キルケゴール その愛







夏の日差しは俺たちには眩しすぎた。
そんなことを今さら後悔したところでもう遅い。俺はまんまとその光に魅了された。
茹だるような暑さは俺を知らない世界へと誘い、前すら見えなくする。
滴る汗にすら気づかずに、その光を追いかける。まるで夜光虫のように。
何にそれほどまで惹きつけられるのか解らないまま、その一点に向かっていく。
ただそれだけなのに、たとえようのない幸福感。
──あのイタチごっこは終らない。そう思うだけで、満たされていたのに。
悲しいはずなのに、何故か。
その光が傾くころには、痛みすら伴うのに。
真相は、見えないほうが美しい。後先なんて後回し。暑さに中てられた思考は自分でも驚くくらい素直だ。その裏にどんなリスクを背負うかすら思いつけない。
(本当は痛いくらいわかってる)
だから、その先を誤魔化し続けた心は、童心よりも清く尊く、そして浅はかだった。
真夏の夜の夢のような、呆気ない目覚めを迎えようとは終ぞ気づかず、俺たちは道を間違えた。











いみじくも美しく燃え














足早に巣穴を目指す──。
視線はそらさず、ただひたすら前を見て、黙々と岐路を辿る。
できれば、家に帰るまで誰にも会いたくない。たとえ親しい友人だろうと、挨拶程度しか交わさないささやかな知人だろうと。
いま声を出したら、壊れてしまいそうだ。意味もなくそう思った。


忘れてはいけなかったことだったのに、どうして失念していたんだろうと思うと、どうしても何かしらの行動に移したくなるのだ。
ストイックに、ささやかな痛みでもって何かを見出せればよかった。アイツにではなく、俺が。
見せしめ、とでも言ったらいいのか。保護者でしかない自分、という存在を神楽に覚えていて欲しかった。
俺が切り捨てたぶんだけ、アイツが傷つけばいい。
こんな残酷な思考は、自己嫌悪しか生み出さないのに、どうしても切り捨てることが出来なかった。
頭をきつく掻き毟りたくなって、すこし顎を引く。引き結んだ口を恐々とゆるめ、眉間の間を引き伸ばし固定させれば、あっという間に死んだ魚のような眼になる。
そこら辺に腐るほどいるような男たちから一線を劃すことによって、得られる物だってある。
こういったささやかな心の安息であったり、誰の目に見ても完璧な隙のない防備だとか。いつものだらしない顔をしていれば、きっとそれが破られることはない。
本当はどこかで、誰かに引き止められることを恐れているだけなのだ。
大義名分も甚だしいが、それでも打開策は見えないから。人に寸分の隙すら与えず、ひとりでこんな風に強がることしかできない。



きっかけを、与えられただけだった。
いつからかもうわからない。お互い深く関わり過ぎないようにしていた。
端的にいうのなら、避けていた。もちろん仕事は別だが、プライベートでは全くといって良いほど気安い接触はしていない。
たぶん、こんなにも拗れたのは、はじめてかもしれない。
今までは少なくとも小さな小競り合いぐらいは頻繁にあったのに、ここ二ヵ月、新八がいない時はおかしなぐらい私的な会話をすることすらなくなった。
というか、誤魔化しすら効かなくなっていた。
春先に来た手紙のせいだということは、自覚せずとも十分に解っている。
それが引き金になったことも十分に。
神楽はきっと鋭いから、俺の心情など見抜いているのかもしれない。
だから時々、痛いほどその視線を感じる。
背中に、横顔に、額に、後頭部に、強すぎる視線は、まるで狂気のように俺を貫く。俺自身の狂気のように。
それでも、ただひたすら無視する。
瞳を見て話すこともなければ、わざわざ弱さを晒すほどの愚行を冒すこともしない。
気づかないはずなんてないのに、どんなに苦しい言い訳であっても、それをやめようとは思わない。
咎める瞳から逃げ去り、その口が言葉を紡ぐ前にいっそ手で塞いでしまいたかった。
我侭だなんて百も承知だ。それでも失うのが怖かった。
ヒトの気持ちなんて永遠ではないと知っても。空っぽになって、何も残らない自分を想像できなかった。
そんな自分が、生きていけるとも思えなかった。
俺とアイツを繋ぐのは、責任や執着や思慕や同情で、愛が他所で芽生えれば、いつ放棄されたっておかしくない。
アイツには、何一つ敵いやしないのだから。だからせめて、醜く歪む前に、ひとつひとつ、清算しなくては。
たとえ失ったとしても、美しいままであるように。




こっちの真意に気づいているのかいないのか。特に何かを言ってくる気配はない。
最初の内はあからさまに探られることもあったが、一度目、二度目と無視すると、それすらなくなった。
きっと、こんな保護者でなくても事足りると気づいてくれたんだろう。
そう考えたほうが楽だ。
下手に庇われるよりもよっぽど諦めがつく。


愛なんかに振り回されるのはごめんだと、神楽に出逢う前なら断言できた。
でも今はそうは思えない。
そんな虚勢を張れる気がしないのだ。どんなに振り回されても、恋すら知らない誰かの言う、薄っぺらい愛なんて、結局つまらない。
少なくとも俺はそう思う。
だから、決して、愛と思慕は同列ではないし、それを混合させてもいけない。


最初から最後まで幸せなだけの人間など居ないだろうが、もしいるとしたら不憫だ。
そんなつまらない人間に魅力などないだろうから。
そう。だから、自分は幸せなのだ。
一体誰にするための言い訳なんだろうか、それすらわからないが。
俺は、アイツのことを想う。
身勝手に過ぎるほど想う。
そして、手中に握り込む数々のモノのことも。
過ごした時間と愛情は、決して比例しない。
あくまでも神楽にとっては、過ごした時間など関係ないんだろう。
たとえそこに愛が存在していたとして、汚れのない、まったく綺麗なものだ。
それを愛と読んでいいのかは甚だ疑問だが。それを愛と呼ぶとして、俺が封じこめるものとはあまりにもかけ離れてるような気がした。
だから数年後、この関係の中で、一番最初に邪魔になるのは誰だろうと考えて、それは間違いなく自分だろうと思った。
けれど、俺が手放さない限り、一番傍にいる人間も俺なのだ。
これはきっと喜ぶべきことだ。
何故なら、いつかそれも近いうち。
アイツと離れてからも、ずっと願っていたことが叶うのだから。
今まで命を賭して守ってきたモノ。



素直に喜べない自分の弱さが苛立たしい。



いつの間にか自宅に到着していたようで、閉まっていた戸に鍵を差し込んで開ける。
最近ではこんな些細な時間さえあてもないことばかり考えてしまう。
暇とは恐ろしいと痛感する。だからあんな見られたくないものまで見られてしまうのだと。
朝帰りならぬ、昼帰り─…。
些細な努力はここにきて全てパアになりそうな勢いだ。
なるべく何かをしているようにしてきた今までも、気がつけば、ささやかな暇を見つけて思考をフル回転させているのだ。
結局、逃れられないのだと知っていても、少しでも遠ざけたくて。
だらけた心身に鞭打って、溜まっている家事を片付けたり足掻いてみたり。新八が週に二日か三日ほどしか顔を出さなくなったのも久しい。
ほとんどふたりだけの生活。
朝から晩まで、気まずい相手と一緒にいてどうして平然としてられるだろう。それほど自分だってツラの皮は厚くない。
逸る気持ちを抑えて、玄関に出迎えてくれた愛犬に弱々しい笑みを向けると、動物特有の鋭い察知能力か、心配そうに見つめられた。
顔を撫でてやりながら、だいじょうぶだ、と自分に言い聞かせるように呟いた。
説得力は皆無だったが、そうでもしないとやってられない。
ここ連日、家事ばかりこなしていたせいで、部屋はいやに片付いていて、殺風景な情景に整然とした無機質さが相まって、虚しさがこみ上げた。
直視できずに、さっさと万年床に逃げ込んで、昨日起きたときのままの生活感の残るそれに少しだけ安堵した。
新八は、明日も明後日も休むと行って来ていないはずだ。押入れからは物音ひとつしない。誰もいない孤独な家の中にいると、気分までも落ちていく。
今まで張り詰めていたぶんの疲労も相まって、このままふて寝しようと布団に寝そべった瞬間、カンカンカンと軽やかな足音が聞こえた。考える間もなく、玄関の戸が開かれたことに思い至る。
警戒する前に、気配で誰が帰って来たのかわかってしまうことが問題だ。
こういうときに、自分の慣れ親しんだ日常に後悔する。
これから起こることに気づかなかったと言い訳することもできない。
そう思うと身体が強張った。
今の俺に、さっきまでの作られただらしないツラが出来るだろうか? 応えは否だ。
辿り着いた部屋の、ただそれだけの帰巣本能で、俺は自分の個を放棄する事が出来る。
痛みを知っているからこそ、棄てられる。
たとえば握り締めた指の爪が食い込むだとか、奥歯を噛み締めるだとか。今はそんなささやかな牽制が欲しい。
後頭部を強く掻いて、少し顎を引く。口元をゆるめて、眉を固定させなければいつものように、ただのだらしない保護者になれる。何だもう帰ってきたのか? とでも言って誤魔化せる。
なのに、たった一つ欠けただけで、何も出来なくなる。
こんな時ばかり自分の不甲斐なさを思い知るから悲しい。
音も立てずに居間に入ってくる神楽と、目が合う。
駄目だと思うのに感情の乗ってしまった表情を隠すことはできない。
目をそらすことも出来ずに、神楽は俺を乗っ取っていく。
感情の乗らない瞳は、寒気がするほど美しく、恐ろしい。
何か言わなくては、と思うのだが喉の奥に何かが詰まったように言葉が出てこなかった。
差し込んだ夕日のおかげで部屋が赤味がかった色で塗りつぶされる。
それは少しずつ、闇に飲まれるように、黒く霞んで、かの戦場の生々しい光景を髣髴とさせる。
あの血の色が、あの黒煙が、この部屋には満ちている。
自分がかつて、色とりどりの肌と異様な体格をもった敵に向けたような、凶悪な意識を感じた。いや、本能的に察知した。

正直に言おう。

俺は、神楽が怖かった。
触れれば瞬く間に汚れてしまうような白すぎる肌が、透き通るような美しい青い瞳が、色づくちいさな唇が。
悪意がないなんて知っていた。けれど、その感情はあまりにも強暴すぎたのだ。
俺の体中に残る、醜悪な傷痕だけならいい。でも神楽はそのもっと奥から、あまりにも大きな犠牲を得てしまった。
その力の分だけ身動きひとつ出来ずに、俺は神楽に脅えた。
目をそらしたら、殺されてしまう。そんな気さえした。
動かないのを是と取ったらしく、そのまま凍りついた顔で近寄られる。
折れてしまいそうなほど白くちいさな指が、無神経なほど優しい手付きで俺の頬を撫でた。
さっきまで違う女にされていたその仕草に、頭の中がカッとなった。
お前はあの女じゃないんだ…!と、その小さな肩を掴んで揺さぶり倒してやりたくなる。
いっそ手を振り上げて、その白い頬を叩きのめしてしまたい。そうして組み伏せて、コイツが思いもよらないドロドロとした薄汚いもので、爪の先まで汚し尽くしてしまいたい。泣き叫んで許しを求めて心底、俺を嫌ってくれて、そうしてボロボロに傷ついて、手放されたいのかと、醜く罵ってしまいたい。
しかし、それに反してただ抱きしめようとするこの腕の硬直でさえ、抵抗を許すようで追い詰めるような、巧妙な狡猾さを持っていることを俺は知っている。どうしようもなく、知っている。
それでも、俺は何もできないのだ。
神楽の尊さを、弱さを知っていて、それでも何も言わない。
本当に弱いのは、他でもない俺だから。







「……いっそ、めちゃくちゃにしてヨ」



へたりこむようにして二人してしゃがんだ布団の上で、ただ強く抱きしめて泣いてしまいたかった。





キルケゴール その愛

(俺の愛など知らなくてよい)












fin


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07/09 04:30
[銀魂]




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-エムブロ-