鎧なき騎士











シンデレラ、君のガラスの靴はワルツを踊れた?














あの日、あの時。
阿伏兎は少女の方を向き、思わず同情的な動作でその頼りない腕を取った。
とにかくこの子は明日から…生活の“盾”を無くすのだ。そう思えば思うほど、たとえ一時的にしろ、残酷なことに違いなかった。


『──神楽、俺は明日ここを出ていくよ』
『神楽も連れてってくれるアルか?』
『うぅん、神楽、お前は連れていかないよ』


数分前そう言って、妹に変わらず “おやすみ” のキスをした兄。二人が一族に拾われてからもう七年も経つ。
阿伏兎が二人の世話を任されたそのまんまの年月だ。


『兄ちゃんは……神楽が嫌いになったアルか?』


その時、少女は眼を伏せたまま静かに言った。


『そう思うの?』


少女の兄はにっこり笑いながら言う。


『お前はとても聞きわけがいいし、俺とちがって、義父さんのこともちゃんと好きだろう?』
『…うん』
『俺はね、神楽。 お前のそういうところに飽き飽きするんだよ』


彼女の兄は相変わらずニコニコ笑っていた。けれどその声には何かしら変わった響きがあり、それが阿伏兎の心を摶った。
少女はうわの空のような口調で最後に言った。


『 妹でも……飽きるアルか』




阿伏兎はあの時、二人とよほど関係ない自分の心臓の鼓動が早く打つのに驚いていた。
神威はいったいどういうつもりなのか? ───まるでいつもと変わらぬ様子で阿伏兎にも、「明日から台湾を拠点にする」
そう言ってお前だけは連れてってやるから準備しろ、と命令するのだ。
しばらくは台湾を拠点に東南アジア全域で幅を利かせる、急にそう言い出した。
もう義父(おやじ)には許可は取ってあるし、事実上、彼はボスでもある義父の養子なのだから、誰も文句は言わないだろう。 ようやく真面目に仕事をしようと思い立ったドラ息子を誰が止める? 
ボスはむしろ喜んでいるに違いない (後で確認は取るが…)。
でもあれだけ妹にべったりだった神威が、急に彼女に飽きたなど……その豹変ぶりに阿伏兎は戸惑わずにはいられなかった。
昨日まで何の変わりもなかった兄と妹。
その兄がまるで手のひらを返したように妹を捨てる。 今までの……要するに、妹に対する兄の見下したような寛容さと、高圧的な態度を別にすれば、普通の兄妹とちがったところはなかった。
ともすれば可愛がりようが尋常じゃなかっただけに、そら恐ろしい感じまでした。
彼はこれからの少女の生活がだいたいどんなものか想像できる。さもしい言い合いに、媚びの売り合い、妥協と孤独の生活。
それもすべては彼女があまりにも美貌で、あまりにもいかがわしいので、ある種の男たち、部下であろうが召使であろうが、ある種の特権の、ある程度の権力をもつ男たち、つまり阿伏兎のような男たちの理想的な餌食(手段)だったからだ。
少女の少女らしからぬいかがわしさ、その豊かな暮らしと引き替えに手に入れた──世間的にいえば幼児虐待とも取れる境遇、少女には 「師父」 と呼ばれる特別な教師がいたことも、阿伏兎はそれなりに知っている。
特別な教育、特別な知識、特別な作法、……そういったものがこの世界で生きていかなければならない女には必要だった。
蝶よ花よと育てられ、何の疑問ももたず遂には顔も知らない相手に嫁いでしまう娘も多いなか、阿伏兎のボスは、少女の兄にも劣らぬ可能性に目をつけ、それなりの人生を歩ませるつもりだ。
けれど昨日、そう───まだ昨日のことだ、…彼女はまだ十二歳になったばかりだった。
めったに本拠地にいない忙しいボスやその忠実な部下の代わりに、後ろ盾となってくれる兄や阿伏兎のような人材が明日からすぐにでも彼女を守ってくれるわけでなし。
誕生日から一夜明けた今日、彼女の兄の放った残酷な一言が、昨日彼が少女に手渡した膨大な数のプレゼントの山を償うほどのものだろうか?
色々自分でも紛わしてきたが、一瞬チリリとよぎった恐ろしい思いつきに、彼はそれが馬鹿げた思考だとある意味一瞬で切り捨てた。そんなはずはない、神威は空気のように自由で、あらゆる女、あらゆる贅沢にさえ身を任すことができるのに────。





兄が部屋を去った後も、しばらくは茫然と立ち竦んでいた少女の傍に阿伏兎は従った。 出来れば自分は、この少女のもとに留まっていたいのかもしれない。そうすべきで、それを神威に言ったところであの兄は否とは言わないだろう。
「勝手にすれば?」、そう一言、ケチをつけるぐらいだ。そうして、しばらくは滞在するという東南アジアの美しい海での休暇を棒にふるなんて、「お前も物好きだね」、それくらい付け足すだろうか。




「阿伏兎も行ってしまうの?」


ぽつり…、呟かれた少女の反応に、阿伏兎はそっと、そっとその腕を取った。
白く、細い、少女の肉の腕……。
彼は急にあの忌まわしい秘密クラブと、少女の第一印象とを想い出していた。同郷の兄の少年にぴったりとくっついて離れない、あの困り果てた幼い横顔…。金満家の年取った男や物好きな婦人たちが、間近に顔を寄せていかにも子供たちの顔かたち、その奇怪な容貌を見て興味津々にしゃべっている。その中でふたりは飾り棚に押し付けられて、逃げることもできないでいた。
この光景を見て阿伏兎も、彼のボスもはじめはうんざりしていたが、次第につのる恥知らずな想念にとらえられながら、ふたりを注意深く観察しはじめたのだ。
ああした秘密クラブは、文字通りマーケットであり、展示会でもあった。いわゆる人間が売り買いされる地下競売ともいわれる代物で、爛熟しきった金持ち連中がいまにも子供や美貌の青年、娼婦たちの上唇をまくりあげて犬歯を検べはじめるのではないか、と思われる悪趣味な浮薄に満ちていた。
結局、ボスはそのクラブの女主人、一族の系列に当たる大幹部の女傑にあいさつをしにゆき、阿伏兎をその場に残して退屈なパーティーにピリオドを打とうとしていた。
けれどその時、ちょうど少年少女も解放され、いかにもほっとした様子を見せたので、阿伏兎は思わずといった感じで苦笑ってしまったのだ。 この阿伏兎の苦笑いがボスに、彼らの義父となる男にいたずら心を起こさせたのだろう。
夫人はいやいや二人を阿伏兎たちに紹介した。それからはおきまりの会話、コミュニティ間のうわさ話がはじまり、あまりそうした事情に通じていない阿伏兎は、相変わらず兄の影に隠れるようにこちらを窺う幼女の様子を見守った。
初めはもしや病気かと思った桜色の髪や、紫色の瞳は、血の濃さゆえの畸形児の証だと知らされた。兄の少年にもその吉兆はあったが、幼女の比ではない。
肌の白さは生まれつきメラニンが常人より少ないのだという。包帯をされた足は、彼も本でしか読んだことはなかったが、纏足という古代中国の風習だった。買い付けたのは、彼らも聞いたことがないような山奥の僻地で暮らす部落から。
本当にその手の嗜好の持ち主ならば、一生籠にいれて飼い殺しにでもしたくなるような子供だった。美しさの基準でいうと、比較のしようがない、あまりにも珍奇で、歪で、神の領域に踏み込んでいた。
一時間後、彼のボスははっきり子供たちが気に入り、阿伏兎を彼らの世話係として任命した。
『冗談でしょ…』
彼の第一声はもちろんこれだ。
子供を持たなかった我がボスの気まぐれに、阿伏兎はいやな予感を抱いた。
そしてそれは数年後、しっかり的中することにもなるのだ。




「阿伏兎?」


少女の声に、はっと我にかえった。 彼女の透きとおるような白い肌は、いまや死人のように蒼白くみえた。これが見離された者が魅せる絶望の色だとしたら、こんなにも愛しいものはない。阿伏兎はこの少女がいとおしかった。彼女を独り残して、あの馬鹿げた兄貴に従いていくなど愚の骨頂だった。けれど、あのドラ息子もひとりにはしておけない。あらゆる意味で危険だ。
そういった意味で、神威もこの少女も阿伏兎にとっては手のかかる自分の子供みたいなものだ。
兄よりも断然白いこの異様な肌が、その悪魔のような瞳が、南国のビーチで危険に晒される様子を束の間…・まぶたの裏で惜しんだ。
神楽に海を見せたら、さぞ面白いだろう、と阿伏兎は思う。少女はもちろん海は知っているが、上海にある濃紺の海ではなく、煌く珊瑚礁でできたエメラルドの海を見たことはまだ一度もないはずだった。
彼女は何に対してもはじめて発見するような様子をみせる。それが可愛くて、子供らしくて、せつなかった。


「お嬢…」


阿伏兎の声に、少女が膜を張った瞳で見つめる。希望の入り混じった怖れのような感情を抱きながら。桃色の長い睫毛はすでに悲しみを、人生の悲しみを知っている。



「……神威のことは、心配いらねーよ。」



それだけ言うのがやっとだった。
今生の別れでなし、会おうと思えば自分はいつでも会えるのだ。
人生は選択肢の連続だ、まったくだ、彼は苦くわらった。
何も兄の神威を少女より心配しているわけではなかった。
彼女は「気をつけてネ」、そう言い、自室の前まで送ってくれた阿伏兎に小さく “おやすみ” のキスをする。
その少女が、もしいつかこの世界に本格的に参入する時がきたら、自分は今までと同じように傍に付くことができるだろうか。そうする勇気がもてないだろうと思った。
永遠に傍にいて忠誠を尽くす、ならそれはきっと遠くからのほうが好ましい。
近すぎれば近すぎるほど…いつかは少女を傷つけるかもしれないと怖れた。 彼女の兄のように……。
つまり、それが自分の真相なのだろう。











改めて、17歳になった少女を見つめる。
異国にわたった彼女は、夜の世界でまだ未成年にもかかわらず、大それた存在感を放っていた。すでに履きこなすことに馴れた絹のストッキングや高いヒール、大胆なカットの優雅なチャイナドレスをひるがえす。
彼女の向かいに陣取る金髪とケツ顎の “両腕” は、彼女に生活費を全部出してもらって、衣類から宝飾品まで買ってもらい、それを拒みもしないのだ。
けれど紹介されたその二人に彼女があまりにも懐いているので、阿伏兎は極力いやな顔はつくらなかった。
神威が言うほど最悪でもねェじゃねーか、魯迅の愛した琥珀色を舌のうえで転がしながらそう思う。
金髪が阿伏兎の飲む 『女児紅』 をさりげなく注ぎ足してくれる。ケツ顎が手間のかかる妹のように神楽が悪酔いしそうな強い酒を取りあげる。まるで彼女の存在がこの世の何にもまして重大事でもあるように…。
───ほんの五年前、少女が望んだであろう兄の態度にじつに近い……。
すべてはあの夜からはじまったのだ。
神楽が立って阿伏兎を踊りに誘った。


「阿伏兎…」


あの頃より数段甘い声が彼を呼ぶ。
ふたりは彼女が子供のころにおふざけでそうしたように踊った。
少女は頬を何度も阿伏兎の胸に寄せ、クスクスと笑う。彼は目の前をぼんやりと眺めていた。くるくる回る他の踊り手たち、笑いながらのけぞる顔、期待に緊張する顔、女の背中に所有を示すように当てられた男たちの手、リズムに従う肉体……。
人生は選択肢の連続だ。 けれどことによったら人生はすべて手のほどこしようのない混乱なのだ、と阿伏兎は思う。そして自分がもう十歳ほど若かったら……この横顔をどんな手を使っても自分のモノにしただろうと思わずにはいられなかった。



「人生は過ぎ、私は残る、阿伏兎も残る。───幸いなことに、ネ?」













明け方、彼らはすがすがしい空気のなかに出て、深く息をし、神楽のロメオがふたりを阿伏兎の泊まるホテルに連れていった。
ふたりは何も言わなかったが、しかしドアの前で懐かしい “おやすみ” のキスをした。
眠るために帰ったのではないその部屋から、阿伏兎はそれから数分後、いつものように痕跡を消した。










fin



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07/24 16:25
[銀魂]




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