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今もインドで歌われている「日本兵を讃える歌」


話題:親日国




■今もインドで歌われている「日本兵を讃える歌」■


くればのひとり語りからのさんからの転載です。
sahashipesu.blog.fc2.com




【親日国インド】

インドのマパオという村では、日本兵を讃える歌が、戦後も長きに渡って歌い継がれてきました。

歌を作ったのは村の女性。

動画にも出演されています。

インド独立のため戦う日本兵士の勇敢さを讃え、歌にしたそうです。

四番の歌詞に、こうあります。

「広島に悲報 勇者の胸をつらぬき 涙して去れる 日本の兵士よ なべて無事なる帰国を われ祈りてやまず」

インド国会では、毎年会期中の場合、8月6日に広島、長崎の原爆の犠牲者に対して黙祷を行っているそうです。

また、昭和天皇崩御の際、インドは異例の3日間の 喪に服したそうです(日本は2日間)。

また、 大東亜戦争後の極東軍事裁判(東京裁判)においてインド代表判事パール判事はイギリスやアメリカが無罪なら、日本も無罪であるとして、日本無罪論を発表しました。
↓↓↓↓
詳しくはこちら
mblg.tv


加えて国会演説の際、インド初代首相ネルーは「彼ら(日本)は謝罪が必要なことなど我々には何一つしていない。それ故に、インドは(サンフランシスコ)講和会議には参加しない。講和条約にも調印しない」と述べた。


1952年4月国交樹立、同年6月平和条約締結。


今もインドで歌われている日本兵を讃える歌



「日本兵士を讃える歌」


祖父の時代より
今日の日まで
美しきマパオの村よ
いい知れぬ喜びと平和
永遠にわすれまじ

美しきマパオの丘に
日本兵来たり
戦えり
インパールの街目指して
願い果たせず
空しく去れり

日本兵
マパオの丘に来る
それは4日の火曜日
1944年のことなりき
我は忘れじ4月のあの日

罪無き民も散り散りに
西に東に追いやられ
再び神の恵み受け
集まり住まん
この地マパオに

広島の悲報
勇者の胸をつなぬき
涙して去れる
日本の兵士よ
なべて無事なる帰国を
われ祈りてやまず





以上で転載終わりです。

インドの友情は素晴らしいですね♪
胸が熱くなりました。

日本の反日マスコミの報道だけを見ていると、日本はまるでアジア中や世界中で嫌われているかのように錯覚しがちですが、もちろん実情は異なります。

特定アジア等の一部の国を除いて、世界中に親日国家は本当にたくさん存在しています。

日本に親しみを持ってくれている人達が大勢いる事を知って下さい。

台湾の癒やしの力は凄い


話題:親日国





■台湾の癒やしの力は凄い■



旅行先で財布を落として帰国。ガッカリしたままののある日、自宅に国際郵便が。差出人は……


オレじゃなくて、いやね、ウチの母親なんですよ。母親が台湾に旅行するってんで、お守り持たせた訳ですわ。
母親の入ってる団体の慰安旅行だから別にそんな危ないわけじゃないんですけど、ウチの母親飛行機乗ったことないイナカモンなんで、怖がったから持たせたんです。
お守りっていっても、翡翠の玉(漏れが山で拾ってきて磨いてキーホルダーに加工したやつ)なんですけどね。

で、無事帰ってきたおかんがなんか暗い顔してんの。
どうしたの、楽しくなかったのか?ってきくと「財布落とした」って。
台北かどっかのタクシーの車内にうっかり忘れてきたみたいだ、って言うんですよ。

財布はともかく、漏れに貰った翡翠の玉を入れてたのが申し訳ない、ってなんかもう死にそうな顔であほだなあ、おかんが無事で帰ってきたんだからじゅうぶんなんだっつーの、って言ってもまだ立ち直れないの。

んで、そんなことがあって帰国から10日くらいたった日にね、国際郵便が届いたんですわ。

差出人は台湾のヒト。
なんじゃこりゃ、とおもって母親が開けると、そこには落とした財布が入ってたのね。

ついてた手紙には「私はタクシーの運転手だが、台北の駅であなたたちを降ろしたあとに財布を見つけた。 追いかけて返そうと思ったが、もう見つからなかったので失礼と思ったが財布の中身を見させてもらった。
運転免許証を見つけたのでその住所にこの財布を送ります。
私は日本語が読めないが、祖父が日本語の読み書きが出来るので代筆してもらいました」とかあったんですよ。

もうね、アホかと。行きずりの外国人のサイフですよ?ネコババしてもばれないのに、律儀に送り返すって、どういう人たちなのかと。

おまけに、入れてたNT$も全額そのまま。
で、封筒には別の包みも入ってて、それには「財布を落としてしまってはお土産が買えなかったのではないか。
とても美しい翡翠の玉が入っていたのであなたは石が好きな人なのだろう。お土産代わりにこれを贈ります。
どうか台湾にまたいらしてください」とかいう手紙と翡翠のブレスレットが入ってたんですよ。

もうね、なんつー人かと。ちょっと書いてて涙出てきちゃうくらい、イイ人じゃないかと。

こんないい香具師がいる国だったらこんどは漏れも行ってみたいなと思ったわけでした。





以上はこちらからの転載でした。
sp.logsoku.com



世界でも有数の親日国である台湾に相応しい素晴らしいエピソードですね。
本当に有り難い限りです。


別に「台湾人の全てが日本が好きで悪い人など居ない」とまで主張する気はありませんが、こういったエピソードが特亜のような反日国家よりも比較にならぬ程多くなるのも事実であり、日本に剥き出しの敵意を向ける国よりも、日本への親愛の念を向けてくれる親日国に親しみを感じるのは、人間として至極当然ですよね♪
(´∀`)





 _ _ ∩
( ゚∀゚)彡 ありがと♪
 ⊂彡  台湾♪


 _ _ ∩
( ゚∀゚)彡 台湾♪
 ⊂彡  最高♪

ブータンが親日国家なのはこの人のおかげ


話題:農業




転載元
mblg.tv


■ブータンが親日国家なのはこの人のおかげ■



西岡京治(にしおかけいじ)


ブータンで最も尊敬された日本人

国際協力事業のモデルとなる

身の丈にあった開発を

神秘の国ブータンで、一人の日本人が28年間、農業技術指導を行った。
農作物の生産力を飛躍的に増大させ、若いリーダーの育成に成功した。
一人の日本人の「無私の貢献」がブータンの未来を拓いた。
ブータンを愛し、ブータンのために生き、ブータンのために死んだ西岡京治は、日本人の誇りである。


【神秘の国ブータンで農業指導】
西岡京治は隠れた偉人である。
日本人で彼を知っている者は、ほとんどいない。 しかし、ヒマラヤの小国ブータンでは、最も有名な日本人である。
彼はこのブータンに渡り、28年間という長期間、この国で農業指導に携わってきた。
日本の国際協力事業の最も成功した例として西岡京治は記録されている。

そもそも、日本人はブータンという国そのものをほとんど知らない。 神秘の国なのである。
人口は100万人程度で、国民の大半は農業で生計を立てている。
しかし、国土の大半は山と谷であるため、田畑に使える土地は1割程度。 農業自給率が極めて低く、60パーセント程であった。
西岡はこうしたブータンの問題に真っ正面から取り組んで、28年間ブータンの農業指導に自分の人生を捧げたのである。


【恩師中尾佐助の推薦】
西岡京治がブータンと関わりを持ち始めるきっかけは、恩師中尾佐助助教授との出会いからはじまる。
西岡は大阪府立農学部の学生で、中尾はその助教授であった。
彼はかねてから、ヒマラヤ地方の植物の生態に関心を持っており、1958年、日本人としてはじめて、ブータン政府の正式な招きを受け手入国した。

この時、中尾はブータンのドルジ首相から、農業専門家を派遣してほしいとの依頼を受けた。
ブータンの農業指導にあたるには、ブータンの人々の生活に溶け込んで、「あの人の言うことなら間違いない」という信頼を受けなければならない。
中尾は西岡を推薦することにした。 穏やかで謙譲、友誼に厚く、誠実で努力家である西岡は、根気と忍耐が予想されるブータンの生活に最適な人材と中尾は考えたのである。

ブータン派遣の話を聞いた西岡の心は踊った。
58年に西北ネパール学術探検隊(川喜田二郎隊長)に参加し、ヒマラヤに魅せられていたからであり、そこに住む人々の貧しさに心を痛め、彼らの生活を少しでも豊かにできないものかと考えていたからだ。
1964年2月、海外技術協力事業団(現・国際協力事業団)から正式な派遣決定の通知が届いた。 待ちに待った通知であった。


【ブータン到着】
1964年4月23日、西岡は新妻里子を伴いブータンに向かって飛び立った。
目的地はブータンのパロである。
パロはパロ県の中心の町で、西岡が20数年間住み着いて農業指導した町である。

西岡は、さっそく開発庁農業局の事務所に出向いた。 そこで最初の壁に直面することになる。
この事務所の局長も職員もインド政府から派遣されたインド人で、全て彼らが取り仕切っていた。 西岡は歓迎されてはいなかった。

局長は、ブータンの農業事情を一番よく知っているのは、自分たちインド人で、海の向こうの日本人に何がわかるかと言わんばかりの態度であった。
こうした冷たい歓迎を受けながらも、到着早々、それにめげるわけにはいかない。
彼らを納得させるには、実際に試験栽培で見せるしかない。
ところが、ブータンにはまともな試験農場が一つもないのである。
彼の最初の仕事は、政府に働きかけて試験農場の土地を提供してもらうことであった。


【試験農場での野菜栽培】
政府が提供した最初の試験農場は、2百平方メートル程の小さなものであったが、とにかくここから始めるしかない。
政府はまた3人の少年を実習生として付けてくれた。 まだ12.3歳の少年たちである。
彼らが、後にブータン農業を担う人材に成長する。

西岡がまず最初に彼らに教えたのは、大根の栽培である。 種は日本から持ち込んでいた。
畑の耕し、種のまき方、土のかけ方、一つ一つを丁寧に少年たちに実演して見せてあげた。
大根は夜と昼の寒暖の差が大きい程、よく育つ。
7月末には、それまでブータンで見たことのない大きな大根が育っていた。
1年目の出だしは、まずまずの成果と言えよう。

2年目には、試験農場を水はけの良い高台に移してもらった。 広さも3倍になる。
この頃になると、試験農場の噂が広まり、知事や国会議員がつぎつぎに試験農場を訪問するようになっていた。
その一人の助言で、試験農場で栽培された野菜を国会議事堂の前で展示してみた。
これが大評判となり、訪問客も増えていった。

2年の任期が切れようとする頃、西岡は悩んでいた。
ようやくブータンの農業がわかりかけてきた。
ここで帰国してしまえば、当初の目的を果たせないし、この2年間の無駄になる。

こんな気持ちで悶々としている頃、国王から任期延長の話が飛び込まきた。
願ってもないことである。
この2年の努力を国王が評価してくれたのだ。
さらに、国王から広い農場用地を提供するという申し出もあった。
彼は、「ブータンに来て、これほど嬉しいことはなかった」と語っている。

彼のブータンにかける意気込みは生半可なものではなかったのである。
この時作られた農場が、ブータンの近代化を担っていくパロ農場である。


【稲の増産】
1971年は、ブータン農業史において画期的な年となった。
パロ農場以外の農家の田圃で初めて「並木植え」の田植えが行われた。
並木植えとは、縦と横の一定間隔で苗を植える方法で、日本では昔から行われていた。
しかし、ブータンでは勝手気ままな植え方をしているため、手押しの除草機が使えないし、苗と苗の間の風通しも悪く、生育によくなかった。

西岡は、これをなんとか改めようとしたが、昔からの農法を変えるのは簡単なことではない。
まだ一部とはいえ、初めてそれを実行する農家が現われたのである。
しかし、収穫量がもし上がらなければ信頼は一気に失われる。 西岡は祈るような気持ちで稲の生育を見守った。

結果は、並木植えに変えただけで、40%の増産。
西岡は胸を撫で下ろした。
パロ盆地では、数年のうちに約半数の農家が並木植えに変わり、現在ではパロ盆地の8割は並木植えになっている。
その効果を誰もが認めたからである。


【シェムガン県の開発】
1976年から80年までの4年間、国王直々の立案によるシェムガン県の開発プロジェクトに責任者として携わることになる。
このシェムガン県は、貧しいブータンの中でも極貧地域で、中央から忘れられた土地と言われていた。
人々は昔からの焼畑農法に頼っていた。
収穫量が下がると新しい土地に移住して、また森を焼き畑を作る。 それを繰り返す生活だった。

西岡はここに10人のスタッフと一緒に乗り込んだ。
一番困難であったのは、この地域の人々を説得することであった。
西岡の粘り強い説得が続いた。
村人との話し合いは、800回に及んだという。

中尾佐助が見込んだ通り、実直で忍耐強い彼の性格がここにおいて生かされた。
西岡の考えは、「身の丈にあった開発」である。
いたずらに莫大な費用をかけるのはよくない。 自分達のやれることは極力自分たちの手で行なう。 最小の費用で最大の効果。
西岡の信念である。

古い壊れかけたつり橋をつけ変えるにしても、コンクリート製の橋を作るのではなく、耐久性に優れたワイヤーロープ製のつり橋を作ることにした。
費用も安くつくし、地元のつり橋架橋技術も生かされる。 これで17本のつり橋が新しく作り変えられた。
水田に水路を引くにも、塩化ビニール製のパイプや竹を利用した。 合計360本もの水路が完成したという。

彼らの手で新たに作られた道路は、全長300キロメートルにも達した。
この開発期間で彼らがシェムガン県に開いた水田は60ヘクタールに及んだ。
それまで水田は1・2ヘクタールしかなかったので、なんと50倍に拡大した。

極貧地域は驚くべき変化を遂げた。
生活が安定した。
子供たちが学ぶ学校もできた。
診療所もでき医者も定期的に来てくれる。
何よりも、定住地ができたことは大きい。
村人は口々に西岡にお礼を言った。
「はじめに西岡さんが言ってくれた通りになった。 お礼をいいます」と。
別れの時、村人の多くは涙で西岡を見送った。


【「ダショー」の称号】
1980年、西岡は長年のブータン農業への貢献を評価されて、国王から「ダショー」の称号を受けた。
ダショーとは英語のベストを意味し、「最高に優れた人」という意味である。
これは県知事や最高裁判所の判事クラスしかもらえない称号で、ブータンで最も栄誉あることであった。
この時、すでに16年の歳月が過ぎていた。
76年にシェムガン県の開発に携わるとき、妻の里子は7歳になる娘の教育も考えて、帰国しているので、この4年間は全くの単身での生活だった。
それから12年間、西岡のブータン生活が続いた。

1992年3月21日、日本にいる妻のもとに一本の国際電話が入った。 ブータンからであった。
電話の主はうわずった絞り出すような声で「ダショー・ニシオカが亡くなられました。 昨晩、病院に入院したところ、病状が急変しまして……」。

突然の訃報に動転しながらも、「葬式はどうなさいますか」との質問に、里子はとっさに「パロでお願いします。 ブータンの葬式のしかたでお願いします」と答えた。
ブータンで28年間、ブータン人になりきって、ブータンのために死んだ夫である。 そう願っていると彼女は確信した。

西岡の葬儀は、妻と娘の到着を待って3月26日に行われた。
農業大臣が葬儀委員長を務める国葬であった。
ラマ教の僧侶の読経が絶えまなく続き、ブータンの山々にこだました。
パロ盆地が見渡せる丘に作られた葬儀場で、遺体はしめやかに荼毘にふされた。
彼を慕う5千人に及ぶ人々が、ブータン全土から弔問に集まった。ブータンでこれまで誰も経験したことのないほど立派で盛大な葬式であった。
ブータンは国をあげて、西岡に感謝の心を捧げたのである。

西岡はブータンの土地に今なお眠っている。
そこは、パロの人々と収穫の喜びを分かち合った土地である。
西岡の心の中にブータンが常にあったように、ブータンの人々の記憶の中に今でも西岡京治は生きている。








西岡京治さんの業績は本当に素晴らしいですね!

日教組は自虐史観にまみれたネジ曲がった歴史を教えるのではなく、西岡京治さんのような偉人の業績を子供達に教えるべきだと強く思います。


先代のブータン国王も素晴らしい方なんです


話題:親日国





■先代のブータン国王も素晴らしい方なんです■



以下、ブータンの歴史 ブータン情報&旅行サポートサイトより一部引用です。



1989年2月24日、34歳のジグミ・シンゲ・ワンチュク国王が、昭和天皇の大喪の礼参列のため、民族衣装「ゴ」の礼服姿で数人の供を連れて来日した。

他の国の首脳の多くが日本から経済的な協力を得るために、葬儀の前後に日本政府首脳と会談する弔問外交を行うなかで、ブータン国王はこうした弔問外交を行わず、大喪の礼に出席して帰国した。
新聞記者が理由を尋ねると、国王は、「日本国天皇への弔意を示しに来たのであって、日本に金を無心しに来たのではありません」と答えた。また、同年には1ヶ月間も喪に服した。

★ここまで引用です★

昭和天皇の大喪の礼は降雨の中で行われました。
2月に雨が降っていた状況で、とても寒かったはずですが、ジグミ・シンゲ・ワンチュク国王は「昭和天皇に無礼になるから」と主張し、冬の寒空の下でコート着ないで民族衣装だけだったそうです。

昭和天皇の葬儀の時も弔問外交(王族や政府要人等の葬儀へ参列する機会を利用して行われる外交の事で、このケースで考えられるのは、日本へ金の無心でしょう)はせずにブータンへ帰国されました。
さらに帰国後に1ヶ月間も喪に服したそうです。

ジグミ・シンゲ・ワンチュク国王は、11月17日に衆議院本会議場で歴史に残るであろう素晴らしい演説をなされたジグミ・ケサル陛下の父親であり、先代のブータン国王です。
親子揃って日本への友情に満ち溢れておられたのですね。

★以下再び一部引用します★

【大の親日国】
日本人とブータン人は、外見が非常に良く似ているとされる。
ブータンは大の親日国家として知られ、その為、国際期間での選挙・決議等において常に日本を支持する重要な支援国でもある(安保理改革に関するG4枠組み決議案の共同提案国、国連人権委員会等)




★以上で引用終わります★

どの角度から見ても、ブータンは世界トップレベルの親日国家である事がハッキリと分かりますね♪

それにしても、ブータン・台湾・トルコ・パラオ等々の超親日国家をないがしろにして、ことさら日本に敵対している特定アジアを優遇し続ける左翼政党やマスゴミ連中は本当に腹立たしい限りですね。

ブータン国王ジグミ・ケサル陛下の演説


話題:親日国




■ブータン国王ジグミ・ケサル陛下の演説■



2011年の11月17日に衆議院本会議場で行われたブータン国王ジグミ・ケサル陛下の演説の文字起こしです。
日本への敬愛の念に満ち溢れた素晴らしい内容です、是非とも御覧ください。




天皇皇后両陛下、日本国民と皆様に深い敬意を表しますとともに、このたび日本国国会で演説する機会を賜りましたことを謹んでお受けします。

衆議院議長閣下、参議院議長閣下、内閣総理大臣閣下、国会議員の皆様、ご列席の皆様。
世界史においてかくも傑出し、重要性を持つ機関である日本国国会のなかで、私は偉大なる叡智、経験および功績を持つ皆様の前に、ひとりの若者として立っております。

皆様のお役に立てるようなことを私の口から多くを申しあげられるとは思いません。 それどころか、この歴史的瞬間から多くを得ようとしているのは私の方です。 この事に対し、感謝致します。

妻ヅェチェンと私は、結婚の僅か一ヶ月後に日本にお招きいただき、ご厚情を賜りました事に心から感謝申上げます。 ありがとうございます。

これは両国間の長年の友情を支える皆様の、寛大な精神の表れであり、特別のおもてなしであると認識しております。

ご列席の皆様、演説を進める前に先代の国王ジグミ・シンゲ・ワンチュク陛下およびブータン政府およびブータン国民からの皆様への祈りと祝福の言葉をお伝えしなければなりません。

ブータン国民は常に日本に強い愛着の心を持ち、何十年もの間偉大な日本の成功を心情的に分かちあってまいりました。

3月の壊滅的な地震と津波の後、ブータンの至るところで大勢のブータン人が寺院や僧院を訪れ、日本国民になぐさめと支えを与えようと、供養のための灯明を捧げつつ、ささやかながらも心のこもった勤めを行うのを目にし、私は深く心を動かされました。

私自身は押し寄せる津波のニュースをなすすべもなく見つめていたことを覚えております。

その時からずっと、私は愛する人々を亡くした家族の痛みと苦しみ、生活基盤を失った人々、人生が完全に変わってしまった若者達、そして大災害から復興しなければならない日本国民に対する私の深い同情を、直接お伝えできる日を待ち望んでまいりました。

いかなる国の国民も決してこのような不幸からより強く、より大きく立ち上がれる国があるとすれば、それは日本と日本国民であります。 私はそう確信しています。

皆様が生活を再建し復興に向け歩まれる中で、我々ブータン人は皆様と共にあります。

我々の物質的支援はつましいものですが、我々の友情、連帯、思いやりは心からの真実味のあるものです。

ご列席の皆様、我々ブータンに暮らす者は常に日本国民を親愛なる兄弟、姉妹であると考えてまいりました。

両国民を結び付けるものは家族、誠実さ。 そして名誉を守り個人の希望よりも地域社会や国家の望みを優先し、また自己よりも公益を高く位置づける強い気持ちなどであります。

2011年は両国の国交樹立25周年にあたる特別な年であります。
しかしブータン国民は常に、公式な関係を超えた特別な愛着を日本に対して抱いてまいりました。

私は若き父とその世代の者が何十年の前から、日本がアジアを近代化に導くのを誇らしく見ていたのを知っています。

すなわち日本は当時開発途上地域であったアジアに自信と進むべき道の自覚をもたらし、以降日本の後について世界経済の最先端に躍り出た数々の国々に希望を与えてきました。

日本は過去にも、そして現代もリーダーであり続けます。

このグローバル化した世界において、日本は技術と確信の力、勤勉さと責任、強固な伝統的価値における模範であり、これまで以上にリーダーに相応しいのです。

世界は常に日本のことを大変な名誉と誇り、そして規律を重んじる国民、歴史に裏打ちされた誇り高き伝統を持つ国民、不屈の精神、断固たる決意、そして秀でることへ願望を持って何事にも取り組む国民。

知行合一、兄弟愛や友人との揺るぎない強さと気丈さを併せ持つ国民であると認識してまいりました。

これは神話ではなく現実であると謹んで申しあげたいと思います。

それは近年の不幸な経済不況や、3月の自然災害への皆様の対応にも示されています。

皆様、日本および日本国民は素晴らしい資質を示されました。

他の国であれば国家を打ち砕き、無秩序、大混乱、そして悲嘆をもたらしたであろう事態に、日本国民の皆様は最悪の状況下でさえ静かな尊厳、自信、規律、心の強さを持って対処されました。

文化、伝統および価値にしっかりと根付いたこのような卓越した資質の組み合わせは、我々現代の世界で見出すことはほぼ不可能です。

すべての国がそうありたいと切望しますが、これは日本人特有の特性であり、不可分の要素です。

このような価値観や資質が、昨日生まれたものではなく、何世紀もの歴史から生まれてきたものなのです。
それは数年数十年で失われることはありません。

そうした力を備えた日本には、非常に素晴らしい未来が待っていることでしょう。

この力を通じて日本はあらゆる逆境から繰り返し立ち直り、世界で最も成功した国のひとつとして地位を築いてきました。

さらに注目に値すべきは、日本がためらうことなく世界中の人々と自国の成功を常に分かち合ってきたということです。

ブータンは小さな国ではありますが強い国でもあります。

ご列席の皆様。 私はすべてのブータン人に代わり、心から今お話をしています。

私は専門家でも学者でもなく日本に深い親愛の情を抱くごく普通の人間に過ぎません。

その私が申し上げたいのは、世界は日本から大きな恩恵を受けるであろうという事です。

卓越性や技術革新がなんたるかを体現する日本。

偉大な決断と業績を成し遂げつつも、静かな尊厳と謙虚さとを兼ね備えた日本国民。

他の国々の模範となるこの国から、世界は大きな恩恵を受けるでしょう。

日本がアジアと世界を導き、また世界情勢における日本の存在が、日本国民の偉大な業績と歴史を反映するにつけ、ブータンは皆様を応援し支持してまいります。

ブータンは国連安全保障理事会の議席拡大の必要性だけでなく、日本がその中で主導的な役割を果たさなければならないと確信しております。

日本はブータンの全面的な約束と支持を得ております。

ご列席の皆様、ブータンは人口約70万人の小さなヒマラヤの国です。

国の魅力的な外形的特徴と、豊かで人の心を捕らえて離さない歴史が、ブータン人の人格や性質を形作っています。

ブータンは美しい国であり、面積が小さいながらも国土全体に広がる様々な異なる地形に数々の寺院、僧院、城砦が点在し何世代ものブータン人の精神性を反映しています。

手付かずの自然が残されており、我々の文化と伝統は今も強靱に活気を保っています。

ブータン人は何世紀も続けてきたように人々の間に深い調和の精神を持ち、質素で謙虚な生活を続けています。

今日のめまぐるしく変化する世界において、国民が何よりも調和を重んじる社会、若者が優れた才能、勇気や品位を持ち先祖の価値観によって導かれる社会。

そうした思いやりのある社会で生きている我々のあり方を、私はもっとも誇りに思います。

我が国は有能な若きブータン人の手の中に委ねられています。
我々は歴史ある価値観を持つ若々しい現代的な国民です。

小さな美しい国ではありますが、強い国でもあります。
それゆえブータンの成長と開発における日本の役割は大変特別なものです。

我々が独自の願望を満たすべく努力するなかで、日本からは貴重な援助や支援だけでなく力強い励ましをいただいてきました。

ブータン国民の寛大さ、両国民のあいだを結ぶより次元の高い大きな自然の絆。

言葉には言い表せない非常に深い精神的な絆によってブータンは常に日本の友人であり続けます。

日本はかねてよりブータンの最も重大な開発パートナーのひとつです。

それゆえ日本政府、およびブータンで暮らし、我々と共に働いてきてくれた日本人の方々の、ブータン国民の揺るぎない支援と善意に対し、感謝の意を伝える事が出来て大変嬉しく思います。

私はここに、両国民の間の絆をより深めるために不断の努力を行う事を誓います。

改めてここで、ブータン国民からの祈りと祝福をお伝えします。
ご列席の皆様。 簡単ではありますが、ゾンカ語、国の言葉でお話したいと思います。

「(ジグミ・ケサル陛下よりゾンカ語での祈りが捧げられる)」

ご列席の皆様。 今私は祈りを捧げました。

小さな祈りですけれど「日本、そして日本国民が常に平和と安定、調和を経験し、そしてこれからも繁栄を享受されますように」という祈りです。

ありがとうございました。

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