やることなすことが裏目に出て、自分のなかで困難が一周まわった感覚がした。
……ら、とたんに本が読めるようになった。

自分の放つ感情から距離を置いて、自分ではないものにその揺らぎをゆだねる行為に、移行していく自覚があった。
この前まで本は邪魔なもので、私や他人の言葉を遮る文字の羅列にすぎなかった。でもいまは、自分のなかに存在するものを映す媒体として私は本を利用している。
本がかわいそうだと思う。でもずっとこうして本を読んできたような気もするし、私が何をどうしても、本は私自身には含まれない。本とはしょせん他人と同じだ。


高石宏輔
『あなたは、なぜ、つながれないのか ラポールと身体知』


この本は一ヶ月ほど前に買っていたもので、きっかけは

高石宏輔『声をかける』


この本を読み終えて、この人の書くものがもうひとつ読みたいと思ったから。
でも一ヶ月前から手にしていたのだから一ヶ月早く読んでいれば良かったのかもしれない。と思うけど過去は変えられない。しかたがない。

〈そのときに今までに感じないようにしていた無力感と孤独感が身体の中に満ち満ちてきた。結局僕は何もできないし、誰も助けてくれない。それらを感じることを僕はずっと避けていたのだなとふと思ったとき、なんだか開き直ってすっきりした。〉
(『あなたは、なぜ、つながれないのか』より)

なんか昨日と今日はこんな感じだった。逃避ができなかった。でも、逃げ道がないことで自分はだめなんだということを、確かめざるをえなかった。


〈たとえば、なんとなくネットを見る代わりに、読みたい本を読むだけでも随分違う。〉
(同上)

これは逆のことを言われたことがある。
テレビ見てる?と尋ねられて、見ていないと答えた。
すると、テレビドラマや、バラエティや、映画や、そういうただ、だらだらと流れてくるものを受動的に見ることが生活の中において大切なのだとその人は言った。
そういう「何も考えなくてもいいもの」がないと、身体と心がいつも張りつめたままになってしまうのだと。
どちらも正しく、相対することなのだと思う。

本題に戻ると、この本では他人と「つながる」ときのポイントがいくつか書かれている。メタ認知という言葉は使われず「トランス」と表現されてはいるが、ようは内側と外側の両方からメタ認知的に自分自身と相手の状況を観察し知ることが大切なのだという。
筆者は他人から受けとる何もかもが気になり病んでしまう自分自身に悩んでいたが、「あなたはもっと繊細になれる」というカウンセラーからの一言によって変化が現れはじめたと述べている。

昔、友達といるときにその人の鳴らすボールペンのノック音が気になって仕方なかったことがある。
他のノイズも同時に聴こえているはずなのに、そのときは急かすような苛ついているようなそのノックの音だけが耳元へとりあげられていた。
「ノック音がうるさい」ではなく、相手の心理がせわしない動作に現れており、そこに過剰に反応している自分がいる、その状況を知るべきだったということなのかな。

〈自信のない人間、自分を弱いと思っている人間の強さを侮ってはいけない。/彼らはその弱さを使って他人を誘導することに長けている。〉(同上)

それなー。なんかこの感想書きながら寝てて、今起きたんですけど一度時をはさんでしまうとぜんぜんだめなように思えてしまう。




本の感想