Sunday Mornig







お登勢にもらった氷入りのカルピスが、階段のなめらかなニスの上にこぼれて飛び散った。
乳白色の染みを通して、年期の入った黄色いオーク材は鈍い光を放っている。
この踊り場は、神楽のかっこうの遊び場となっている。古くさくはあるけど住み良い、まさに宿主そのものの居心地のいいこの家は、初めてここに寝泊りした日から確信のように神楽の胸に巣食っている。
ここは、自分の、探し求めた家となる。
銀時がいるかぎりもう枝から枝へ渡り歩くつもりはないし、神楽や新八以外の他人を住まわせることにはかなりの抵抗がある。
だらしない顔をした、銀髪の天パが宿主でなくてはならない。それ以外は絶対にいやだ。
ここは絶対に、神楽たちだけの家だ。
今までの家は──そういう意味では誰のものともいえなかった。



かがんで、こぼれたカルピスをチャイナ靴の先でささっと拭うとき、神楽は今まで住んできた家のことをふと考えてみた。
そして、漠然とした悲しみを覚えた。
それらの家から出ることを余儀なくさせたものに対してではなく、闇夜の中から忍び寄る獣のように、その家の隣や上階、地下に住み着いた人々に向けての悲しみだった。
神楽は捨ててきた昔の家のことは考えないようにしている。
けれど、かつては彼女も家族と住めた家の壁や天上を挟んだ近くに、いつも悲鳴が絶えない恐ろしい人々や、子ども部屋で薬を売ってラリってる大人たち、売春を終えて金を払う男女、いつのまにか腐乱していく老人、血のしみこんだ壁や死人同前の廃人がいて、神楽が病気の母親のために考えた──ガーゼを巻いた眩しくない裸電球──その上で土色に染まる死体、わびしい食事に向け、栄養失調すんぜんの子供だって救えないような、腐った生ゴミが転がるキッチンがあると思うと、悲しくなってくるのだ。
悲鳴が聞こえるたびに、神楽は捨ててきた家のことは考えまいとする。
けれど、悲鳴は真夏の扇風機を破壊する、冬の国から来たバルタン星人の笑い声のように響く。
神楽の人生は、攻撃を受け、残骸となった廃墟の上に成り立っているようなものだった。
そこにあるのは、ほとんどが野蛮人や害虫にちかい。
それでも、神楽はむき出しの木の階段をのぼるとき、その口許は微かに笑っている。
なめらかなニスは裸足になっても足に心地よく、神楽は幸せな気分になる。


階段をのぼる小さな足がリズミカルに木を軋ませた。
手すりはところどころシミを濃くして、何かの傷があったりもする。
それでも神楽を支える木は頑丈に見える。必ずしも元には戻らず、この家の一部となっている。
家がそれらと付き合って生きていかねばならないように、神楽の過去もおんなじだ。
過去を振り切れないのと同様、彼女の傷は彼女のものだ。
これは神楽だけの肉体でもある。
神楽はその肉体で目指す男のもとまで向かう。


そんな神楽が慕う宿主の男は、実に器用にできていた。
パティシエ並の銀時の器用な手によって、必要だと判断されたものはその本来あるべき姿に具現化される。時に最先端のエコにのっかったり、時に酔狂なまでに無駄遣いをしたり。
そのおめがねにかなうものの中に、自分もいることを、神楽は常に嗅ぎわけた。
ただデザイン性だけでお粗末な設計が施され、無機質さだけの寂しい家具、小さいがらんとした部屋に、愛があるように取り繕われてはいるものの、無味乾燥で、博物館の展示をコピーしたような生活が連想される家、そんなよくある小綺麗なだけで味気のない生活空間に神楽は見向きもしない。
神楽には銀時のおめがねにかなうモノの中に入ることが、何よりの生活だった。
そういった意味でも、彼女は男のテリトリーともいえるこの家の中で二人いっしょにいると、それだけですべての視界がクリアになった気がする。
古くシミッたれた部屋が明るく大きく呼吸を始め、笑いかけ、生気のある空間となり、遠い山の眺望のように、多くの可能性が神楽の目の前に光り輝く。
居間も男の存在に自覚を取り戻し、ソファは自ら彼に身を預け、机やテレビのリモコンなど彼がそこにいるだけで指示を待つ態勢になる。「糖分」と書かれた額縁だってそうだ。
浴室も、トイレも、台所も、まるで子ども部屋のような陽気さに変わる。
そんな数々の現象を見つけると、神楽はこれは自分の、自分の為の家なのだと実感する。
自らの愛情と工夫と献身的な技により、生活の美が創造されると確信する。
神楽は誰の手も借りず、銀時に買ってもらった傘だって直したことがある。骨組みからボロボロになって破れ果て、もうどうにもならないだろうと普通なら諦めかけるところから、針と糸一本で自分の色を出しつつ直すことに成功した。
実の父親や兄はそういったことのできる神楽の成長など、知りもしなかった。
父親は、仕事を次から次へとこなすのに忙しく、たった一人の兄は、己のこと以外に興味をしめさなかった。
とりあえず、自分でどうにかしてみる。これは小さな頃から神楽がその身に教えられるでなく自分で覚えこんできたことだったが、銀時のように何事も馬鹿バカしいくらいにいい加減な楽しさと達成感を覚えたことはない。
彼にとっては、法外な金をとる大工や、不真面目な水道屋や、技術の未熟さから自ら感電死するような電気屋に頼むより、自分で犯すミスのほうがずっと納得のいくものらしい。
それだから何かが壊れると大変で、銀時と神楽と新八と、三人いっしょになって直そうとするたびにバカをやらかし、挙句の果てに、階下の本当の家主、お登勢にドヤされることも度々だった。
ただ、ノコギリもカンナも大抵まっすぐに使える男は、やろうと思えば神楽の押し入れにキャビネットを作ることもできるし、船大工がやるように、ぴったりとはまるドアだって作ることもできた。それも天性の自信をもって大きな音などまったく立てずに簡単に、申し分のない仕上がりで完成するのだ。
銀時は仕事も金もなければ、たいていは家の中でゴロゴロしている。
神楽に対する態度も、自身の人生に対するのとおんなじで、だらしなくて、けれどどこか誠実に満ちたものだった。
だから実の兄が春雨などという海賊となって神楽の前に現われ、それぞれの痛手が一人ずつ残る結果になった時も、彼女はそれが自分のせいでないことはわかっていた。
兄が家族を捨て去り、父が家を避けるように戻らなくなり、母が何もできない小さな神楽の手の中で息を引き取った時も、彼女は過去のことは振り返らず、自分の才能と嗅覚だけを信じて生きてきた。


小さな頃には、彼女はその才能だけに満足し、自信の源となっていた。
けれど、何度も自分の夢を決めて、いざそれを目標にしようとすると、兄や母や父やさまざまなことにその気を挫かれてしまうのが常だった。
彼らはある時から家を嫌い、家をただ消耗した。 不潔に使い、無神経な笑いと血と悲しみでいっぱいにし、捨てた。 特に兄のほうは路地を行く酔っ払いのように神楽の人生を踏みつけていった。期待と絶望とで彼女をひきずりまわした。
ついには彼女の最後の抵抗も受け入れなくなった兄に、神楽は打つ手を失い、兄は出て行った。神楽のタメ息で家は充満した。
兄が出て行く前、神楽は父に手紙を書いて出そうと、決して帰って来ないとわかっている何億光年も離れた星々のあて先を調べているところだった。兄は玄関のドアから頭を突き出し、声を立てて笑いながら、「もう行くね」 と言ってそれっきり消えてしまった。小さな神楽が雨のなかを必死に追いかけても止まってはくれなかった。
とうとう諦めた石畳の階段の前で、行ってしまう兄の傘を見送り、力が抜けたように座り込んだ神楽は、何日も兄の帰りを待った。涙で手の中の封筒がぐちゃぐちゃになった。
失くしたモノは、あの頃唯一持っていたものばかりだ。
持たないモノは数知れず、住んだ家のいくつかも、失った幼いころの夢と同様に神楽の過去の中に消えていった。



おさない頃、家への執着は自分の弱さのように思えた。
けれど今、この家の木の階段に立ち止まり、銀時を起こしに行こうと甘いカルピスをおまけに持っていると、この執着は確かな幸福なのだと思えてくる。
うち捨ててきた数々の過去を思うと、幸せに暮らせなかったあの頃を悔やむ気持ちも確かにある。
でも、そららすべての残骸の上に今が成り立つものならば、得てして上々な人生じゃないかとニンマリしてしまうのだ。
踏みしめる温かい木の感触、晴れやかな江戸の朝の空、あと数メートルいくと男のテリトリーに入って、銀時のだらしなく眠る姿を楽しめる。そうして朝ごはんをいっしょに食べて、じきに来る新八をふたりしてのんびり待つのだ。
仕事が舞いこめば、仕事に行こう。
なければ夜ねむれなくなるほど、だらだら過ごそう。
夕方には定春の散歩にふたりで行くのもいい。
再放送のドラマだって捨てがたい。
新八がいるなら夕食は三人で、もちろん神楽は二人のうちのどちらかが作るおいしい食事を指をくわえて待っている。
好きなお笑い番組を見ていっしょに笑い、九時から始まるドラマも楽しみだ。
お風呂に入って、銀時に髪を乾かしてもらいながら歯を磨く日課だって楽ちんですばらしい。
夜更かしして深夜映画を見たっていい。美容のことなんて気にするもんか。
「おはよう」 から 「おやすみ」 まで、神楽の銀時のおめがねにかなった生活は、何をしていても心地いい。


───こうした毎日。神楽はこの素敵な家の黄色い階段をのぼっていく。


立てつきの悪い引き戸を開け、家の呼吸を感じ、障子ごしにぼかされて差し込んでくる陽光を眺める。
嗅覚は、ガス風船のように神楽の中からわきあがってくる。はじける前に捕まえられるものもあれば、自分の中の獣の臭いと混じって消えていき、あの笑い声と一緒に家のどこかに吸い込まれていくものもある。
家族と離れ、故郷そのものとも距離を置き、同種族との仲はそれこそ未知のままに、あとに残ったのはバルタン星人が這い寄ってくる捨てた家だけだと思っていたのが、辿り着いたところはこんなにも温かい居場所だった。
ここに居ていいよ、と無言のうちに教えてくれる銀時の視線の中で、神楽は今日も笑う。
これからいつまでこの家にすがって生きていくのか、自分にもわからないが、そうできる限りそうしようと決めている。
床が軋み、眠れる子供のようにすやすやと呼吸する家の中で、彼女の動かす足音は、子どもがまどろみから目覚めてうっとりするように誰も驚かさない。
影になった畳の間は、陽光をしっとりと吸いとり、野生の動物は家の外を徘徊する。
いつまでもこのまま此処に居たい。
けれど、それはダメだ。
そのために、この家は神楽にとっていつかは帰るための灯台になるだろう───そう考える時、彼女の胸は拳のように固くなる。


できることなら神楽は銀時といっしょに、そこに体を丸めていつまでも睡っていたかった。
けれど目の前にある、春のように温かい朝の光に、神楽は多くの可能性を感じる。
傍に寄り、顔を近づけ、一度こっそり頬をつついて笑い、おはよう、と言うのだ。
だらしなく目を覚ます男を見つめて、もう一度、おはよう、と。
きっとこの家は、これからも愛情のこもった家でいつづけるはずだ。





ねぇ、起きてください、私のために。















fin



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09/08 20:42
[銀魂]




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