さびしいヴィオレット色の甘皮







玄関から台所を抜けて、神楽は引き戸で続いている事務所 兼 居間に入って行った。
9月の気温の高い日だった。入って行くと、女性客──猿飛あやめは、微かに体を固くしたように見えた。ライラック色の長い髪を背に垂らし、いつもの忍者装束の服を着ている。歳は二十代前半だろう、赤い淵のある眼鏡をしているので外見は半ば思慮深く見える。
窓の外に目を外していた銀時の目がゆっくりと動いて、あやめの後ろにまわり、事務所 兼 居間に入って来た神楽を見た。
神楽はソファーに座ると、弛く拳固にした右の手のひらを、唇の上にあて、指を唇に入れようとするような手つきをして、あやめを見た。「久しぶりアルナ」と、黙礼の真似ごとのように心持ち首を動かしただけで、ただじっと見ている。あやめにとって、神楽のこのような態度は昔からだが、今はやはり居心地が悪かった。
もはや、この家は無断で立ち入ることはできない聖域なのだ。
あやめは、銀時が神楽を手に入れてからは、一切のストーカー行為を封印している。
昔のように、勝手気ままに銀時の物を物色したりできないし、屋根裏に籠って二人の生活を覗き見るなんてこともあってはならない。あの頃でさえ、それをすれば銀時に陰険に制裁されたのだ。今、二人の蜜の部屋をストーキングなんてしたら、間違いなく銀時の怒りを買うだろう。二人の、蜜の獣のような、ドロドロに爛れた甘い行為の最中を覗いたりなどすれば、銀時に殺されるかもしれない。



憎たらしいほど綺麗な神楽が、朝からぬめ光るような香気を出して、あやめを圧迫しているような気がする。
蜜を塗ったような神楽の全身からは、溺愛される者特有の傲慢さと、無防備さが見え隠れしている。
あやめの被害妄想かもしれないが、自分は愛されているのだ、という無自覚な自信が、体の内側から膨れ上がったように、一杯になっていて、こんな女なんか、と思っているように見える。
だが神楽の意識は、馴染みの女を見る、漫然とした興味、ただのそれである。
自分自身でもなにか判らない、何かの自信の据わった顔がどこかむっくり膨らんだようになって、相手を睨むようになっているが、神楽にあやめに対する敵愾心はなかった。要は、銀時の愛情を無意識にねだっているだけなのだ。
銀時の目は我にもなく、そんな神楽の様子に釘づけになっている。


あやめは気を呑まれて、これ以上相手を観察する余裕はなかった。ただ酷く長いように思われた数分のあいだに、これだけのものを感じ取ったのである。
強い相手に突然抑えつけられた、弱い獣のようなあやめは力無く顔を伏せた。羞ずかしい、居たたまれない屈辱感があやめを襲っている。そう感じる事自体が傲慢で、分不相応なのに、だ。


「で、要件は?」


銀時とあやめとから出て空気を固くしているものに関係なく、神楽は自由である。銀時が、改めて、神楽の蒸しだされるものに迷い込んだ具合で、神楽に目を当てながら聞いてくるのを、あやめは額で感じ取っている。神楽はそんな銀時の目を承知しきった顔で、ふとあやめから目を離したが、扉のノックにそっちを見た。
新八が煎茶を添えて持って来て、三人の前に配った。新八は体を固くして、気を使っている。筋金入りのストーカーではあるが、銀時に本気で恋をしていたあやめを知っているのだ。


「冷たいのがよかったアル」


神楽はそう言って、ソファーの背に凭れかかった。
銀時とあやめとが向かい合っていると、そこにはひどく静かな生々しいものが流れている。救いようのない、白けた場面の空気とは別に、かつてあった、今も、そこに余韻のようにある、その生々しい一方通行の情念を、神楽は部屋に入るなり、感じ取ったのだ。その静かな、自分の介入し得ない一つの世界を、神楽は探りあてていて、銀時とあやめとが、あの昔のようなやりとりをしている様子を想像すると、微かな嫌厭を覚える。一方で、そんな空気を、哀れな、惨めなものに考えてはいるが、自分が入ることの出来ぬ静かさを感ずる不愉快の方が勝っているのだ。


「9月にしてはまだ暑いもんなぁ」


冷たいお茶のほうがよかった、と言った神楽のことはひとまず脇に置いておいて、銀時が要件を再度聞き直した。神楽はむっと、こもったような目をまた、無自覚にあやめに向けた。
あやめは苦いものを呑み込み、座に耐えないようになっている。それを新八などは、強い痛みと一緒に感じ取っているが、どうしてやることも出来ない。
あやめは、銀時が神楽に気狂いのように恋焦がれ、溺愛してきたことを知っている。自分の恋が叶わないことも当に知っていた。ずっと一途に見てきたのだ。執拗なストーカー行為をしていれば、嫌でも見えてくるものがある。
だが、それでも、銀時との間にあった親しみのある親交(腐れ縁)が、突然すべて立ち消えになったことが頭では解っていても納得出来なかった。この半年以上、ずっと諦めきれなかったのはそのせいだ。元から神楽以外は眼中にない、といった銀時は、あまりにしつこくあやめが付き纏うと、ぞっとするような冷めた眼で彼女を睨み、時に冷たく突き放した。婚約した噂も聞いてはいたが、まだ神楽は15歳だ。法律上は無理である。邪険に扱われながらも、時に優しさを見せた銀時の、その思い出が、まだあやめの記憶にはまざまざとしている。あやめはもう一度銀時に会って、その目の中に、残っていないはずのない、親交の情を、残り火ではあったとしても、確かめたいと思ったのだ。
それで婚約の噂を聞きつけてきた全蔵にも、また誰よりも気持ちの通じ合っていてライバル(と思い込んでる)お妙の固い沈黙にもいわず、決行した今日の依頼であった。


あやめが銀時の目の中に確かめたかったものは、あった。
だがそれはあった、というだけのことである。
親しみは憐れみに変わっていて、しかも全く色褪せていた。そこに神楽が現れたのだ。自分への腐れ縁すら冷め切った銀時に、それとない労わりがあることもむしろあやめの哀しみを酷くするものでしかない。諦めが、水のようにあやめを浸した。
あやめはようようのことで煎茶に唇をつけ、


「それじゃあ……」


と言って、立ち上がった。
神楽を叱った銀時が、ほっと救われたように椅子に深く腰掛ける。


「あ、依頼は承ったから」


あやめは、銀時と、神楽との間に見る、自分には想像もつかぬ厚みを持った、愛欲というものの、充分に含まれた雰囲気に打ち負かされ、屈辱に塗れた自分を鋭く意識した。そう意識すること自体が苦しいのだが、どもって立ち上がる自分の醜い様子が、自分自身にわかっていて、首すじから背中、脇の下に、冷たい汗がじっとりと滲んでいる。


新八は銀時と神楽に居間にいるように言って、せめて自分だけでも見送ってやりたい気持ちがあったので、一人で玄関に送って行った。彼は神楽の、ほんの僅かな不機嫌を、無論見ていたからだ。不機嫌の理由も、朧気にではあるがわかっている。
あやめは新八の気遣いを知ったが、新八の気遣いを嬉しいと思いながら、その新八の気遣いさえ、恋に破れた自分を追い討ちにする鞭のように感ずるのだ。
あやめは背中に銀時と神楽の目を意識し、気持ち悪く乾いてゆく体の汗を感じながら、縺れるように足を運んだ。




そんな、先日の自分の失態を思い出し、今、あやめはまた冷や汗が湧いてくるのを感じる。
神楽のいろいろな様子、仕草を反芻するように想い浮かべ、神楽の言った言葉を、再び耳に聴くように耳を澄ましていたりすることが、深い苦しみを伴った昂奮になりつつあるからだ。
自分はやはり真性のマゾなのだと、あやめは自覚した。
銀時の傍にいるとき、神楽が何か言うことはごく稀で、その数少ない言葉を、何か不機嫌な様子でむっと籠もったような目になって言うのがひどく可哀らしい。言葉の淡々としていること、むっつりと何かを言う様子、それは神楽の一つの特徴であった。
しかも神楽の体からは、揮発性の、それでいて重く、甘い、霧のような香気が発散していて、これを嗅いだ人間は、どこかで、自分が失われていくような戸惑いを感じる。あやめ自身もそうだった。
そんな神楽によって、銀時は自分の人生さえ滅茶滅茶にされることを希んでいる。その欲望は、他人をも感化させるのか、確かにあやめは、神楽の蜜に敗北する苦痛と同じくらい、恍惚を味わっていた。
睫毛が重しを載せたようになって、唇は無表情に膨らんでくる、あの神楽の顔は神楽の捕獲網である。
白い部分も、碧い瞳が滲みひろがったように昏くなる。重い目だ。神楽の重い目は確実に、あやめを捉えていた。そうして銀時はあやめが、神楽の網にかかるのを視ていて、どこかで揶揄ったような微笑を浮かべている。
あやめは、神楽のような女に、一生を捧げる男が見つかって良かったとさえ思うのだ。
神楽のような魔性の少女が幸せになる道は、銀時のような道化に堕ちても動じない──熱烈な寵愛者でなくては成り立たない。
神楽に適した嫁入り先の出来たことに安堵を覚えると同時に、満十六歳になった神楽の魔力のいよいよ、奇妙な、と言ってもいい程になったのを面白く思い、自分の女の成長を視る男のような心持ちを、覚える。


あやめは、蜜を塗ったような綺麗な神楽の身体が、夜毎、寵愛される光景を脳裏で描くだけで昂奮した。
そんな時間の中で、あやめの眼はふと、宙に向く。婚約をそれとなく知らせにきた服部が思い出され、あやめの目が柘植の前髪を深く降ろした服部の上に止まる。するとあやめは、少なからず苦痛を覚えた。必要以上に、深く俯けられているように見えた服部の表情が、あやめには見えないでも手に取るように、解っている。あやめには服部の胸の底にあるものがわかっていた。それはつい半年程前までは、あやめの胸の中のものでもあったからだ。









fin


more
07/25 17:17
[銀魂]




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-エムブロ-