パンケーキ
マエノスベテ11
2022.8.23
00:44
話題:創作小説
estar.jpより。
75
「頼もしいな。くまさん、今日はよろしくお願いしますね」
彼が小さく会釈する。
ぼくも同じようにした。
彼には『声』が聞こえないはずなのだが何か思うところがあるのかもしれない。
自分のことでないにしろ、少し、嬉しいような気分になった。
当のくまさんはというと、じっ、と視点を変えもせず、前を向いているままいつも通りに微笑み、そして、僅かな人にだけ聞こえる声で言う。
ついてって来いと言われただけだから別にまだ、なにもしちゃいないが何か頑張るシーンなのか?
しかしここ、暑いな。やっぱり人口密度が高いっていうのかね。あの子はあの子で、やることを遂行中だとそこの長髪に伝えて欲しい。
「――わかった、あのさ」
と、ぼくは彼、にそれを伝える。
「どうして、それを?」
彼は、不思議そうにした。
はたから見るとぼくの独り言にしか見えない。
「えっ、あ、あぁ、あの、たまたまあの家で二人になったとき、言われたんだ、今、思い出した」
ふ。あはは、あははははっ!
あははは!
と、くまさんは笑った。
……そんなに笑えることがあったなんて、幸せなやつだ。
「そう」
彼は極めて冷静に、相づちを打った。
鞄から少し顔が出るようにして、くまさんは辺りを見渡して呟く。
しかしこういうモノと話せる人間がまだ現代にも居たとは。素晴らしいこともあるものだね。生きてると。
彼女、は出掛けるまで大変だったぞ。なかなか靴をはかないし、そもそもなかなか着替えないし、着替えたと思えば不安で吐くし、吐いたと思えば、しばらく震えていた。
「そう、なんだ」
――だから外に出るまで、『ほら、ふわふわだよ、もふもふだよ』と、献身的に付いて居たんだ。この愛くるしさがなければできない仕事だね。
「うん。実にいい仕事だよ」
なるべく二人に悟られないように小さな声で会話する。
ほとんど念話に近かった。
実際のところ、彼女は、耐えられるのだろうか。今はフリとは言え、長い間使わなかった感覚を、制御されていた精神を、急に使わなくてはならない状態、しかも、沢山の人間に晒される。
それはまさしく、暴力や事件にに曝された子どもが精神を破壊されたままで何事もないように周りにふるまい仲良くできるのかという問いだった。
しかもこの場合は、破壊されたら再生出来るかもしれないが、壊れかけであらゆる刺激を吸収しやすい状態での放置である。
「もしかしたら――」
思うことがあった。
しかし、今言っても、意味のないことだった。
2019/06/13 20:58
76
「さてと――何か気になるものはあるかな?」
彼は、彼女とパンフレットを見に行く。
彼女はガクガクと機械のように頷いて居たが、意図はわからない。くまさんの腕は少し強めに握られていた。
問いかけが辛いのかもしれないと判断してぼくが間に入る。
「あれとかどう?」
今流行っているアニメのポスターを指差す。
「あまり話を知らない」
彼は淡々と答える。
彼女は首を横に振った。
「ごめんなさい……私」
――不安と恐怖の心理状態で、明るく賑やかなアニメなどとても観てられないよ。
持たないね。
こりゃ集中力が、かなり、短くなってしまっている。
間から答えたのはくまさんだった。ぼくがそれとなく、映画である必要を聞いてみる。
「いやまあ、映画でなくても良いといえばいいんだが」
彼は、うーむ、と考えるように唸った。
「そうか、その点を考慮していなかった。疲れているなら、尚更余計な負担がかからない方が良いね」
無理をしてもその後がよくない。きっとその日の自己嫌悪を欠陥として背負ってしまうだろう。
感情が壊れて中身がなくなって、しかしそれを他人からは有る当然のものとして接せられる、その空虚なもどかしく絶望的な感覚をぼくは理解していた。
つるつると滑る板の上を歩かされるように、進もうとするたびにもとの場所に戻り続け狂っていくような、一人だけ無重力で地面に張り付くことができないのを周りから白い目で見られているなかで足を必死に伸ばすような、心に穴が開いて広がり続けるようなあの感覚は、なかなか味わいたいものではない。
とにかく待ち合わせはできたのは事実なので、よしと捉え、ぼくらは下にあるカフェに向かうことにした。
2019/06/13 21:44
77
歩いているなかでも、時折夢の中にいるかのように、彼女はうわ言を繰り返す。
「ウワキダ……フリンダ……」
それは決して笑えるギャグなんかじゃなくて、当然のような常識を元に集団で迫ってくる正論じみた迫害だった。
果てしない理不尽が、避けようのない隕石のように直下した、不運だった。
恋愛のベテランなんかが、あの場所に来るべきではないのだ。ぼくらのような人たちは、何かを勘違いした、いわゆる『誰より特別になりたい』相手に好かれることがある。
けれど、そんなの、ありふれている。そして、ぼくらにそんな利用のために関わろうとする人間は、珍しくもなんともなく、極めて凡人以外のなにものでもない。
もし、このぼくが、同じように人間を愛せと言われたら。ひたすら、感情を理解することしないことについて罵られ続けたら――
きっと間違いなく精神が崩壊した。
相手どころか自分自身を愛さなくてはならないから。
そして、誰に言えるわけでもなく、ただ「ギャグ」として、更なる迫害が続くだろうし、そんな社会から、自分が消え去りたいとすら望むはずだ。
「あの写真、ウワキダや、フリンダやフリンカに会っていたかもしれないんだが、誰だと思う?」
ウシさんが見せた写真について、彼は質問した。
「……わかりませんが、見た限り、あれは……」
彼女は何か、言葉を、迷っているように濁した。
2019/06/14 13:20
78
カフェは昼を過ぎてきたからかあまり人がおらず空いていた。飲み物を頼んでしばらく待つ。その間彼が口元を乗せるように指先を組みながら、のんびりと言う。
「まあ、いいか、とにかく彼とその人物が会ったのが先週の金曜日だということを突き止めてきた。その日、きみの周りはどうだった」
ぼくらの向かいの席に座り、彼女は金曜日、としばらく繰り返す。
「先週の金曜日……金曜日ですか。金曜日はウシさんは朝から家の裏の山の方へ素材集めに出掛けていて、私はカタログなど片付けていましたね。予告無くいきなり人を呼びつけたりするので、しょっちゅう散らばって居ますので」
「ウシさんが山に居たのが確かだと、わかるものは、ないかな、きみ以外に誰かが見ていたとか」
彼が聞くと、彼女は記憶を懸命にたどるように視線を宙にさ迷わせた。
空間認識と記憶領域は繋がっているという興味深い論文を昔読んだ気がする。
右、左、上、下、過去、未来、いいこと、わるいこと。もしも、そうだとしたら彼女のデータベースは、いったいどのように積まれて、展開されているのだろう?
「はぁ。ええと……あ、そうですね、長靴に新しい泥がついてると思います。買ったばかりらしいのをはいて行きましたから。それから庭に出たすぐの朝、塀のところで、なにか文句を言いながら、擦ってて、警察に連絡したり……今は消えてるんですが、写真は撮ってあります」
彼女は、そう言って鞄から携帯を出した。くまさんが、こてんっ、と傾いて落ちかけたのでぼくは慌てて拾い上げる。
――助かった。若者。
「あぁ、うん……」
ぼくはいまいちくまさんの性格を掴みきれない。やがて携帯の画面から壁について何かがあったらしき写真がぼくらの前に示された。長靴姿で何かを消すようにブラシを構えたウシさんと、警察のものらしき制服を着た男性。
日付は、金曜日。このあと、山へ向かっているとなると、やはりウシさん自体はラーメン屋で待ち伏せていないことがわかる。
「やはり誰かに写真を渡され、きみを追い込むよう指示されている」
ウシさんが従いそうな人物は、それぞれすぐ見当がついた。
――というか『彼』以外、思い付かなかった。
2019/06/15 16:49
79
やがてぼくの友人は、それからすぐ注文が来たというのに、立ち上がった。そして「映画館に落とし物をしたらしい!」
と、向かって行ってしまった。すぐ帰るから座っててくれと言われて彼を二人で待つことに。まぁ、映画館はすぐ上だ。迷ったりもしものことは、そうないだろう。根拠無く、そう信じた。
ぼくはそうして再び二人になったという気まずさを和らげることに苦心した。
彼女になにか気の利いたことが言えると良いのだが、残念ながらそういった経験には疎いため、ただ曖昧な笑みを浮かべ、ははっ、とギリギリの愛想で関わるくらいしかできなかったが、それでもなんとか、そこそこの距離を築けている気がした。
会話に困ってしまうが、変にペラペラ話しかける軟派な奴と思われるのも困る。
そうだ、こうしてのんびりと誰かを待っているときの定番ホームズとワトソンごっこでもしようかと、それにちょうどいい観察対象を探していると、(ちなみにホームズは途中までしか読んでいない)彼女の方から話しかけてきた。
「今日は……朝から、ありがとうございます」
「あー、えっと、はい」
何がはいなのかもわからないが、何がありがとうなのかもよくわからず曖昧に返す。
「私、あの生活が続いてたある日、限界が来て。もう来ないでほしいと言い、そのために、好きな相手が居るからと――言ったんです」
「居るんですか?」
「どう思いますか?」
ふふ、と彼女は少し儚く笑った。
「幸せになれますよ、次は」
直接、肯定も否定も具体的な話もしなかったが、彼女はその意図を組んでくれたらしい、さっきよりも楽しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます」
2019/06/15 17:26
80
そこからはしばらく和やかに語り合った。
途中から「好きな人に悟られたくないから違う人を好きなフリをする、という行為」の是非について意見を交わした。二人の見解では、そういった嘘は事態を泥沼化させるだけだというので一致した。
「昔クラスに居たんですよね。
遠ちゃんって子なんですが、奏汰さんという方について常に語ってらしたんです」
「好きなんですかね」
「ところが!」
と緊張のややほぐれてきた口調で彼女は強調する。
「別の子が、ある子と会話していると、嫌がらせしてるのを見るようになって」
「意味が、わかりませんね」
ずっと奏汰さんとやらの話をしておきながら、違う子が誰かと騒いでいるとそこに割り込む……言葉にしてみても、やっぱり驚きの神経だった。
「後から聞くと、『Aちゃんを取られたくなかった』と。
でも奏汰さんとも話したいと。ぐちゃぐちゃですよ」
「うわぁ……人間クラッシャーだ」
「Aちゃんは、単に友人と話してただけみたいですがね。いつの間にか、勝手に二股みたいな印象をつけられてました」
「どんな鬼畜が居るんだ」
八方美人型人間破壊兵器として、今も、キャバクラかなんかで名を連ねているらしい。
「もし、そういうところに行かれる際は気を付けてくださいね」
「是非とも会いたくないなぁ」
2019/06/16 00:43
81
しばらくは和やかに話していたのだが目の前を通りすぎた、前髪を切りすぎたようなスタイルの客がなにやら、携帯電話を耳に当てたのを見た途端――
ぼくの身体はぴくりと反応した。予感。
今、一瞬こちらを見たぞ。
なぜだ。
ぼくは、まだ、気付かれてないはず。
それとも違う意味でマークされてるんだろうか……
彼女も空気を感じたのかゆっくりと立ち上がる用意をする。
お金は先に払ってあるので、出ても問題はないのだが――
つかつかと足音と共に、グレーの髪のおばあさんが近づいてくる。
そして、顔をのぞきこむようにして「あらぁ、違ったわー、違う人みたい!」とわざとらしく、隣にいたおばあさんに話しかける。スパイ映画か。
ぼくは一体、なんでこんな、どうでもいいことに、鈍感になれずに慣れていくんだろう。
「出た方がよさそうだ」
小さく声をかけて、立ち上がる。くまさんが「 」と言った。
ぼくは「そうかもしれないね」と、思ったけれど口に出しはしなかった。それどころではない!そろり、そろりと、出口に向かう。いちおう自然にだ。
「帽子、ください」
カウンター席の男が注文をする。ここはカフェなのでもちろん衣服や装飾品ではない方の帽子である。ここそんなん置いてるのか。合図のために頼んだのは言う間でもないが、ゆっくり食事も出来ないとわかってしまった。
『このビル』は、『それ』だった。
「こういう人って、やたらと拠点をお買い上げしてるんだよな……」
「慣れてるんですね」
店から出て、フロアを歩きながら、彼女が聞いてくる。
とても平坦な声だった。
「そりゃあ、ワケがあるからね」
ワケでもなきゃ、やってられない。嫌な慣れだ。
「ワケですか、皆、ワケがありそうですね」
「そ。もちろん、あの『彼』もワケがあるんだ。あまり言いたくないけど」
2019/06/16 19:38
82
振り向いて、ちらりと店の入り口を見るときちんと『メニュー』が貼られていた。
メニューについてあえてぼくが抱くことを説明する必要はたぶんないだろう。
「うっわ、見落とした……」
彼女が、きょとんとしていたが、まあそのうち理解するだろう、背後にあんなのが居る以上は。
「 」
くまさんが、話しかけてくる。目立ってはいけないので、バッグの中に居てもらったが、そのぶん退屈だったのかもしれない。
「確かに、このぶんだと映画館――平気かな」
彼が戻らないのが心配になってくる。一応、民間人がわらわら来ているけれど、死角が存在しないわけでもない。
曲がり角にあるコーナーでは、帽子の新作や靴の中古品が、ワゴンに入り、セール品!!!
と書いてあった。
なんとなく泣きたくなる。
最大70%OFFだろうと。
「最高のデートスポットだな」
しみじみ思ってみたが、やっぱり当分デートなんかするべきでないなと思った。
気がおかしくなるか滅入るどちらかだろう。
2019/06/16 19:55
83
「あ、見てください、あれ可愛い」
彼女は、そんな憂鬱さを吹き飛ばすかのように、ぼくにショップの洋服が飾られる区画を示す。着飾ったままに微動だにしない白い肌の女性や男性がわらわらと並んでいた。
ぼくの胸中を悟られたかと一瞬焦ったが、彼女はただただ、素敵な服ですねと言った。
生きている相手よりも、固まってそこに在る相手がタイプだというのは、なかなかこういうときに妙な罪悪感があるなと思うが、まあ、仕方のないことだ。昔、片想いの相手を「現実見てよ」とぶっ壊しやがった女が居たなと余計なことまで思い出してしまった。
あれだから、生きてる奴の好意ってのは迷惑で好かないが、この今の距離感で、居る他人にたいしては比較的穏やかだ。
そういう服が好きなのか、だとかに話題を移しつつも、映画館のある棟へと向かう。
途中の道にある区画は、ダンスダンスがレボリューションしてる人たちで賑わっていた。
もう身体の動きがどうなってんのかわからない。
新たな革命が生まれるのかは知る由もないが、だんだん薄暗くなっていく道筋で響く、ズンズンとした振動はなんだか今のぼくの気分と相反し、憂鬱だった。
彼、は比較的早く見つかったので少し拍子抜けしつつも安堵した。
「おーい、見つかったか?」
と、話しかけにいこうとしたがしかしそれは出来なかった。
目の前に、そう、彼よりも先に目の前に急に人が現れたのだ。彼女が目を離した隙にぼくの腕を掴み、ソイツはどこかへとこの身体を連行しようとする。
「……あのー」
見下すような視線をした、少しふくよかな男性。
ただ、ぼくより背が低く、あまり見下された気分にはならない。
「なにか?」
「いえ、何でも?」
彼は、何でもと言って、ぼくの手を離す。何かがあるかではなくて、あってもお前に関係ないということらしいが、だったら、なぜ?
振り向くと、彼女は居なくなっていた。
「あぁ……」
「人違いみたいでーす、しつれいします」
こいつらよく人違いするなぁ。なんて呆れて睨んでいたら、「なにか物欲しそうだな」と言われた。
「物干し竿なら、わりと、頻繁に金物屋が通りますよ」
「コーヒーでも飲む?」
「は、はぁ……じゃあ」
断るのも面倒なので適当に相づちを打つと、大きなため息。
「俺を、喫茶店かなんかと勘違いしてるんじゃね?」
「……」
面倒だ。
2019/06/17 16:41
84
ああいうのたまに居るよなあなんて諦め気味で「それじゃ」と再び無視して元居た場所に戻って来たとき、やはり彼女は居なくて友人も居なくて、少し虚しくなったりしたが、しかし虚しくなっている場合でもないだろうからと、辺りを見渡す。
通報の用意をしてくれ、という意味が、なんとなく、だんだん掴めてきた。
少なくとも――すきやきが、上を向いて歩くくらいには。
映画館へと一応歩みを進める。
ポスターが並んで貼られた入り口付近で探す目的は果たされた。
『友人である彼』が、女の人に捕まっていたのだから。
ナンパではなさそうだ。
依頼者の彼女は、というと、遠い距離にある向かいの階段に居た。一人きょろきょろとさ迷いながら、下へ降りるところだった。
適当に絡んで、孤立させる作戦が実行されたらしい。
どうしようかと、一瞬迷った。フロアを降りるか、彼を助けるかの二択。
『相手』もうまいこと、人を利用して――単なるバイトに済まない策略を持ってして、ぼくらを追い回してるようだ。
店に入れば合図を示し合わせられるようにしてあるし、何か見かければ携帯で連絡を取るようにしてあるし、例えば個室にした場合でも、強引に、人違いなどを装う度胸を持ったいやがらせ。
「まあ、警察もグルって場合もあるけどな」
田舎の警察は地域と仲良しと聞くし……そしたら、今度こそ、いや考えたくない。
ただでさえ作家に付随する面々から追い回される面倒な身である。まさかかつてはこんなに人権破壊行為をする職業だったとは思いもよらなかった。
単なる嫌がらせでは済まないことを繰り返している。
珍しいものや、価値のあるもの、変わったものは、根こそぎ狩り取り、強引に配り歩いてネタにしてしまう作家を名乗る『悪徳集団』が存在する。
――のだけれど、今はその話より先に、どちらかを追わねばならないと、ぼくは近くに居た彼の方にまず向かった。
彼に絡んでいたのは「あの写真」の女性だった。
2019/06/17 17:20
85
「パイの実食べません?」
「…………あー」
「あぁ、箱? 幼馴染みのリス君二人がパイの実の森に居る絵です。パッケージ変わったんですよね」
「……うん」
なんて会話をしている横にそーっと近づく。彼は、困惑が隠せないようではあったが思っていたよりは冷静そうだった。
「彼氏はいいのかな?」
彼女は、あははーと笑う。
手には紙コップを持っていた。自販機のジュースを買ったらしい。
「…………」
彼は、少し何か思案した。
それからまた、固まったまま、思案していた。
――なんだか様子が大丈夫そうに見えたので、要らない心配なら下へ降りて彼女を探すことにしようかと背を向けたときだった。
「ふざけるな。この僕が――騙されると思ったのか?」
冷ややかに笑うそんな声がした。彼だ。
「生憎、きみと馴れ合う気はないんでね」
女性には比較的紳士で優しい方であるはずの彼が今日は不機嫌なので、なんだかぞわぞわと落ち着かない心地だった。
やがて彼は、ついぼんやり足を止めてしまったぼくに、急に呼び掛けてきた。
「そいつを捕まえろ!」
「えぇー」
彼女はばたばたと、彼から逃げて、こちらに向かってくる。
ぼくはしばらく迷ったが、腕を広げて、簡易なバリケードになる。
待てよ打ち合わせと違うじゃないかなどとぼやく場合ではなかった。
捕まえろと言われればそうするしかない。やがてぼくと彼は、その人物を挟み撃ちで確保した。
□
華奢な身体とは裏腹に、足は骨がゴツゴツと角張った印象を与えていた女は、喉仏を震わせながら、「う、わぁああ……」と嗚咽を溢す。
「なんで、バレたんだ、俺の、メイクは、完璧だったのに、あいつ、約束が違うじゃないか!!」
「メイクはいいんだけどね……」
彼は、呆然とするぼくをよそに、ため息を吐く。彼は彼で、女の子みたいなカッコウなので、突っ込みどころがあるが、今はやめとこう。
「骨格は変わらないし、変えられるにしても、きみは決定的な部分が、欠けてたよ」
「チクショー!! 裏切ったな!! お前がやれって言ったんだぞキンパツ野郎! あああああー! なんて惨め、辱しめだ!! 俺の金はどうなる!?」
「ふむ、やはり、金を渡す約束で、女のフリなんかさせられてたか」
2019/06/17 22:06
86
――女のフリ?
ぼくは、言ってはなんだが、人間にさして興味がないので、今の今まで、男が泣きわめくまでは気がつかなかった。
「……なぁ、絵鈴唯」
ぼくは彼を呼んだ。
ずいぶん久々に。
「なんだ」
「これ誰?」
「誰だろうね、少なくとも、あの家に来ていたヤツだろ」
彼は特に驚きもせず、ただ、肩をすくめていた。
「――え?」
「ま。いつも輪の方から逃げていく。入る入らないは、輪に接触できる人間だからこそ言うこと。それが真相」
なつかしい台詞をなぞりながら、彼は男――しゃがみこみ泣きじゃくる女装を指差した。
「――ちなみに茶会というのは、教室の人たちの集まりですね、ときいたとき、彼女は
『えぇ、そうです! そうでなく友人をここに招いたのはあなたたちで久しぶりです』と言った。彼女は少なくとも、薬指に指輪はつけてないし、お揃いの皿やカップを買うという風習のところもあるが、それらも見当たらない。
もちろん物だけでは判断出来ないが、いくら彼のような見た目でも結婚していればそう易々と部屋に男性を入れないで、玄関先くらいという場合も珍しくないのだが、それにしたって、どこか、異性との会話に慣れている部分があると思わなかったか? いや、意識しない、という風が正しいか。
あれだけ、マエノスベテが縛っていたのに」
つまり。
「『ぼくたちに 接触しようという発想自体』が、おかしい」
「いつ、気づいた?」
「『事件のこともある』からな。この街を支配する、宗教団体、そして櫻さんを、避けて通ることは海外にでも居なきゃ出来やしない。
ウシさんですら警戒していた。笑顔ではあったが、あれは、社交辞令。
しかし少しも怖がらない様子を見せるのは、根拠となり得るそれ以上の怯えるものを知っているのは、彼女くらいだった。
僕を訪ねることができた、その発想を当然のように抱いた最初から変だと思った。
そのあとあの彼が来るわけだが――」
ある意味の密室、しかし、彼女はぼくらに怯えもしない。
女子同士のような、気兼ね無さ。
「待ってくれ、その前に、こいつ、本当に――」
「団体とか、事件の背景はあんなんに会えば今更な度胸はつくだろうから怖がらんだろう。
しかし彼女は、今でもマエノスベテには取り乱すのに、
ぼくらを招き入れる躊躇はしない。恋人でもなくて、茶会にも居ない。でも、マエノスベテが、怒らないで、家に出入りできる存在、簡単に言えば『男』が居たと疑った」
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