人は何故生きるのか?
その明確な答えを我々は未だ知らない。

我々先進国において
かつて我々の先祖は貧困の時代を、生きる事に、裕福な暮らしを目指して一生懸命に頑張った。
だから戦後の急成長を成し遂げ、我が国は世界に誇れる国となる。

だが現代、我々は生きる事に関して、懸命にならなくともある程度の食料、衣類といった日常生活に困る事は少ない。
だが、生きる目標、人生の意味を見出だせなくなった。
いや、おそらく、逆に現代人は「人間」という自分自身の問題を突き付けられたのだ。
今はそんな時代だと思う。

生きる意味、
即ち我々の「命」とは何なのか?
我々は日々の課せられた仕事や、日課に追われる毎日であるが、最終的には我々の命題である「命」の意味に繋がる。
それを理解すれば
命、生きる意味、それらは我々が我々に対して放った至上命題であることを知るだろう。
そしてこの問題は、

多くの人が、
多くの歴史を経て、
多くの議論を重ねてきた問題である。


最近の新興宗教である唯物論者は、命は肉体が滅びれば消滅、無に帰するという。

キリスト教以降の新興宗教は、命は「神の権限により無限性を保証され不滅である」という。
ただし悪し命は最後の審判に架けられ無限性は保証されないらしい。


頑なな唯物論者ならば前者
未熟な精神論者ならば後者が正しく聞こえるかもしれない。

しかし、実は両者とも同レベルである事は少なくない。


宗教論者は命は有限ではなく無限であり、肉体が滅びても永遠に不滅であるという。
しかし、それを理論で説明することが極めて困難であるために、自らの演説舞台にゲストとして「絶対者」を招かねばならない。


唯物論者の多くは無神論者であり、神やら永遠の命を否定する。
これは永遠や無限というものを根拠があって否定しているのではない
否定しうる根拠がないのである。
要するに「解らない」のだ
これはそれらの人達が無知である、というよりは対象が人間の理解の限界、そして言語の限界を越えている為にこのような問題が生じる。


過去の記事にも書いたが
我々の「認識」は「限定」によって成り立つ。

例えばAという対象の状態が我々の認識と一致した場合が真理となる。
これが一般的な考え方。
しかし、対象と我々の認識の一致は何を以て保証されているのか、と問えばそれは観測者の判断以上のものではないのである。

また我々の認識は比較対照によってのみ、対象の状態を認識出来る。

例えば目の前のボールが大きいのか小さいのか
卓球に使われる玉はバスケットボールよりも小さい
バスケットボールは大きい。
しかしこの世に自分自身とバスケットボールしか無い場合、それが大きいのか小さいのか判断することはできない。
自分の身体より小さいと言えるのかもしれないが、そもそもカテゴリー分けする必要もないだろう。
ある人が悪人である、と断定するにも、法律に対してなのか、一般常識に対してなのか、倫理的、人道主義的なのか
何と照らし合わせるのかで大きく変わってくるはずである。

実に我々の認識というものは安定が無い。

ましてや対象が、神という絶対者であり、人知を越えた存在であるならば、我々が認識出来る、と考えるのは極めて高慢であり、その存在を否定しうる材料も、少なくともこの地上には無い。
そのような対象を認識して肯定、否定が我々の認識や言語で説明出来ると考えるのがそもそも間違っている。

「こうする事が神の御心に…」など、そんな事は我々が解るはずもない。



ならば「生きる意味」は誰によって明確にされるべきか?
誰にも出来ないが、誰もが見いだすことも出来る。

実はすべての人達が知っている
「幸せになりたい」という事だ。
ただそれはあまりにも漠然として、抽象的である故に明確な答えがないのである。

聡明な読者ならお気付きなさると思うが
実は我々の思考は、複雑なものよりも「命」「生きる意味」「幸せに」といった
『人間の本質に対しての単純なる議題』
というものこそ分かりにくいようになっている。

ならば我々は認識出来ず言葉にも出来ない対象とどう向き合うのか。
それぱ皆様の命の中にこそある。
それは他人の意思ではなく
貴方の真の意思。
誰もが言葉では言い表し難い理想をもっている。
それは地上の物欲的なものではなく、誰もが持っている理想、あるいは持っていた理想。
それは我々の「認識」という不完全なフィルターを通す為に未熟だった訳であり、実は人間が本来持つ理想は極めて崇高な為、我々の認識やら言語が追い付かないのである。