第三章
しっかりと剣を握り、振るう。一太刀、一太刀、脳内に明確な敵のイメージを浮かべて。大型の獣、小型の獣、或いは人間……それぞれに合わせた戦い方がある。それは座学でも聞いたし、実戦経験を積んだ先輩騎士たちにも聞いた。まだ大きな任務に赴いたことはないけれど、何れそうなったときのために、訓練は欠かさない。
特に、10年以上光も色も知らない世界に生きてきた自分には、他の騎士に比べて劣る部分があるだろう。そう思ったマリンは他者以上に、訓練に力を入れていた。
毎朝、部隊ごとのブリーフィングが始まる前に、こうして自主訓練をするほどに。
……ただ、どうやら今日は少し力が入りすぎたらしい。少し休憩を……と思って時計を見上げた彼女はぎょっとした顔をした。
「やだ、もうこんな時間!?」
少し早めに切り上げてシャワーを浴びてから行くつもりだったのに、と彼女は叫ぶ。剣を収め、タオルで乱暴に汗を拭うと、訓練室を飛び出した。
「急がなきゃ……!」
遅れたら、また統率官(あに)に外を走らされる。走ることも訓練の一環ということはわかっているが、やはり剣術の訓練や魔術の訓練に時間を割きたい。
そう思いながらブリーフィングルームに向かおうとして角を曲がった、その時。ぼんっと何か……基、誰かに衝突した。
「ひゃあ!?」
小さく声を上げて、相手は尻餅をついたようだった。一瞬よろけたマリンは、慌ててその相手に手を差し出す。
「あっ、ごめんなさい!」
怪我は……と問いかけようとしたマリンの目は、転んでしまった相手の頭に伸びた一対の耳、だった。
ふわふわとした白い獣の耳。見るからに人間のそれではないものに、マリンは鮮やかな金の目を何度も瞬かせる。
「狐……?」
そんなマリンの声に、転んでしまった少年はぱちぱちと紅色の目を瞬かせる。マリンは彼をしげしげと見つめながら、思わずその耳に手を伸ばした。
「ほんと?本物?」
作りものでは、と思いながらマリンはその獣の耳を引っ張る。ほんのりと暖かいそれはマリンの指が触れるとぴくっと跳ねた。
ひぁ、と気の抜けるような声を上げた少年は慌てた声を上げる。
「あわわわ、すみません、すみません、すぐひっこめるので引っ張らないでくださいぃい」
そんな様子が少し面白くて、マリンはそっとその狐の耳を引っ張る。と、その時。
「マリン、駄目ですよ乱暴しては」
そんな言葉と同時、軽く頭をはたかれた。いた、と声を上げて振り向けば、少し呆れたように頬を膨らませた少女……リンの姿があって。彼女はぺし、と軽くマリンの手をはたいてから、狐耳の少年を見た。
「シオンさん、ごめんなさい。彼女、好奇心旺盛なんですよ」
そう言って微笑むリンを見て、少年は"大丈夫ですよぅ"と返す。二人の様子を見て、マリンはぱちぱちと瞬く。不思議そうに首を傾げ、マリンはリンに問いかけた。
「リン、知り合い?」
彼女の問いかけに、リンは頷く。
「彼はシオンさん。風隼のヴァーチェの方ですよ、マリン」
お会いするのは初めてですよね、とリンは言う。それを聞いてマリンは不思議そうに少年のほうを見た。真っ白の耳がピコピコと揺れる。きょとんと首を傾げる彼をまじまじと見ながら、マリンは口を開いた。
「え?ヴァーチェ?でも……」
それにしては、随分と幼いような気がする。マリンはそういう。リンはそれを聞いて"失礼ですよ!"と窘める声を上げる。しかしシオンと呼ばれた少年はくすくすと笑いながら、首を振った。
「すみません、ご覧の通りの妖狐ですので、見た目より年はとっているのですよ」
これでも100年くらいは生きてます、というシオン。それを聞いて、マリンは一層驚いた顔をした。
そう。シオンは妖狐という種族。何百年と生き、強い魔力を持つ存在だ。かつてはイリュジアから遠く離れた皇御国という国に住んでいた種族らしいが、数を減らしているという。そんな種族であるが故に、普段は耳や尻尾を隠して生活しているのだとか。
「でも、なんでリンがそんな妖狐さんと知り合いなの?」
風隼は単独任務が多い部隊で、炎豹とも草鹿ともかかわりはあまりない。そんな状況でリンはシオンとどう知り合ったのだろう?マリンの問いかけにリンは微笑みながらシオンを見た。
「以前、少しお話したことがあるのですよ。
皇御国の医術や国のお話を聞くことが楽しくて」
ね、と言って微笑むリンを見て、笑顔でシオンは頷く。
「ほぇえ、そうなんだ。お城も、色んな人が増えたねぇ」
元々は普通の人間しかいなかった。しかし最近はいろいろな種族の者、出身の者がいる。そもそも女性が騎士になることも、数年前までは考えられなかったことだ。
「陛下の方針故、でしょうね」
リンはそう言って目を細める。
優しく微笑む穏やかな女王。あまり頻繁に会うことはできないが、彼女と彼女が愛するこの国を守るための騎士として働けることを誇りに思っている。無理を通して騎士になってよかったと思うほど。
「素敵な人よね!」
「はい、ぼくも陛下のこと尊敬しています」
マリンとシオンも彼女の言葉に同意する。この騎士団に入ってよかった、と。
穏やかにそんなやり取りをしていた、その時。
「おや、紫苑。こんなところに居たのか」
そんな低い声が聞こえた。ゆったりと近づいてくる銀髪の青年。その姿を見て、シオンはパッと紅色の瞳を輝かせる。
「!フェンネルさん!」
嬉しそうに名を呼ぶシオン。彼の尻尾がふさふさと大きく揺れた。
「お友達ですか?」
リンが不思議そうに問いかけるのを聞いて、シオンは大きく頷いて見せた。そして少し得意げな顔をして、言う。
「ぼくの"仲間"なんですよー!」
ぼくよりずっと強い妖狐なんです!
そう得意げに説明するシオン。それを聞いた青年……フェンネルは、苦笑を漏らした。そして軽く肩を竦めて、言う。
「そういきなり他人(ヒト)の秘密を漏らすこともなかろうに」
そんな言葉と同時。フェンネルは金色の瞳を細める。そして、ぱちんと一度指を鳴らした。
それと同時、ふわりと揺れる大きな三本の尻尾。それを見て、マリンとリンは大きく目を見開く。
「妖狐の尾の数は年齢や魔力量によって増える、と聞いたことはありますが……」
「おや、お前さんは俺たちのような種族にも詳しいらしい」
リンの呟きにフェンネルは笑みを浮かべる。獣の牙のような八重歯を見せた彼は金色の目を細めて、言った。
「そうともさ、俺は妖狐、フェンネル・ディリアス。……まぁ、俺はそこの善狐と違う存在だから、油断はせぬように」
そう言って、彼はくつりと喉奥で笑う。酷く重たい威圧のようなものを感じて、リンたちは息をのんだ。
「善……?」
そうかろうじて声を漏らすマリン。それを聞いたフェンネルはふ、と表情と威圧感を緩めて、言った。
「妖狐全てがヒトと馴れ合う訳ではない、ということだ」
よく覚えておくといい。そう言って、彼はもう一度指を鳴らした。一瞬瞬きした後に、フェンネルの耳や尾は消える。は、と浅く息を吐く二人の少女騎士をシオンは気遣わしげに見る。
少し脅しすぎたか、と呟いたフェンネルはふと思い出したような顔をして、
「あぁ、そういえば……先刻、お前さんと同じ部隊の騎士たちが集まっていくのを見たが行かなくて良いのか?」
「あー!!」
フェンネルの言葉にマリンは大声を上げる。さぁっと青ざめた彼女はあわあわと周囲に視線を投げて、時計を探した。
「時間っ、いま、時間は!?」
「えっ、あ……」
「あぁああ遅刻だー!!」
リンが答えるより早く、マリンは駆け出す。"シオンさんもフェンネルさんもまたね!!"と叫びながら。そんな彼女の背を見送りながら、取り残された三人はぽかんとする。やがて、ふっとフェンネルが笑った。
「ふは、俺に威圧された直後にあれか、またね、とは……いやはや」
「ふふ、マリンさんはアネット様にそっくりですねぇ。ぼくたちのような種族を恐れもしない。素敵な方です」
そう言って微笑むシオン。その言葉の意味をリンは良く知っている。妖狐という種族は呪術を得意とする者が多い。故に恐れる人間も多かったのだという。友人が欲しかった、それで騎士団に入ったのだとシオンは語っていた。だから、マリンのような存在は稀有で、好ましいのだろう。フェンネルがどう思っているかはわからないが。そう思いながらリンは目を細めて、言った。
「えぇ、自慢の友人です」