凍て蝶舞いちづる








髪が痛んだ。


いままでお団子にしか結ったことのない桜色の髪を、花魁のように高く結いあげて、花や簪で飾り立てれば、異様に可哀らしい神楽の美貌は、将軍の寵子といっても差し支えないほどの華やかさだった。 だが、慣れない髪形はひきつれて、酷くこめかみが痛む。
小職の一人がかかげる鏡のなかの自分は、目尻がつりあがって見えたほどだ。姐(あね)さん太夫の傍にひかえて、お手舞のひとつも披露する頃には、頭痛までしてきた。


ここ、吉原にある老舗のひとつ、通称 『鯉の館』 とよばれる遊郭の夜はこれからが本腰である。
子供といえど、禿から早くも引込禿となって太夫の世話を任された神楽には、最初の客が座敷を去ったあとが長かった。


置き屋から、『鯉の館』に来てまだ二週間と少しだ。


広大な酒楼をどのような客が待機しているのかまで神楽にはよくわからない。太夫がいまどの部屋にいるのかも、正直わからなくなってしまった。
そこらじゅうから溢れる笑い声や歌声、三味線や小太鼓の雅楽、そして……しのびやかに漏れ聞こえる嬌声。昼間なら好奇心から覗き見をしようと意気込んだかもしれないが、頭痛を堪えるのでいまは精いっぱいだ。
女将さんから太夫への伝言を頼まれた神楽は、ズキズキ痛む頭に泣きそうになりながら、迷路のような廊下をおぼつかない足取りで進んでいた。
下手に頭を動かせば、また髪がひきつれる。それは今となっては、ほんとうに泣き出したくなるほどの苦痛だった。 そのため、神楽は忙しない廓のなか、人形のようにまんじりともせずに、早くこの拷問が終わることだけを望んでいた。

……と、ようやく、箱庭を挟んだ廊下の向こうに、姐さん太夫の姿を見つけた。ここからだと庭に下りて小さな太鼓橋を渡ったほうが早いだろうか?
懸盤を持ってうろうろする小職にぶつかりそうになり怒られつつ、神楽は早足で庭に下りようとした。


「これっ!」
「え…?」


先ほどぶつかりそうになった小職が怖い顔で神楽を睨んでいた。



「足袋のまんまで庭におりたらいかん!」
「…だって、太夫姐さんが……」


ついていらっしゃいとばかりに顎で促す小職に従い、神楽は頭痛を堪えながらも、仕方なくしずしずと廊下を歩いた。






□■






「神楽や、 ちょっとここにおり……」


お使いを果たした神楽にそう笑いかけて、先ほど太夫が入っていったお座敷の廊下と、庭を挟んだ向かいの間で、彼女はちょこんと待っていた。
八畳ほどのこじんまりとした和室に、何人かの小職が居丈高に入れ替わり立ち替わり、膳を誂えていく。
どうやら新しく太夫のお客が参ったらしい…。
少々離れの趣きをみせるここは、床の間に簡素な山水画が掛けられただけの、酒楼のなかに数多くある奢侈な部屋とは一線を画す淋しい雰囲気だった。
小職のひらいた障子のむこう、薄暗い部屋の隅には紙燭と暖をとるための火鉢、それに二客の床几がぽつんと置いてあった。


「こちらにお客様が来るアルか?」
「そうだえ。 おまえが太夫が来るまでお相手をするんだ…」


神楽は小職の顔を心持ち見上げ、言葉の続きを待ったが、彼女は忙しなく部屋の中を見渡し、粗相はないかと確認している。
小職というものは、だいたいがむかし良家の没落令嬢であることが多かったため、禿の…しかもこんな畸形児には、口をきくのも惜しいんだろうかと、神楽はまた少し寂しく思った。
子供ながらにゾクリと眼を惹く神楽の姿は、白粉いらずの病的なまでの白さや、その珍奇な色合いの数々が気味悪いと、ここに連れて来られた当初から陰口や蔑みの対象だった。
薄紅色がかった淡い髪質もさることながら、青い瞳はこの国では禁忌にも等しい。
生まれつきの色素の異常で畸形だと判断されたのは、わずか三つのときだった。 貧しい村だ、一時は、呪われた鬼子として忌み嫌われ命も危なかったらしいが、死んだ母親と父親が賢明の命乞いをしてくれて、ひっそり隠れて生活することだけはどうにか赦された。
天然痘などとちがって…、予防の方法もなかった生まれつきの畸形児は、キチガイと紙一重で扱われる。ある遠い天竺の国などでは、手足が六本もある赤ん坊が生まれてくると、神子として重宝されると聞いたことがあったが、それにはほど遠い地獄を、神楽はこの13年間生きてきた。
父親が死んでからというもの、路頭に迷った神楽が見世物小屋に売り飛ばされそうになったところを助けてくれたのが、この遊郭に仲買で働いているお太鼓持ちの男だったが、まさかここの女将・お登勢のお眼鏡に引っかかるなど、神楽とて思わなかった僥倖だった。 こうしていま、禿として飢えない生活が出来るだけでもありがたかった。引込禿として神楽の面倒を押しつけられた太夫は、意地悪ではないが贔屓もしない気風のいい性格だったし、此処に来て初めて、神楽は人らしい生活を送れているといっても過言ではない。
けれど、やはり整った美しい造形はこの場合、さらなる畏れの対象ともなるのだ。
所詮、ゲテモノはゲテモノ。
痘痕顔みたいに醜女としての 「死ぬほどの苦しみ…」 はなかったとはいえ、神楽のようにキチガイ扱いされた畸形は、生きていくこと事態がどこでも厄介だった。
事実、痘痕や迫害を苦にして自殺を遂げる若い女はいくらでもいた。
神楽は、ふり向いた自分の顔を間近に見た者たちの表情の動きを、冷ややかに眺める癖がある。はじめて、自分の顔を見た人々の表情には、


(まあ、なんという珍奇な……)


という嘲笑と、


(これでキチガイか。可哀相に……)


その畏怖をまじえた憐れみとが、ないまぜになってあらわれる。
はじめは、それが辛くて苦しくて、たまらなかったものだが、今の神楽は、そうした相手の表情の動きをたじろぎもせずに凝視している自分の視線に、相手が慌てて目をそらすのを見て、ざまぁ見るネ、と思うようにもなっていた。 そしてそうしたとき、神楽のか細い体を、一種異様な快感と、するどい悲しみが走りぬけるのだ。



「あの……」


神楽を床几の傍に座らせ、障子を閉めようとした小職に、彼女は思わず声をかけていた。
小職の描いたとおぼしき細い細い眉が片方だけぴくりと動く。だが、やはりどこか卑しいものでも見る眼だ。


「あの…、えと………なんでもないアル」


なにを聞いたところで虚しくなるだけだと、神楽は悟った。






□■






薄暗い和室のなかで、神楽はぽつねんとお客がくるのを待った。
じっとしていると、寒気がひたひたとつま先から忍び寄ってくる。 かじかんでしまった指先は、いざとなれば遠くに置かれた火鉢にかざして暖めることもできるが、凍える足は……。 その上、結いあげた髪はますます痛んでくるし、花やかんざしが重くて肩が凝ってくる。頭痛も治まらない。
あれからだいぶ待ってるような気もしたが、客人はまだやってこない。
そのうち、くうっとお腹が鳴った。 自分はどれほどこうしてここで待っていなきゃならないんだろう。 もしや、忘れられてしまったのではないか……。 そこまで考えて、はっとした。


(まさか、お客さまも迷ってるアルか……?)


まさか、と神楽は立ち上がった。
障子に駆け寄り、ぱんっと観音開きの戸を無作法にあける。
箱庭を通して向かいの部屋で陽気に笑うお侍の姿が楽しそうに見えた。初めて太夫に付き添う神楽を見たとき、明らかにじろじろと厭な顔をしたお侍だった。
それを見たとたん、ひどく惨めな気持ちになった。ぐっと涙があふれてくる。泣いてはいけないと、両手で顔をおおう。
そのときだった。


「どうした?」


低い声が頭上に降り注いだ。
神楽は手はそのまま、顔だけを声がしたほうに向けていた。


「お前ひとりか?」


白地の着流しをきた、ひとりのお侍が立っていた。


「どうした」


髪は銀髪をしていたが、年寄りではないらしい。どこか幽鬼のような風体をしていたが、身なりは悪くない。立派な帯刀をしていることから、幕府の人間だとわかった。
自分と同じく珍奇な姿に一瞬驚く。
だが、ふるふると首を横にふり、神楽はそっとうつむき、泣き顔を隠した。
その男は足音もわずかに、神楽の傍らにすらりと近づいた。そのときふいに、懐かしい薫りが神楽の鼻腔をくすぐる。神楽は思わず鼻をヒクっと動かしていた。
この匂いを、神楽は知っていた。


───たしか……そう…これは刻み煙草の香りだ。


それを好んで嗜んでいたのは───…



その男がすぐ近くに立っただけで、やわらかなぬくもりが感じられて。凍えていた神楽は、人がそばにいるだけで、こんなにもぬくもりを感じるものなのかと改めて驚いた。


「頬が青白いな。 寒いのか?」


素直に神楽がうなずく。


「火のそばにいればいいだろうに…」


火鉢を引きずり、座敷にどっかりと胡坐をかいた男が、いまだつっ立ったままの神楽を呼び寄せて、火鉢の横に座らせた。
紙燭だけの薄暗い部屋を見わたして、ふっと笑われたような気がした。


「どうやら、えらく寂しがりやらしい」


まさに、その男の言うとおりだったが、神楽はそれが子供のようだと思えてむっと首をふった。


「わっちは泣いてなどありゃあせん」


顔をあげた神楽に、一瞬目を見ひらいた。
しかし、



「そうか? だが、泣けば少しは気が晴れる」


冷たくもやさしくもなく、男はぶっきらぼうに言う。それがなぜか心地よすぎる声だったから、かえって神楽は寂しくなった。この男は、やっぱり太夫姐さんのお客なんだろうか…。


「すこし…」
「うん?」
「すこし…頭痛がするのヨ…」
「…そうか…。 髪がきつかったんだな……そら」


うなずいて、その男は神楽の髷から簪を一本引き抜くと、何のためらいもなくこめかみに挿し入れた。
神楽の耳のすぐ上で、きゅっと音がする。
椿油で光る珍奇な髪はきゅっきゅっと音をたてながら、簪を受け入れる。 つきつきと髪がつれて痛んだ。 が、男がさっと簪を引き抜くと、頬のあたりが緩んだような気がした。


「ほら、これでマシになったろ」


男の言葉のとおり痛みが遠ざかる。 神楽は自分の肩がふっと軽くなったのがわかった。


「あんまりきつく髪を結いあげるとな、男でも血の巡りが悪くなる。すると頭も痛くなる。 今度からは結うときに、ちゃんと言って調整してもらえ」


そう言って男は目をすがめて初めて頬をゆるませた。
ニヤリ、と、その形容のままに小気味よい笑みに、神楽は胸を衝かれたような気がした。それほど、神楽には印象的な笑みだったのだ。
改めて見た男の顔は、とても整った部類らしい。一瞬、死んだ魚のような眼だとも思ったが、その切れ長の、多少眠たげな生気のない瞳に、今度こそ明確に懐かしい人を思いだす。
…もう二度と、この現し世では会うことの叶わなくなった人だ……。
神楽は、目の前の男になぜか父の面影を見た。
決して父と呼ばれるに相応しい年嵩じゃない。自分の仕える姐さん太夫とそう大差ないことは、笑ったときの印象の青臭さでわかる。太夫はたしか二十四歳だったが、この男はそれより少し上くらいかもしれない。天然の癖毛なのか、無造作に後ろで括った銀髪が、ふわふわとしていた。古紫の房紐で束ねているところなど、ひどく粋に見える。
だが、目の前の…睨めばもう少しマトモに鋭くなるだろう眼差しに、神楽はいまは亡き精悍な父の面影を、見いだしたのだ。
色素だけを問題にすれば、自分と同じ境遇を辿った過去があるのかもしれないが、よく見ると整った顔の男に、異性に対してある意味引き込まれるような感覚に陥ったのは、はじめてのことと神楽には思えた。
そしてなによりもこの男には、ぶっきらぼうながらにも優しさがある。
先ほど、神楽をここに案内してくれた小職は、たいそう忙しない女だったが、禿であり畸形児でもある神楽に対する侮りを隠そうともせずに、言葉を惜しみ視線のひとつさえも惜しんでいた。 が、神楽の髪を直してくれたこの男は、死んだ魚のような眼を差し引いてあまりある、人としての誠実さが垣間見える。素直に髪が痛いと言えたのも、顔をあげた神楽を初めて見たときの男の表情に、悪意のない驚きの色しか浮かばなかったからだ。それに神楽は優しかった父を見たのかもしれない。
早く大人になりたいと願う彼女だったからこそ、自分とは一回りも年のちがう男の物腰や、女に慣れたその所作、そしてぶっきらぼうながらも優しい心遣いに初めて異性を意識したともいえた。





「いまのうちに、足の先も暖めておくか?」


男はからかうように神楽を見る。そのとき若干顎をそらしてみせたのが、どうしようもなく魅力的で神楽は見惚れてしまった。
腰からはずした帯刀を見るに、この人も位高い侍なんだろう。だが、神楽をなるべく威圧することなく不器用に接してくれている。
優しい人だと、改めて神楽は思った。
そのとき、すっと男が立ち上がり障子をあけた。


───あ…待っ……!


とっさに心の中で叫んでいたのは、男のまとう刻み煙草の香りのせいだったかもしれない。
出てゆく背中に幽かに薫る苦味ばしった香り。それは亡き父の好んだキセルの匂いだ──…


「あのっ!」


立ち止まり振り返り、「何だ?」と首をかしげて神楽に向き合ってくれる。


「名前を───?」


男が苦笑う。優しくすがめられた眼差しが神楽を見る。それを追うように洩れ聞こえる忍び笑い…。
低い笑い声だけを残して、その男は、神楽の前から歩み去った。


「待つネっ、お…お客、さま───」


神楽の呼びかけに答えるように、男の袖が意味をもってふわりと動いた。その観世水が描かれた紬の光沢は、妖しい朱楼の灯りをすべて集めたかのように鮮烈だった。
その無言の指示にしたがい、神楽はしばしぼんやりしたすえに部屋のなかにふたたび入っていった。


『そこで待ってろ』


そう言われたさっきの仕草を信じ、またひとりぽつねんと、お座敷で男を待つ。だが、あどけない口もとには、待ちきれない微笑が浮かんでいた。


神楽はほうっとため息をこぼした。それは暖かい吐息となって部屋に燻る。
極度の痛みと緊張のあとだっただけに、より一層好もしい存在として、その男の面影が胸に刻まれる。
遊里に囲われてからというもの、初めて出逢った素朴な思いやりに、神楽の心はポォと温かくなっていた。
もう寒くもなければ心細くもない。
神楽は、この館に来て以来、はじめて本心からの笑みを洩らしていた。









fin


more
07/28 18:28
[銀魂]




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-エムブロ-