ぞっとしたのですが、どうしても気になってしまいベランダに出てみよう、そう決心しました。
ベランダには胸の高さほどの転落防止のための手すりがあるので、下を見るにはそこから頭を出して覗きこまなければいけないのです。
そのとき、本当に偶然だったのですが、近くの薬局でもらった鏡が目に入りました。
安っぽい黄色のプラスチックの枠がついていて、その薬局の名前が入っているような手鏡。
後で考えれば田舎の祖母の「鏡にはこの世ならざるものが映るんだよ」という言葉を覚えていたからかも知れません。
とにかくサンダルを足に引っかけ、その鏡を持ってベランダに出たのです。
相変わらず生ぬるい風が吹いており、手すりが不透明なので見えないのですが鈴の音はもうほんの足元近くのように聞こえます。私は左手で手すりの上を掴み、下の様子が映るように鏡を斜めに持った右手を外に向かって伸ばしました。
その瞬間、鏡がもぎ取られるように手から離れていったのです。
声にならない悲鳴を上げて慌てて家の中に逃げ込みましたが、ガラス戸を閉める前に下の方でガシャンという鏡の割れる遠い音が聞こえました。
マンションに住む人ではなくてもご存知でしょうが、この高さから落とせばどんなものでも凶器となりえます。
ですから本来はすぐ確認すべきなのですが、その時は気が動転してベットの中で夜が明けるまで震えていたのです。
なぜなら一瞬の間ですが、手すりから突き出した鏡には、暗闇の底から伸びている真っ白な無数の手が映っていたからです…
それ以来、夜になると全ての窓に鍵をかけカーテンを引く生活が続いていますが、もしあのときに身を乗り出して下を覗いていたら、地面に叩きつけられていたのは鏡ではなくて私だったのかも知れない、今でもそう思うのです。