隠り世の川音







目を覚ました神楽は、頭上に舞う明るい細かな粒子に気づいた。
庭に面した雪見障子が開けられ、そこから朝の光が入っている。夜の間にひっそりと地に落ち着いた空気中の微塵が、早朝特有の白々しい陽光に反射している……。
眩しいと思ったのは、雪見障子の下半分だけが開け放たれていたせいだった。
それは直接神楽に降り注ぐことはなかったが、数センチ離れた畳の上を長方形に照らし出している。薄陽(かげろう)の翳りに包まれた部屋のなか、仰向けの状態から、コトリと首だけを反対に傾けると、そこだけ少し荒れた藺草の状態が鮮明に見える。
………雪見障子を開けたまま休んでいた記憶はなかった。床から垂直にたてつけられた低い障子だ。誰かが庭を通って少し覗き込むでもすれば、低い座敷楼のなかは丸見えになる。
神楽は慌てて───といっても自分では精一杯の焦りで───緩慢にしか動かせなかった身体を横向きに倒した。


「…あっ!」


胸がはだけ、下半身が捲れ上がっている。乱れきった浴衣に神楽は思わず声を上げた。
薄い霞がすりの月白地に、鶯色の涛松が施されたそれは、もちろん神楽のものではない。腕も裾も袷もすべてが余っている……派手ではあるが男物の浴衣だ。ゆるく結ばれた腰紐だけでかろうじてとどまっているにすぎない。


一気に昨夜の記憶が甦った。


昨夜……。喧騒に彩られた町に慣れ親しんでいただけに、この寂れた荒廃を誇る静けさは、少々不気味で、与えられた部屋でいまだ朦朧とする熱に侵されながら、神楽はひとり眠れぬままに寝苦しい夜を持て余していた。
すると、またしてもあの男がやってきたのだ。
人も天人も変わらないといわれ、唇を塞がれた。
それだけで混乱した。
逃げようとしたが、いつしか懐に手を入れられ、小さな頂をいじられていた。唇も塞がれたままだった。舌が巧妙に動き、唾液を絡め取って────


(……やっぱり……夢じゃなかったアル……)


神楽はそれからのことを思い出し、震える指先で顔を覆った。
男…、高杉はやさしい言葉で、しかし、脅かすようなことを言いながら神楽を自由にしていった。


『こんなことしてるって、銀時に知られたら、どうなるんだろーな。
…あいつはよォ、爛れた遊びも好きだが、あれでけっこー誠実ぶる男だからよォ…。お前がこんなふしだらなことしてるってわかったら、きっと追い出しちまうんじゃねェーか?
もっとも、俺はこんなことがイケねーとは思ってねーよ? 遊郭で女抱くのも、お前みたいな宇宙人のガキ犯すのも、何にも変わんねェさ。世間のしがらみに囚われたってなんもいーことあるめェ。俺はアイツと違って自由だからよォ、怖いことなんかねーのさ。
……ま、どうせ警察にも追われてる身だしな……』


銀時によからぬことをバラされては困る。何より…けっして知られたくない。神楽は声を出せなくなった。
銀時の名を高杉の口から出されただけで、神楽は果てしない不安に囚われる。
いや…不安などではない、もはやそれは恐怖に近い。
銀時は神楽にとって特別な人だ。恋愛感情云々ではなく、純粋に親愛している。この男が言うとおり、見かけよりずっと純粋で誠実な銀時を、時に綺麗ごとで説きふせたがる銀時を、心底、いとしいと思っている。
だから…こんな…こんなことは絶対知られたくなかった。時に自分を眩しいものでも見るかのように見つめる銀時の視線を神楽は感じていた。だからなおさら、そう思う。知られては…、自分と銀時との間で培われてきた何かが…きっとその何かが…失われてしまうような気がする。たとえ今の状況の神楽を銀時が知ってしまったとして、彼が、こんな薄汚れてしまった自分を、汚されてしまった自分を、受け入れなければならない……認めれなければならない……その状況を思うだけで辛すぎた。
しかし、逃げたくても、数日間続いた高熱で身体は疲弊しきっているせいか、昨夜からいくら踏ん張っても力が出ない。
たとえ逃げ出せたとしても、フラフラとして走り出すこともできないだろう。いや…真っ直ぐ歩けるかどうかもあやふやだ。
すぐに捕まってしまうのが目に見えている。しかも、こんな乱れた格好だ。こんな姿のまま外に出る勇気もなかった。
それでも、ありったけの力で抗ったつもりだった。けれど、高杉の舌も指先も妖しくやさしい動きで神楽を切なくした。
何度噛み千切ろうとしても、ヒラリ、ヒラリ…とまるで蝶のごとく寸前で逃げきってしまうのだ。神楽自身は必死に歯を動かしモゴモゴしているつもりでも、高杉にとってそれは、緩慢な動きとなり、彼の欲情を煽るだけになった。
神楽は声を出すまいと耐えたが、鼻からくぐもった声が漏れるのを抑えることは出来なかった。
小さな子猫のような乳首をいじりまわしていた高杉の指は、徐々に下腹部へと移り、翳りのない秘肉を撫でまわした。
神楽は必死に膝を合わせていた。だが、口の中を這いまわる高杉の舌の巧みさに、つい力がゆるんでしまう。そのときを逃さず、内腿のあわいに指はもぐり込み、じわじわと奥に進んでいった。


『……濡れてるぜ……。ヌルヌルしてる……感じてるんだな……』


指がキツイあわせのワレメに入り込んだとき、高杉がククッと楽しそうにそう告げた。まだ残る微熱のせいだけではなかった。
その時、神楽の全身は確かに火が出そうなほどの火照りを感じたのだ。
高杉の指がそれからどう動いたのかはわからない。指が動くたびに神楽は大きく口をあけて苦しい呼吸をし、胸を喘がせた。
淫蕩な指遣いに、巧みな接吻けに。神楽の負担にならないように…と、そう思ったのかそうでないかはわからないが、そっと寄り添うように合わせられた硬い身体と男の肌に、間近で見ても気孔のまったく感じられないほど緻密な神楽の肌は、全身で息苦しいほどの荒熱を感じていた。絶頂の波がやってきたのは、さほど時間が経っていないときだった。
その直後、ドクドクと激しい心臓の音がしていたのを覚えている。だが、それから目を閉じ、いつしか眠りに落ちていった。




こうして目覚めてみると、高杉の姿はなく、夢でも見たのだろうと思いたくなる。
けれど、身に着けていなかった浴衣を着せられ、しかもそれはあの男のもので、乱れている。開けたはずのない雪見障子は開かれ、そこから寂れた庭が見える。
現実なのだ。
昨夜のことはすべて、現実だ。
思い出すだけで神楽はいたたまれなかった。
部屋の隅に置かれた文机の上の時計に目をやると、九時を少し過ぎている。それを目にし、神楽は重たい身体をうつ伏せにして、布団から起き上がろうとした。といっても……両肘をついて頭をもたげただけだ。少し動いただけで、頭の芯が痺れたようにクラクラするのは おさまっていない。汗がこびりついた身体は酷く気だるく、まるで鉛にでも圧し掛かかられたように重い。
しかし、昨夜のことを悠長に考えているときではなかった。
ゴロリと横に丸まった姿勢のまま、もたつく指で腰に引っかかった帯紐を、神楽は解きにかかった。
他愛も無いそんな動作だが、それだけでまた後頭部がズキズキと痛んだ。頭痛が酷いのだ。
何もかも鈍重な動きに心だけが焦り、さらにイライラが募る。焦れば焦るほど滑稽にも帯紐の結びは解けない。
高杉がやってくる前に、どうにかして此処から逃げ出さなければならないのに……。
高熱で意識が朦朧としていたとはいえ、まんまと彼に拉致されたまま……たぶん数日?…──わからない………少なくとも三日は過ぎてしまっているだろう。熱があるにもかかわらず、公園で遊んでいた日の記憶が曖昧だ。そう考えると、取り返しのつかないことに思えた。
特に銀時や新八のことを考えると、胸が張り裂けそうになる。きっと突然消えた自分のことを心配して、今頃探し回っているに違いないのだ。
たとえ神楽に悪気も油断もなかったとはいえ、すべては自分の体調変化を甘く見てしまった浅はかさが、招いた結果である。 とてつもない失態をしてしまった気がした。
……と、ここで神楽は、二度目の失態にも気づいた。ようやく解けた帯を放り出し、これまたもたつきながら肩から揺すって浴衣を脱ごうとしたのだが―――…着替えがなくては意味がなかった。
ぐるりと辺りを見渡す。あの日、高杉に誘拐された時に来ていた空色のチャイナドレスは……どこにもない。


(嘘…なんでヨ…!?)


慌ててもう一度帯を掴み結び直そうとした時。




「もう起きたのか……。まだ病み上がりだし、ゆっくり寝ててよかったんだぜェ?」




ギョっとして振り返ると、兵児帯を締め、海老染めの着物を纏った高杉が立っていた。


「ゆっくり寝てろっていったろ」


裾や袖に鼠色の雲水と抹茶の唐草模様があしらわれたそれは、いかにも粋人を気取るこの男に似合ってはいたが───そんなことは今の神楽の眼中ではない。咄嗟に袷を掻き合せた。


「今さら隠すこともあるめェ」


お前の身体は、奥の奥まで見せてもらったんだしな…と、いまだ寝乱れたまま蹲る神楽の全身を不躾になぞりながら、まるで嬲るかのように高杉は口の端を曲げる。


「それとも、真っ裸でお散歩ってかい、お嬢さん?」
「…っ……出てけヨっ……子供の…着替え見て……何が楽しいネ!」


言い訳をするにもしどろもどろになる。


「それにしては───…障子を開けたまま寝るたァ、おおらかなこった。他の奴らに見られでもしたらどうする……。まァ…布団は掛けてたから、顔しか見えなかったがよォ……」


神楽は喉を鳴らした。雪見障子を開けたのは神楽ではない。この男なのだ。だが、失態続きのここでの醜態を思うと、もぅそれだけで泣きたくなる。泣きたくなんかないのに。泣きたく…ないのに。
だけど…、風邪をひいた時は涙腺がどうしてもゆるんでしまうものかもしれない。すでに眼の奥が熱い。


「…出てけ…ヨ」
「これでも、二日は寝ずに介抱してやったんだ。感謝の言葉ぐらい貰っても罰はあたるめェ」


俯く神楽は、二日前にも熱に魘されながら高杉を受け入れたが、泣き咽た自分を覚えていない彼女は、眼の奥が熱くなってくるのを情けないと叱咤した。


「こ…子供なんか抱いて何が楽しいネっ!」




「お前が子供だって?」


ことさら隻眼を見開いて高杉は面白そうに哂った。


「銀ちゃんとこ…返してヨ……」
「返すも何も、すぐには無理だ。ここは京都だからな」
「きょう…と?」


知らない地名を出されて、胸にぐんっと不安感が押し寄せる。


「ここから江戸に帰るには、六時間ほど電車に乗らなきゃならねェよ」


高杉がおもしろそうに告げるのを、神楽は気が遠くなる思いで聞いていた…。










fin


more
08/19 15:54
[銀魂]




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