─波の音が聴こえる。


まただ、と、そっと息を吐いた。

彼女の故郷へ訪れて、果ての無い海を一人眺めたのはもう随分前のことだというのに。


自分の故郷の海を見せたい。

彼女は私に何度もそう話しては、子供のように無邪気な、しかしどこか酷く穏やかな眼差しをしていた。


地方からわざわざこの大学に入学し越してきた彼女とは逆に、私は生まれも育ちも都会一筋。

親の転勤で引っ越したことも無ければ、敢えて実家を出て、何処か遠くの大学へ行こうとも思わなかった。


一人暮らしに憧れない訳ではないが、とにかく過保護な両親の説得や引っ越しの手続き、家事全般をこなさなければならない等々障害諸々全般。


まぁ、つまり色々と面倒臭かったのだ。


そんな訳で、大して悩むことも無く実家からそこそこ近い大学を学舎に選んだ。


私の怠惰な性格ゆえの選択だったが、結果としてこの大学にして良かったと思う。

....今はもう居ない、大切な人と出逢えたのだから。



彼女は、不思議な人だった。


いや、所謂“電波系”だの“不思議ちゃん”だのでは断じて無い。

確かに性格は飄々としていたし、口をついて出てくるものは軽口ばかり。


でも、何より印象的なのは彼女の“眼”だった。


しん、と鎮まり返った夜の水面を思わせるその瞳。

それに時折、別の色が混じるのだ。


それが何だったのかは今でも分からない。

実際に、その色が現実のものであったかも分からない。


透い碧色と決して混じり切らない、危ういバランスの上に成り立つかのような、静と動の二律背反。


とても色鮮やかで、穏やかで。

でもうっかり触れれば骨ごと熔けて消えてしまいそうな、熱さと、激しさ。



彼女のその色を初めて見た時、どうしてだか眼が逸らせなかった。


同じ大学の生徒として。気の合う友人として。生まれて初めての恋人として。

沢山、沢山の時間を二人で過ごしたのに。


私があの瞳に、心を乱されない日は無かった。

揺さぶられ、面白い程何度も乱れた。



初めてあの海を見た時、その無限の碧に、きらきら光る水面の眩しさにただただ眼を奪われた。


ああ、確かに彼女はここで生まれ、沢山のものに見守られながらすくすくと育ったのだと思った。

きっと、この海がその最たるものなのだと。


片や自然、片や人間でありながら、しかしとてもよく似ているのだ。


彼女は、この海から産み落とされたのかもしれない。

一瞬、本気でそう思ってしまったくらいに。


─母なる碧に、彼女の瞳を重ねてしまった。

もう記憶を頼りにしか見ることの出来ない、その瞳を。


でも、そこに在るのはやはり何処までも“海”だった。


確かに彼女ととてもよく似ている。

だけど、そこに私が無意識に探し求めた、あの焦げ付くような色は見付けられなかった。


ただ、ただ穏やかな碧が広がっていた。



そこに彼女が居ないこと。

それでも、彼女をよく生き映した、その透いた色。


私が何より愛した、綺麗な、綺麗な人。


見てしまったら、思い出してしまったら、もう止められなかった。


誰にも聞かせることの無かった想いが、彼女の偉大なる母の前ではぼろぼろと形になって零れ落ち、白い砂浜へ吸い込まれていく。



....どれだけ泣いていたのだろう。


砂浜で体育座りのまま一人泣きじゃくっていた私に。


ぴしゃり。

と、頬に冷たいものが掛かった。


「っ!?」


伏せがちな顔を慌てて持ち上げる。


どう考えても、偶々水が私のところまで跳ねて、ほんの少し掛かっただけだ。

こんな海辺の近くに座っているのだから、不思議なことなんて、何も。


分かってる、ちゃんと分かってる。


でもそれじゃあ、どうして私はこんなに動揺しているのだろうか。


もしかして、もしかして今、私に触れたものは....?


「─璃子....?」


──頬に触れた滴が、一瞬、熱を帯びたような気がした。




──その記憶を網膜の裏で眺めながら、つと、頬に手をやる。


あの海をあとにしてから、時折、どこからともなく波の音が聞こえてくるようになった。


誰かに話せば、きっと疲れているのだと一蹴されるような、おかしな話。


でも、そんな時自分の頬に触れると、どうしてだか自分のそれではないと分かるもの─熱─を感じるのだ。


....彼女が、呼んでいる。


思い込みと言われればそれまでだが、私にはどうしてもそう思えてしまう。


確かに、疲れているのかもしれない。

この頬の温かさも、穏やかに耳を打つ音も、全て私の願望が造り出した幻かもしれない。



初めて彼女の故郷を訪れてから、二度目の訪問は未だ実行に移していなかった。


あそこは、とても居心地が良かった。

そのまま全てをやさしく拐っていってくれそうに、美しく恐ろしかった。


もう一度そこへ行けば、このよく分からない衝動を、自分では止めることが出来ない。

そんな、予感がした。


誰かが私の腕をとり、碧の世界へ有無を言わさず連れて行ってしまう。

そんな妄想じみた考えが、頭を離れなかった。



....そんなことをしたって、きっと彼女が喜ぶ筈が無い。


何度もそう言い聞かせ、危険な妄想をぐっと押し殺す。



彼女は、とても優しい人だった。


表面的にはおちゃらけながらも、密かに自分より誰かのことばかり気に掛けているような。

救いようが無い位のお人好し。


そんな色々と危うい、綺麗な彼女だからこそ愛しいと思ったのだし、私の我儘なんかで、静かに眠る彼女を困らせたくなかった。


....だけど。


「流石にお墓参りには行くべきよね....」

もうすぐ一年だし、と少し言い訳がましく呟く。


自分でも、会いたいのか会いたくないのか分からなくなっていた。

いや、“分からない”と思い込みたかっただけかもしれないが。


「....大丈夫」

そう、口内で繰り返し呟く。



もし、もし貴女がそこに居るのなら。


「また、あの海を見に行くだけだし」


もし、貴女にもう一度逢えるなら。

その狂おしい色を、そこで見付けることが出来たなら。


「ついでにあいつにも顔見せてやらないと。あーチケットとらなきゃ」


やさしいやさしい碧の部屋で。


「──行きますか」


綺麗な貴女と、いつまでも、いつまでも。

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