アヒルと鴨のコインロッカー







他人の不幸をあれこれと想像することに神楽は狎れていない。
他人の不幸を思うことで、自分が慰められる精魂ではなかったからだ。
生来、我慢強いタチでもある。
人の裏街道ばかりを見続けた生い立ちであっても、人柄が貧しくはならなかった。
生まれた場所はそれこそ、ドブ川の底をさらに啜って這いずり回るのが精一杯な貧民街──犯罪都市だったが、奇跡的なほど育ち自体は悪くならなかった。
毒舌なのは生まれつきだともいえるし、それは意外に爽快感さえ他人にもたらす時もある。魂の価値とでもいうのか、天性の器──心根のやさしさや素直さに比例して──たとえば綺麗な箸の持ち方や、食事中の崩れない正座の仕方、明朗なあいさつ、人と人の目をちゃんと見て話す癖、媚びない不動さ、ピンっと背筋を伸ばして歩く堂々とした姿勢など。いっそトンチンカンな気品を思わせる──そういった所作の美しさからも窺える、生活の中の基本的な躾には厳しかった母親のおかげなのかもしれない。
けれど、それらすべても、生まれ持っての魂の価値、上等な資質だと一括りにされても間違いではなかった。
生まれ持った習性を受け入れ、その本能に背を向けず、生きることに誠実でさえあれば、人は幸福を確認する術を必ず持ち得る。
その術さえ持てば、自分より下にいる者たちの不幸を垣間見て、はじめて納得し、平常心を取り戻すことが出来る──といった種類の人間にはまずなろうと思ってもなれないだろう。狭隘に驕り昂ぶった優位性を見出すことも少ない。他人に対する劣等感というものに薄くあれるからだ。
要するに劣等感というものは、解決できる範囲で常に自分自身の内面へと向かっていくものである。
だから解決できないものに、人は心底の劣等感など抱いたりはしない。覆すことのできないものに劣等感は必要とされない。
恵まれた人間は、すべてを完璧に手に入れないと気がすまない者が多いが、何よりそれは、自分たちが劣っているなどと感じることを許さないからだ。たとえそれが、どんなに小さな亀裂であろうと彼らは、それを埋めて、自分より優位に立っていることを自覚しなくては駄目な人間なのである。



















床を歩く音が暗闇に響いていた。




「…あ? ……ぱっつぁんか…?」


銀時が襖を開けてみると、パジャマ姿の神楽が廊下を手洗いのほうへ歩いていくところだった。
深夜の雑な物音に、ふり向いて銀時を見る。


「なーに、もう起きてたの」


気だるげな酔いのまわった赤ら顔をした銀時を、神楽は他人を見るような目で眺めた。そうしてそのまま黙って、背を向ける。


「・・んー………どうしたんですかぁ、銀さん」


同じ和室に寝ていた新八が、もぞもぞと寝返りを打ちながら訊ねた。
相当酔っていたんだろう、どうやら横で寝ている新八にも銀時は気づいていなかったらしい。


「……へーんな奴。……かぐらだよ」


多少呂律の回らない口調が酔いの深さを物語る。


「……ん――……いま四時ですよぉ……銀さんが起こしちゃったんじゃないですかぁ……」


先ほど帰って来た銀時に起こされて、浅い眠りに入っていたところをまた起こされたのだ。新八の機嫌もいささか悪い。


「寒いからトイレが近くなってんのかなぁ。漏らしたらさぁ……恥かしいもんなぁ?」
「またそんな、デリカシーのないこと言って……」
「アイツがお子ちゃまなんだもん。銀さんはそれに合わせてやってるだけ〜〜」


少々絡み口調なのが情けないと思いつつも、しかたなく返事をしながら新八の瞼はウトウトしている。


「…女の子の成長は早いですからね……、そんなこと言ってても……あっという間に……大人になってたりするんですから……」
「オトナねぇー………。 なぁ、夜兎ってさぁ、人間より成長が遅いってこと…あんのかなぁ?」
「……はぁ? 知りませんよ……そんなこと……」
「でもよぉ…、まぁ、何にしろだ…。オトナになるっつってもよぉ、そんな急になれるもんじゃねーよ……。カラダだけデカくなってもよぉ…」
「……大人になるのも…楽じゃないですしね……」
「知ったような口利きやがる…」
「いいかげん酔ってんなら…早く寝てください……」


小さな足音が、また廊下を戻って行った。
ひっそりと孤独なその足音に、二人は気づいていない。


自分の押入れへ戻って、神楽は布団の上の父親からの手紙を片づけた。読んでも読んでも自分だけに対する愛情が、うず高く溢れている手紙が散らばっている。それらを見る時、神楽の目にひっそりと寂寥感が浮かんでいた。
懐中電灯を消し、押入れに上がりかけて、神楽は思いついたように玄関へ近づいた。
引き戸を少し開け、トンッと軽く飛んで屋根に登ると、もう夜明けがそこまで来ている星空が、凍ったように降りかかってくる。
その下に、一晩中起きている歌舞伎町のネオン街がみえる。そして大きな江戸城…──。そこから水平に視線を伸ばすと、黒い山々と森のつながりがあった。
神楽の星を映した瞳に、ある安らぎが浮かんだ。



















その日、土方は久方ぶりに取れた休みを、外出していいものかどうか少し躊躇っていた。
年末年始の犯罪率上昇に伴い、ここ一ヶ月ほどは、目の回る忙しさにそれこそ武装警察の副長などをしていると、寝る間を惜しんで、検挙率への貢献に勤しんできたのだが――。ここにきて、ようやく落ち着きを取り戻しつつある日常に戻っていた。
振り返ってみれば、いつもこの時期は慌しく、あっという間にひと月が過ぎていってしまう。そして、気づいたらもう二月に入ろうという時期だった。


「トシ、たまには羽でも伸ばして来い。みんな交代で休みをとってるんだ。遠慮なんかされると下の者が気を使うだろ」


近藤にけしかけられ、結局休みを外で過ごせることになったものの、土方は午前中にいつも自分が片づけるだけの提出書類の整理や、調べものリストの作成を手際よくこなしてしまった。
ビジネスはビジネス、とはっきり割りきるには生活の場と仕事場があまりに混同しているため、なかなか切り替えしのタイミングを計るのが難しい。どうにも仕事を優先してしまいがちな自分に、土方はやれやれと苦笑った。


「これから、お泊りですか?」


新しく入った隊士だろうか。門番を任されていた若い男が、飄々と私服で出かける土方に、挨拶ついでに一言断ってきたので、土方はそれをまた苦笑いで返す破目となった。


「そうみえるか?」
「あ…し、失礼しました!」


いいから、と手でおざなりにあしらいつつ門をくぐった。
どうにも遊び人と思われている節があるのか、「お泊り」とは軽く言われたものだ。
それとも沖田あたりのいらぬ吹聴だろうか。
断じてそんな誤解を招くほど、艶めいたことを考えていたわけではないのだが…。
もしかしたら、よっぽど嬉しそうな顔でもしていたか…?


(……まさか、な)


まぁ、どうせ同じパターンになることはわかりきっていたが、別にこれといった目的があるわけじゃない。
健康な身体と金があれば、男なら、やることはやはりひとつだろう。
ただ、正午を少し過ぎた明るい今の時刻を考えると、そっこーで済ますのも気がひける話だった。
いつもの巡回と変わりはなかったが、仕事を忘れ、気の向くままの散策を楽しむのもたまにはいいかもしれない。
数か月前の夜、うっかり補導した少女のことをチラリと思い出してみたが、別段気にするふうでもなく、土方は少し街を歩くことにした。







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02/28 09:34
[銀魂]




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