話題:創作小説





桜の季節にだけ、会う人がいる。

いくつ前の春だったか、近所の公園でその人に会った。そこの公園には一本だけ大きな桜の木があって、一人咲き誇るその桜が、私はとても好きだった。川沿いの桜並木、小学校に咲く桜たち、それらの桜も綺麗だが、たった一人で凛と咲くその桜が一番好きで、毎年桜の季節になるとよく見に行っていた。その時、その人と出会ったのだ。



不思議な人だった。すらっと背が高くて、線の細い、柔らかい雰囲気の男の人だった。首に黒いカメラをぶら下げて、大きな桜の木を見上げていたその人に、私は一目で惹かれてしまった。



その人は写真が好きで、とくに花を撮るのが好きらしく、季節ごとに様々な場所へ行き、花を撮って回っているらしい。一度、花の写真を見せてもらったことがある。梅、紫陽花、向日葵、椿、中には私の知らない花もあった。でも一番好きな花は桜だと、笑っていた。



桜が好きなあの人のことを、私は何も知らない。

名前も、年齢も、どこに住んでいるのかも、何をしているのかも。好きな色だって知らないし、嫌いな食べ物だって知らない。ただ知っているのは、写真が好きなこと、花が好きなこと、特に桜が好きなこと、桜の季節にだけ会えること。ただそれだけだ。


桜のようだ、と思う。すらっと背が高いところも、線の細さも、柔らかい雰囲気も、すぐに別れが訪れるところも。実際、あの人と桜は似合っていた。儚げさが似ていたのかもしれない。


春は好き。だけどあの人に出会ってから春の心はおかしくなった。桜のつぼみが膨らみだすと急にそわして、まだ咲かないのかと落ち着かない。やっと咲いても雨で散ってしまわないか、いつまで咲いていてくれるのかと不安になる。どうしてこんなに春の心は乱れるのだろう。




今年もあの人はやってきた。黒いカメラを首にぶら下げて。


「あなたは知っていますか?昔、雅な人がね、桜を見て詠んだ歌があるんですよ。」
「和歌ってことですよね。すみません、私古文は苦手で。」
「最近そういう学生さんが増えてるみたいですね。」
「文法とか古語とか、なんか外国語って感じがして、どうも覚えられません。」
「興味を持てたら好きになるかもしれませんよ。」
「そんなものでしょうか。」
「そんなものです。」
そう言って笑う横顔を、あと何日盗み見ることができるのだろうと、ふと頭をよぎった。


「で、どんな歌なんですか?」
「ああ、その歌はね、


世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし


この世に桜なんてものがなければ春の心はのどかだったのにって、愛しさと切なさを歌っているんだよ。」

電気が走ったようだった。桜のようなこの人がいなかったら、こんなに心が乱れることなんてなかったのに。だけど会いたくて、でも哀しくて、それでも、


「好きです、その歌。」
「私も好きです、この歌。」

そう笑った顔が、どこか儚くて、胸が苦しくなった。



「この前の大雨でずいぶんと寂しくなりましたね。」
「そうですね。もう葉桜になっちゃった。」
「残念です。」
「…もう行くんですね。」


「ええ。桜さん。」
「え、どうして名前」
「すみません、この前財布から免許証が見えてしまって。」
「いえ、あの」


「また来年、会いにきます。」






学校の課題で書いたもの。「歌物語を創作せよ」





<< top >>



-エムブロ-