どうもこんにちは。
いま何を書いても滅したいみたいな文章になるのであまり長くは書きませんが(滅しもしませんが)久しぶりに記します。

今日、水槽のある空間にいたんですがそこのおじさんが水色のコンパクトを取り出して「ベタ(魚)がね、これを見ると怒るんですよ」私に渡してきたんです。
「やってみますか」って。何をしろと。
「ベタは縄張り意識がすごいから、鏡に映った自分の姿でも敵だと思って怒るんです」
なぜ怒らせるの?と思いつつ、小さな水槽に水色の鏡をくっつけてみる。近寄ってくる青い魚。揺れる赤いひれ。
「たまには怒らせて、ひれを運動させてあげないといけないんです。美しいベタを僕は育てたい」
詩人だなあ。ベタは怒るとひれが、わーっと立つみたい。けれど私の鏡攻撃にはあまり怒りを露にしなかった。
「お見合いをさせるときもね、ついたてが要るほどなんですよ」

鏡を見て怒る。恋をするときも怒る。正確には、敵だと誤解して怒っているのだろうけど。
でも怒ったほうがより美しい姿になる。なんてこった。

私ね、最近他人に自分の姿を見てしまうんです。
頭ではわかっているんだけど、他人だと。でもその人(知人)の取る行動や至る思考が私と似ていることが多くて、だから理解できるし助けてあげられると思っていたんだけど想定より悪い方へ進んでしまった。
わかってあげられる(と思っている)のに見ていると自分のようで苦しくなる。でも自分と違うということも知るたび苦しくなる。
私のときは誰も気づかなかったのにとも思う。なんてこった。心が狭すぎ。

本なんてどうでもいいんです、と先日言ってしまった。本なんてどうでもいい。あなたに助けを求めているのに他人の言葉で私を救おうとするなんてひどい。なんてこった。私がよくとる方法なのに私はなんて勝手なことを思うのか。

「本なんてただの紙の束ですから」
っていうのは『金魚屋古書店』の名台詞でしたね。また本の言葉を借りてしまう。

芳崎せいむ『金魚屋古書店』

本なんてただの紙の束、と言ったあとに皆が口をあんぐりさせるのがミソだよね。普通の人は「そうだよねー」っていうはず。

田辺聖子『ジョゼと虎と魚たち』

主人公が、うちらは死んだんや、ってぽつりと思う場面が好きです。わかるような思い出が自分のなかにあります。