N子は映画鑑賞と読書が趣味の、平凡なOLだった。 休日になれば1人で町の映画館へ出かけ、少しブームが過ぎた映画をガラガラに空いた客席から眺める。 これが彼女にとっては至福のひとときであった。

ある日曜日、いつものように映画館へ足を運んだN子は 黒のスーツに身を包む若い男に声をかけられた。
N子は警戒し後ずさりしたが、男は屈託の無い笑顔を向けて言う。 「私はこう見えても映画監督なんですよ。
今、この映画館で放映されているこの作品もそうです。 もし良かったら観賞した後に映画の感想を聞いてもいいですか?」

--え、ええ、結構ですよ・・・。

突然のことにドギマギしながらも何とかそう返事するN子。
若い男の笑顔にすっかり魅了され、顔が赤く蒸気するのを感じたN子は、 そそくさと館内へと駆け込んでしまった。

その日にN子が見た映画は客の入りも3割ほどの、 とても秀作と言えたものではないB級パニック映画であった。
主人公の女性が、突然、見知らぬ男に拉致され、 終いには窓も何もない箱のような密室に監禁され発狂するという筋書き。
これが先程の男が監督した作品だと言う。 お世辞でもセンスが良いとは思えなかった。
けれど、そのストーリーはN子の心に不思議と焼きつく。 映画館を出たらあの男に何て告げようかと、彼女はその事ばかり考えていた。

さて、映画が終わりN子は席を立った。 外へ出ると例の若い男が、魅力的な笑顔を浮かべこちらを見ている。 「あの・・・」
意を決したN子が口を開こうとすると、 彼は素早く自分の人差し指をN子の口に軽く当てて、言った。 「この近くに私の事務所があるんです。
アンケートを兼ねた感想を、そちらでお聞かせ頂いても宜しいですか? この作品は私の処女作なので、詳しく、厳しく、評価して貰いたいんです。
お時間は取らせません。すぐに済みます。 それに、私の作品を観賞して頂いた、その事に対して、ちょっとした謝礼の記念品もお渡ししています。」

おっとりしているように見えても警戒心は人一倍強い方のN子だったのだが、
若い男の巧みな言葉と甘いマスクに、 彼女は「はい」と快諾したのであった。

若い男は、映画の制作秘話や苦労話をおもしろ可笑しく聞かせてくれた。 そうやってN子と談笑しながら、映画館から少し離れた大通りに面する大きなビルの中へと案内する。 ビルの中でも人の行き来が多かったこと、また、監督だと名乗る若い男の人柄が物腰柔らかで誠実であること、 今や警戒心など微塵もなくN子は安心しきっていた。
エレベーターが10階へ昇るその中で、若い男が照れくさそうにN子に聞いた。 「あ・・・さっき観てもらった僕のあの映画、どうでしたか?
街中で感想を言われると恥ずかしいもんだから、先程は敢えて遮りましたが」
N子は「ストレートな題材でシンプルな点が良かったですよ、ただ」と答え、 「ただ、分からないのは、監督として私達に何を伝えたかったのですか?」

チン!

「・・・着きましたよ、ここです」
エレベーターの扉が開く。若い男はN子の質問には答えなかった。
相変わらず優しい笑顔をたたえたまま、彼女をあるドアの前まで連れてきた。 ドアの表札には、この男の映画制作事務所の名が刻まれている。
男は鍵を開けると扉を開き、「さぁどうぞ中へ」、手でN子を室内へと導いた。


N子がソロソロと中へ入る。 室内は整然とし、文字通り「事務所」といった感じで、全く殺風景であった。
彼女が振り返ると、若い男は自分の体でドアが閉まらぬように支えながら、 戸口で携帯電話を手にして何やら指を動かしている。
「失礼、仕事の件で連絡があったようです、ちょっとお待ち頂けますか」 男は携帯から顔も上げずにN子へそう告げた。
N子は「はい」と頷くと、改めて室内を見回す。 書類棚や事務机、キャビネット置かれたその部屋には、不思議な事にキッチンが無かった。それどころか、トイレも見当たらない。 変な間取りのマンションだ、N子は眉をひそめた。
それに変に室内が薄暗い。昼間なのに、電気をつけていてこの明るさ・・・。 急いで、カーテンの閉められた窓辺へ近寄った。
N子がカーテンを開けると、そこは、壁。 ドアに立っている男を振り返った、彼は、あの優しい笑顔を浮かべながら、玄関の外へ出て、パタンと静かにドアを閉めた。 N子は手にしていた鞄を床にストンと落とす。
玄関ドアの内側には、ドアノブがついていなかった。