ミスリードは色褪せない








「そこ、違うぞ」
「えっ…あ、どこ?!」


ココ、と指を置かれた位置は、公式の当てはめどころか計算式の途中だった。
しかも小学生でも間違わないような一桁の足し算式。
あまりにあまりなミスに少女はがっくりと肩を落とした。
とんとんと小さな音を立てて置かれた指は長く骨ばっていて、彼女のものとは全く違う。
指の持ち主は呆れているだろうに、そんな感情を顔には出さずにただ眉を寄せていた。


「小学生からやり直したほうがいいんじゃねーの?」
「…うるさい」
「おいおい、教えてもらってる立場でその口はいただけねーなァ」
「先生は、私にだけスパルタコスアル」
「スパルタな、スパルタ」


頬を膨らませて見ると、教師は肩を竦めた。


「…マヨせん、ここわかんないアル」
「誰がマヨせんだコラ」


からかい混じりのその呼び名は、彼女が───神楽が言い出したものだったが。
いつの間にか生徒たちからもそう呼ばれ、銀八からはそれでからかわれてもいる。
しかし、わが進学高きってのスパルタ教師は、容姿端麗、経歴優秀、運動神経も抜群の男だった。(味覚センスは最低最悪だが)
何せ高校時代は剣道と野球の全国大会で、名だたるメダルを貰っている。が、なぜか今は高校の数学教師だ。
対して、留学生でありながら何故留学できたのかを疑ってしまうほどおバカに育った少女は、一回りもうえの男を見上げて、俯いた。



『教師』 と 『生徒』



現在自分たちが置かれている関係を表すのはその単語でしかない。
その言葉は神楽にとって実に耳慣れた言葉だった。
けれど、日本での自分の保護者代わりでもある銀八と、彼が悪友といってもいい間柄なのかはいまいち胡散臭いが、同じ職場にいてそれなりにタメ口をきいている土方とは、その単語ひとつをとっても妙にニュアンスが違うと神楽は思っている。
二人は確かに神楽にとって教師ではあったが、それだけではないものを彼らは確かに持っていて、そして今も繋いでる。
神楽は指摘された誤りの箇所を消しゴムで乱雑に消して、シャーペンを走らせた。


休み期間でもないのに・・・、この 『強化特別居残り実習』 と称された教室に閉じ込められるようになったのは、いったいいつの頃だったか…。
確か──…夏休み明けの小テストからだったと記憶している。
英語が100点、国語と社会と理科が赤点ぎりぎり、でもって数学だけが0点、とすさまじく格差を感じる成績に、学年主任が口を出してきたことからややこしくなったのだ。
留学生だという理由だけで神楽はいつも特定の教師やら生徒たちから、特別な目で見られている自分を感じる。
その目立ちすぎる容姿にも問題はあるのだが、素直で天然爆発、すばらしく愛嬌のある性格が好まれる一方、その毒舌とふてぶてしさで何を仕出かすかわからない未知数な素行にも注目されていた。
その小さくて細っこい体型からは想像もつかないほどの破壊センスと才能に目をつけた同じクラスの沖田が、面白がって喧嘩を売れば、窓ガラスやドアが粉っぱ微塵になるなんて事件も多々発生している。 要は問題児あつかいなのだ。
しかも土方が受けもつ数学で、かつてない0点という驚異的なワースト1を───それも一学期から連続で───叩きだしていた神楽を、担任以上に全責任を任されている学年主任が見逃すはずもなかった。
銀八のフォローなどまったく取り合ってももらえず、土方にしてもいい迷惑で、この時期ハズレな居残り実習はなかば強制的に執行された。
そう、なんにしても、双方イヤイヤで始まった居残り学習だった。
それもイジメに近いような気がして神楽はまったく気乗りがしないし、集中力もつづかず、当初のころは今度の中間試験も壊滅的なものになるだろうとウンザリしていたのだ。
だいたい、数学というものについて、神楽は小さな頃からそれこそ多大なる疑問を抱いている。
別に因数分解など出来なくたって誰も困らないではないか。簡単な引き算と足し算、そして掛け算さえ出来れば、生きていくのに支障はないはずだ。むしろいらないといってもいい。それが中学に上がったころから、やれ方程式やら分数計算など無駄もいいとこだ。



それがどうだろう。



もはや任されたのなら仕方ないと、一種の災害あつかい、また一対一で向き合うときにまったく手加減なしのスパルタ教師のおかげで、それもこれも少しは向上していっているような気が・・・しない──でもないのだ。
あらためて───自分の隠れた潜在能力を発見した気分?
そう目の前の教師に言えば、教え方がいいからだと一蹴され、馬鹿でも何度も繰り返せば覚えて当然だとも頭をこづかれた。
腐っても、留学生。 むこうの学校で基礎的な知識や学習能力については既に身についているので、彼が教えることはそれをどうやって応用に発展して使い切るか、ということだった。
中高からの数学というものは要は暗記に近いというのが、土方の教えのひとつだ。
公式を覚え、パターンを覚え、何度も何度もそれを解くことによって、記憶に自然とたたきこまれていく。
あとは少しの応用と、時にひらめきが必要になるだけで、まったくもって英語が得意な神楽ならそこまで苦労するほうがおかしいというのが彼の見方でもある。
教え方はさすがに上手いし、意外に世話慣れしているあつかいは、銀八とのやりとりとだって負けていない。
ツッコミがいのある性格だって神楽にとっては楽しい。
思えば、いつの間にか土方が神楽を 『問題児』 と呼ぶこともなくなっていた。
おい留学生、と呼ぶその声には、わずかながらの親しみが込められるようになって、今では彼女の錯覚ではなくふたりは双方から信頼関係を築いている。
この特別居残り実習にしても、二人以外誰も居ないまま。
ひっそりと、その時間は毎週やってくるのだ。



人気のない放課後の教室。
生ぬるく温まったストーブのくすぶる空間にあるのは、たくさん並ぶ机と、黒板、教卓、ロッカー、淡いグリーンのカーテン、その他雑多な必需品がもたらすスクールライフ。
しかし実際に今、教科書やノート、筆記用具が広がっているのは神楽の机の上だけで、その前に足を組んで横向きに坐っているのは、このスパルタ教師。
普段となんら変わらない教室に、違うものは一つだけ。
毎週土曜日のお昼から。
この教室は少しだけ特別な教室になる。







「雪がふりそうだな…」


ふいに呟かれた言葉に、神楽は顔をあげた。
見ると、教師はなんとも言えない表情で頬杖をついて窓を見ている。
シャーペンを止めて、神楽もその視線の先を追うと、冬特有の灰色の雲が厚く空をおおって、本当に今にも雪を降らしそうだった。



「好きヨ」


「え?」



さらりと言ってのけた神楽の台詞に、土方が間の抜けた顔で振りかえった。
窓の外を見つめてそう微笑んだ少女に・・・絶句している教師などおかまいなしで彼女はつづける。



「綺麗ダロ?」



首をかしげ、目が合った。
妙にそれを泳がせた土方が神楽からふいっと顔をそらし、また窓の外を見るようにする。



「……そうだな」
「すごく、好きなのヨ。 雪って」


あぁ。

そう答えた教師の横顔に苦笑いが浮かぶのを見て、神楽はまた少しだけ首を傾げた。
さらっと口に出されたその禁句が、このスパルタ教師を慌てさせたなどまさか思わず、彼女はシャーペンをくるくると器用に廻していた。それをチラリと盗み見た教師の視線にもまた気づかず、窓の外に視線を移す。



「不思議な感じがするネ。 雪のふる前って」
「奇遇だな。 それは俺も思う」


ふたりして見つめた先。
どんより曇った空を見上げる。それでいて重苦しいような暗さはなく、雪の映像がすでにフラッシュバックするように、白い世界のなかの灰色を思う。
変な感じだ。



でも、やっぱり



「好きヨ」



またそう言って微笑った少女に、教師のほうは今度こそそっと目を瞑って、少し笑った。



「そうだな」



まったく気付いていない天然すぎる教え子に、彼の顔にはある種の微妙な色が滲んでいたが、神楽がそれに気づくはずもないのだ。



「先生も好きアルか?」
「あぁ」


彼女よりも一回り以上も大きな手で、ほれ、とクルクル廻っていたシャーペンを注意され、神楽はふたたび参考書にとりかかった。
いま解いている計算式より上の問題の答案には、しっかりとスパルタ教師の採点が書き込まれている。赤丸やら、間違ったところのチェックなど、かなり丁寧だ。


「そういう凡ミスな……、それさえ直したら赤点レベルはいくのになぁ…」


左手の指で、とん、とノートの先ほどの公式の位置を示される。
もうソコに誤った計算ミスはない。
直したら、完璧なのだ。
完璧になれば、どうなるんだろう。
土方は褒めてくれる時は、ちゃんと褒めてくれる人物だった。
神楽にとっては最難関の問題が解けたときなど、思わずといったように頭に置かれた手がクシャクシャと髪を撫でた感触が、思いのほか心地よかった。
そのくすぐったい感覚を思い出して、神楽は思わず目を瞑った。


勉強は本当は… 嫌いだ。
でも褒められるのは、何であっても嬉しい。
褒められている自分がスゴイって思うから、好きだ。
彼のお褒めの言葉と、その時の少し得意げな表情も、教師と生徒、ならではの親密さがある。
そういえばこのスパルタ教師が、さっきのように笑うのは珍しいことだったんじゃないかと、ふと、ここで 神楽は思い返した。
…けれど。
自分と同じく、きっと雪が好きなんだろう。 彼女はそう片づける。
ちゃんと最後まで理解すれば褒めてくれるし、難しい問題が解ければ頭を撫でてくる。
でも何よりも、神楽が頑張っているということを認めて導いてくれるこの教師とのやり取りは、銀八とはまた違った意味で神楽に特別なものを与えてくれた。


別に数学なんて0点のままでもよかったのだ。
…いや、卒業できないと困るので、赤点ギリギリくらいならいい。


でも


彼の教えを必要としなくなったら、それはそれで寂しいものがあることを神楽はどこかで感じている。
ノートを指すために僅かに寄せられた体が、神楽との距離を縮めている。






「おい」



呼ばれて、はっと顔を上げた。
目の前に飛びこんできた漆黒に息を呑む。
思ったよりもずっと近くにあった顔にぱちぱちと目を瞬かせて、思わずじっと見つめ返せば、また教師のほうが先に目を逸らしてしまった。


「何をぼーっとしてるんだ」
「…うー…ちょっとぐらい息抜きさせろヨォー」
「おまえ…一問解いたらソレ言ってんじゃねーか。俺は今日は早く帰りたいんだよ」
「……雪がふるまえに?」
「そう」
「大丈夫ヨそれな……あらら、もう手遅れみたいヨ?」


神楽は笑って窓の外を指さした。
いつのまに降りだしてしまったんだろう。
マジで? と窓に振り返った土方と、しばらく言葉はその間、何も流れない。
今にもやんでしまいそうな淡いボタン雪が、ぽつ、ぽつ、と空から落ちてくるのを神楽は見つめた。
窓を開けて今年一番の初雪を捉えてみたい気もしたが、なぜか今、この教室の生暖かい空気を壊すのには気が引けた。


グラウンドからは声がする。
運動部の連中の声と、吹奏楽部の練習の音。帰宅する生徒たちの笑い声。
混じる車のエンジン音やクラクション。
雪はまわりの音を吸収するというが、さっきよりよほど鮮明に聞こえる音の数々に、神楽は通りすぎる白い軌跡を追いながら呟いてしまう。



「……好きヨ」



再び繰り返された言葉。
ひゅっ、と音もなく、息が、どこからか聞こえた気がした。
それから


「あぁ」 と。


向かえにいる教師の声が聞こえる。




「……俺も、好きだ」




神楽はなぜかその声に、少し落ち着かない気分で前を向いた。









fin
口許の笑みが、深まるその瞬間を。




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08/14 17:02
[銀魂]




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