ファブレ邸の庭園には、その日いつもより少し華やかな雰囲気が漂っていた。
従姉のナタリアが訪問していたのである。
アッシュがファブレ家に戻ってきた事で、許嫁問題で揉めるものかと思いきや、インゴベルトはナタリアが心を決めるまで待つ、と保留にしてしまった。
ナタリアの意志を尊重するのは尤もであり、今や二人の息子がいるファブレ家の方でも否やはない。
三人のいとこ同士は極めて穏やかに、午後のひとときを過ごしていた。
「あ、そうそう。忘れるところでしたわ」
ティーカップをソーサーに静かに置き、ナタリアはクラッチバッグから一枚の小さな紙を取り出した。
「ゆうべ、お父様の書斎の整頓をお手伝いしていたら古いアルバムが出てきましたの。その中に……ほら、ご覧になって」
丸いテーブルの上にナタリアが置いた紙を、ルークとアッシュ、更にミュウが覗き込んだ。
それはセピア色の写真であった。
幼い女の子が、二人ならんでおめかしをして写っている。
弾けるような笑顔をカメラに向けた、セピアカラーでも淡い色と分かるフワフワの巻き毛の女の子はおそらくナタリアであろう。
「わたくしが四つか五つか、そのくらいの写真だとお父様は仰っていたけれど」
わたくしはよく覚えておりませんの、とナタリアは言った。
「こっちがナタリアなのは分かるけど、隣の子ってダレ?友達?」
「うふふ……」
「な、なんだよ気持ち悪いなあ」
いたずらっぽく目を細めたナタリアは、アッシュをちらりと見た。
「ん。俺も知ってる、ってことか?」
「ええ、よく知っているはずですわよ」
「お前と同い年くらいだろう?」
アッシュはためつすがめつ写真を眺める。
笑顔のナタリアと比べると、隣に並んだその女の子はカメラを嫌っているのかやや不機嫌そうだ。
ナタリアと歳が近く、こんな幼い頃に並んで写真に写るほど親交があった女性などいただろうか。
ましてや、自分が知っている人物など。
「ダメだ分からん」
「アッシュが知らないんじゃ、俺にだって分かるわけねーや」
「そんな事はありませんわ。ルークもよく知っていてよ?」
「えー?マジかよ」
真実を知るナタリアだけが、くすくすと笑っている。
「うーん……結構可愛いんだよなあ。多分美人になってるよな?」
「そうですわねえ……その言い方はあまり似つかわしくはないけれど、良いお顔立ちだとわたくしは思っていますわ」
「あー、もう。クイズじゃねえんだから勿体振らずに教えてくれよ」
ルークがギブアップし、ナタリアに正解を急かす。
しかしナタリアはニマニマと笑うばかりだ。
「アッシュは本当にお気付きにならなくて?」
「気付くも何も……」
「貴方ですのよ」
「そう、俺……え?俺?」
「……え、これアッシュなの?」
ルークとアッシュは顔をくっつけるようにして写真を見詰めた。
「あー……言われてみれば面影もあるような。この機嫌悪そうな感じとか目元とか。女の子だと思い込んでたからなあ」
「な、なんで俺がこんな格好して……」
「わたくしのお下がりだそうですのよ」
「そうじゃなくて、どうして俺がドレスなんか着て写真を撮られる羽目になったんだ」
ナタリアも父に聞くまでは女の子の正体を知らなかった。
経緯としては、さほど特別な話ではない。
跡取りとなる男児を授かったものの、やはりシュザンヌは女児も欲しかったらしい。
しかし身体が弱く、二人目は難しかろうと医師に言われ、涙を飲む事となった。
その為シュザンヌは姪であるナタリアを娘のように可愛がり、息子には着せる事が出来ないドレスやアクセサリーを度々送ってはその愛らしい姿を眺めていた。
ある日、彼女は新しいプレゼントのドレスを用意し、息子を連れて城に遊びに行った。
そこで事件(?)は起きるのである。
新しいドレスをナタリアに着せている間、彼女は思った。
今なら旦那様もいないし、ちょっとだけなら、と。
「写真を撮らせたのは居合わせたお父様なんですって。折角だから記念に、と。だから、叔母上も一枚持っているはずだと仰っていたけれど」
「母上も?」
「忘れてんじゃねえ?俺もアッシュも知らなかったんだしさ」
「叔父様は厳しい方だから、こっそり隠し持っているのかも。こんな可愛らしい写真、叔母上がどこかにやってしまうとは思えないもの」
「まあ、可愛いけどさあ……」
ルークは写真を取り、アッシュの顔の横に持って行く。
「見比べるなら自分の顔でやれ」
「だって俺じゃねーもん。あれ?こうして見るとそんなに変わってはいないような……」
「変わってないわけないだろうが」
「いや……お前、案外いけるって」
「は?」
「今でもドレスとか似合いそうかなー、と」
似合うわけがない、とアッシュが言う前に、ナタリアがポンと手を叩いた。
「まあルーク!貴方もそう思いますの?」
「って事はナタリアも?」
「変な所で意気投合するな。こんな写真見た後だから錯覚してるだけだ」
「錯覚じゃねえって。いけるいける。俺が保証するよ」
「そんな保証いらねえよ」
「先月、叔母上が娘時代の素敵なドレスを譲って下さったの。それを仕立て直した物があるのだけれど……如何かしら?」
「い、如何って……」
「着てみては?」
「無理だ」
「無理かどうかは着てみないと分かりませんわよ。サイズの心配をしているなら大丈夫、ウエストはバックリボンで調整するタイプですの」
「心配はしていない。着ない」
「いや、そこは乗ろうぜアッシュ」
「ならお前が着せてもらえよ」
「やだ」
おかしな方向に話が流れ、アッシュにとって穏やかならぬ雲行きになってきた。
ドレスを着たナタリアを見るというのならば良いが、ナタリアのドレスを着るとなるとそれはもはや変態行為でしかない。
ましてや若き日の自分の母親が着ていた物を、だ。
「お前ら冷静になれ。男の体型に女物なんか合うわけがねえんだよ。そういう風に出来てねえんだよ」
「まあ、強情なこと」
「いっぺん着てみりゃいいじゃんなー?」
「っ……ドレスなんか着たって悍ましいだけだろ!お化け屋敷じゃねえんだぞ俺は!」
聞く耳持たない二人が、よりによって自分の片割れと元許嫁である。
この場から逃げる事は不可能ではない。
しかしいくら下らないと言っても、逃げるなどそれこそ男らしくないとアッシュは思った。
「……よーし、なら着てみてやろうじゃねえか。世にも恐ろしいもん見せてやるから覚悟しとけよ……」
それを聞いたルークとナタリアは、臆するどころかハイタッチをして喜んだ。
妙なところで息の合う二人なのであった。
アッシュの気が変わらない内にと、三人は急遽城のナタリアの私室へ移動した。
着付けはルークが手伝う事になり、ナタリアがトルソーに着せたドレスを使って念入りに説明をしている。
捨て鉢になった気分で、アッシュはそれをソファーに座って眺めていた。
入口付近にメイドが一人控えている。
ナタリアより五つばかり年上であるが、もう十年近く彼女に仕えているメイドで、ヘアメイクの心得もあるのだという。
どうせならきっちりやった方が良い、とナタリアが呼びつけたのだ。
「よし、覚えた。こっちは大丈夫だぜアッシュ」
「では、わたくしたちはあちらで待っていますから」
ナタリアはメイドを伴ってベッドルームへ下がった。
「うん、確かにこれなら着れそうだな。ほら、ここも編み上げになってて調整出来るし、袖はゆったりしてるし」
「そうか……それは残念だ」
一度決めた肚である。
アッシュは毅然とした面立ちでソファーから立ち上がった。
深海のようなブルーを基調に、細やかな金糸の刺繍が散りばめられた生地は如何にもナタリアの髪に映えそうである。
正面は一見すると奥ゆかしいディテールだが、背中部分はレースアップになっていて肌が覗くようになっている。
着れたところでやっぱりお化け屋敷だ、とアッシュは思った。
「っぐえぇ!!」
「あ、キツい?」
「い、息が詰まっ……」
「わりぃ。もう少し弛めるわ」
ドアの向こうから漏れ聞こえる二人のやり取りは、到底ドレスを着ているとは思えない。
ナタリアは楽しげだが、メイドはアッシュの苦悶の叫びが聞こえる度にハラハラと落ち着かない様子だった。
「おし、出来たっ」
ルークは教えられた通りに着付けを完遂した。
「アッシュ、ちょっとこっち向いてみ?」
「……嫌だ」
「大丈夫だって。ちゃんと着れてるから」
スカートの何とも言えない着心地に、アッシュはひたすら戸惑っていた。
ウエストから下の部分は砂時計の括れのような丸みを帯びて膨らんでいる。
その土台となっているのはパニエと呼ぶらしいが、どうでもいい。
「お……」
「っ!!いきなり前に回るな!」
「思ってたより全然……俺、着付けの才能あったりして」
焦れたルークが自らアッシュの正面に回る。
惚れている欲目も手伝ってか、似合っていると言っても言い過ぎではないくらいにそのドレスはアッシュの身に馴染んで見えた。
「似合う、よ?」
「似合うわけあるか」
「いや、本当に……俺もちょっとびびった」
男性の特徴である喉仏をアクセサリーなどで隠してしまえば、すらりと背の高い淑女の出来上がりとなるだろう。
減り張りを計算したドレスの構造がそう錯覚させているに過ぎないが、普段目にするよりも幾分か華奢に見えるのだ。
不足があるとしたら、寄せて上げる胸がない事くらいだろうか。
「鏡見てみろよ。自分でもびっくりするって」
「セルフお化け屋敷なんかしたくねえ」
「そうじゃないって。ホントに……」
「もういいからナタリア達を呼べ。こんなのいつまでも着てられるかよ」
「はいはい分かったよ。まあ、全部出来上がってから見た方がいいよな」
まだドレスを着るという第一段階を終えたに過ぎない。
これから仕上げが待っているのである。
後編に続く。