見て、白いハンカチを認めると、悲しみがまた嗚咽を塞いで、新たな涙が溢れ出た。ハンカチを当ててくれる沖田の掌の中でしゃくりあげ、それから沖田の掌を押しのけ、小さな掌でハンカチを顔に押しあてて、咽喉をひきつけるようにして、嗚咽するのだ。
沖田は悔いに胸を痛め、だが痺れるような想いに耐え得ぬ様子で、神楽を見守った。


(俺は、こいつが欲しくてたまらないんだ……)


自分の掌が、冷酷な、尖った指で、小鳥の咽喉を扼してしまったような想いがする。彼は震える手先で、神楽の汗と涙とで耳の辺りに張りついた髪を、きれいに撫で上げてやっていた。だが、少しずつ神楽の悲しみが溶け去って、咽喉の嗚咽が鎮まってくるのを見ると、神楽の様子が哀れであればあるだけ、自分の胸を切ない恋の悶えの締め木にかけ、そうしておいてなんの感動もなしに、自分の掌から飛び立とうといているこの小鳥を、もう少し傍において、泣かせ、いじめつけてやりたいという、胸の奥で再び火を点けられたあるものが、燃え上がってくるのを覚えた。
沖田は再び、自制した。


「言い過ぎたことはわかってまさァ……。 でも、そんな泣くことねぇじゃねーか…」


沖田は背を屈めるようにして、神楽の顔を覗きこんだ。
神楽は目を大きく開いていた。まだ涙のある大きな青い眼は、奥底になにかを潜めている。神楽は胸の奥に小さな、罪の意識を抱いていたのだ。神楽は自分が、沖田を好いていないのにも拘らず、沖田が自分を好いて、五月蠅くするのを、幾らかおかしく思っていた。それを沖田が判っていて、それで、あんなに厳しくして、罰をしたのではないだろうか? という懐疑を抱いている。それが恐怖になっていて、まだどこかに幾らかの恐さが残っている。その胸の奥に隠れている、罪の意識のようなものが、神楽の眼の底に、小さな炎のように動いているのだ。
沖田は、自分には解らぬ、その微妙は表情に、深く惹きつけられた。


「許してくれるかい……?」


神楽の大きな眼が動いて、沖田を見た。神楽は何か解らぬ、魅するような眼で沖田を見ていて、小さく、顎を頷かせた。
沖田は恋する男のように、胸がときめくのを、覚えるのだ。沖田の頬からこめかみにかけてを、薄赤い血が昇っている。


「俺はしばらく京に行ってくる。 一ヵ月は会えないぜィ。……さびしいかィ?」


神楽は沖田の様子に、幾らか、迷子になったように見えた。だが神楽にとって沖田は、ひどく五月蠅い、倦厭する存在でしかない。ただ沖田のメランコリックな話の調子に、誘いこまれるようになって、ふと寂しさを覚えたのに過ぎない。


「せいせいするアル……」


と神楽は小さな声で、言った。
神楽を公園の入口まで送って出た沖田は、泣かせた神楽にニヤリと嗤った。


「泣いてる顔も、可愛かったぜィ」
「うるさいネ…」
「お別れの接吻でもするかい?」
「いやアル。ばーか」
「やっぱ、可愛くねえ…」


そう言いながらも、少女は自分をどこかへつれて行かせる、自分を抑えられなくするものを、持っていた。沖田は骨を刺す切なさを覚えると同時にふと、神楽の眼が、既に数分前の憂愁を、拭いて取ったように無くしているのを見た。そうして、ただ早く帰りたがっている気配が、肩の表情にも出ているのを知った。


(何という気分の変化だろう……)


だが沖田は今日、愕いて泣いた神楽を、しんから気の毒に思う理性を失わぬことだけは出来た。
今日の、半ば狂ったような沖田の根底に、彼の理性はいつも無くならずにいて、それが沖田の嵐を、その日幾度も抑えたのだ。理性の鋼の一線を踏み外して、少女に恋の接吻を、与えたい。そうして胸に詰まり、悶えている愛のしるしを、神楽の上に残したい。それが出来ぬのならせめて、神楽を尚も追いつめて叱責しようという、そうして絶え入るほどに泣かしてやりたいという、沖田の体の内側に燃えさかりつづけた、常軌を逸した、それは火のような嵐であった。
神楽は道の向こうで一寸ふり返って、沖田を見た。神楽の大きな眼は、底に先刻の罪の意識と怖れの戦ぎを潜め、それでいてどこかに、沖田を自分の虜にした、というような、そんな感情も、意識の中にないでもない。そんな眼だ。
沖田はふと、よろめくようになった足を踏みしめて、神楽を視た。そうして、いつまでも記憶の中に蔵しておこうとでもいうように、凝固した眼で、その可哀らしい眼から離さずにいた。






fin


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09/03 17:29
[銀魂]




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