07/04 16:47 曇天



 月の無い夜だった。
 唯々、濃霧の様に深い闇が口をかっぽり開けている。星の点滅の様な煌きも今宵の空には皆無だった。

「先生、振り向かないでください」

 時折振り返りそうになる勝を岡田は諌めた。背後から数人、尾けられているのだが、岡田が護衛をしている勝は「ふむふむ、三点」などと呟いて、手に持った紙に何やら書き込んでいた。

(何が三点だ

 岡田は呆れる様に小さく溜息を吐くと、気配で尾けている浪人の数を数える。二人、と言った所か、と岡田は確認した後、如何撒くかを考えた。
 今日は朝から曇空で空気は薄暗く、梅雨特有の湿気が着物をすり抜けて、べたりと肌に張り付いていた。当然、夜になってもその空気も、空模様も変わる事はなく、仰げば薄暗い色の雲が月の光を吸い取ってしまっていた。
周りは濃い闇が広がり、暗殺日和だ。それと同時に闇に囚われ易い夜でもある。
心の中の闇に、夜闇にぱっくりと喰らわれてしまうのだ。

「随分と闇の濃い夜だねえ、岡田君」
「ええ。先生、気をつけてください」
「気をつけるのはね、君の方だよ。闇に捕縛されない様にしなさい」

 返事は返さなかった。

「闇はね、恐ろしいものだよ。君なら知っていると思うが私は闇が恐ろしい。刀で以って斬られるより、ずっとね」
「先生は光の人間です、俺とは違う」
「ふむ、君には私が光の様に見えたのか」
「ええ」

 勝は惚けているかのように「おかしいねえ」と言いながら首を傾げた。

「岡田君、闇とは黒い。黒いは夜、夜は寂しい、寂しいは人間の心の一部だ」
は?」
「君が心配だな、八咫烏などに魅入られねば良いが、気をつけたまえよ」
「心して、おきます

 八咫烏とは何だ、と岡田が顔を顰めると同時に背後から尾けていたはずの浪人が、二人の前にある路地から出てきた。岡田ははっと息を呑んで、腰に下げている獲物に手を伸ばし、抜刀する。
 何の躊躇もなかった。
 いや躊躇する必要などない、と考えているのかも知れなかった。坂本に頼まれただけの護衛であったが、この勝を狙う輩などごまんといる。
 それなのに本人である勝は呑気に「おお、今のは早かったね、五点」とまた手元の半紙に点数を書き込んでいる。岡田は先程の様に溜息を吐くと、鍔競り合いをしている浪人を弾き飛ばして斬った。
 刀が肉を斬った。
 あの特有の感触に体が震える。

岡田が後一人を斬ろうと柄をぎうと握った。男は少し慌てた様な面持ちで「善い闇だ」と呟いた。

「我らはお前を勧誘のために来た、岡田以蔵!」
「戯言を」
「いや、我らは八咫烏の手の者である」
「おやおや、私の心配が的中してしまった」

 勝が呑気に呟いた。

「お前のその腕、何の躊躇もなく斬る闇をお屋形様が買っている。是非我が八咫烏に入れ」
「断る」

 

岡田は考える素振りも見せずに言い放つ。まるで機械仕掛けのようだな、と男は思った。

 
「よく考えろ、お前は人斬りだ。人斬りは何時かは捨てられる存在。我が党は違う、お前の様な人斬りを捨てる事はない。闇と戯れ、闇に溶ける、それが八咫烏だ」
「捨てられても構わん。俺はあの人の下以外で働くつもりは無い」
「ならば、死、あるのみ」

 男は暗器の様な物を着けた腕を振り、岡田に襲い掛かる。岡田はそれをも躊躇う事もなく斬り捨てた。

 先程まで呑気に眺めていた勝が「良くないねえ」と呟いた。岡田が斬り捨てた男の骸は夜の闇に溶け出す。闇が男を飲み込む様を岡田はただ黙って見ていた。黙って見ている岡田を勝は悲しそうな顔で見詰めた。

「よくないねえ、岡田君。何でもかんでも斬り伏せりゃあいいってもんじゃないでしょう」
「先生、あんたは賢いが餡蜜よりも甘い」

 岡田は刀に付いた血を振って落とすと勝に目もくれずに歩き始める。もう先程切り捨てた骸の事など忘れてしまった様にも見えた。

「甘いかも知れないねえ、岡田君は俺の護衛をしているから斬るのも仕方ないのかもしれない。君は人斬りだし、それでしか確証を持てぬのかもしれない。けれどね、それは寂しいだろう?とても寒くて凍えてしまいそうにならないかい?」
「さあ?そんな感覚忘れました。それに、あそこで俺があいつらを斬らなければ、先生も俺もあいつらに斬られて、仲良く死出の旅に出てましたよ」

 だからあんたは甘いのだ、と岡田は呆れた様に返した。
 空は未だ闇の中に溶けたままであった。






(了)





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