第二章
柔らかな朝陽に頬を撫でられて、目を覚ます。ゆっくりと瞬いてから、布団の中で伸びをする。いきなり起き上がってしまうと眩暈を起こす。相変わらずに弱い自身の体に少し苦笑しながら、リンは体を起こした。
久しぶりに夢を見た。自分がこの場所……ディアロ城騎士団に来た時のことを。そう思いだしながら、目を細める。翡翠の瞳の少女が思い出すのは、あの日の自分と、自分によく似た兄の姿だった。
***
面接室に入った彼女が目にしたのは今までに見たことがないような表情を浮かべた兄の姿だった。ある程度予想はしていたが予想以上に厳しいその表情に思わず身を強張らせたのは、今でもはっきりと思い出せる。
騎士団に入ることを決めた後、それを誰かに伝えることはしなかった。両親は勿論、騎士団で働いている兄にも。
当然、志望したのは兄が統率官を務める医療部隊。そのうち自分が騎士団の入団試験を受けていることは露見する。それが、面接の際だったのである。
筆記試験は勿論、魔術の試験もクリアした。体術や剣術の試験の結果は芳しくなかったが……それでも無事に最終面接には辿り着いたのであった。
「リン、これはどういうことです」
険しい表情と厳しい声に、思わず身が竦む。兄……ジェイドはとても穏やかな気質で、怒りを露わにすることは滅多になかった。歳の離れた妹(リン)には尚更。故に、こんな恐ろしい顔をした兄にリンが対峙するのは初めてだったのだ。
震えそうになる身体と声を抑えて、リンは真っ直ぐに兄を見つめた。
「見たままの意味です、お兄様」
きっぱりと、そう返す。そんな妹の様子に、ジェイドは少し面食らったようだった。しかしすぐに表情を引き締め、言う。
「貴方は体が弱いでしょう、なのにフォレーヌを出てこんなところまで来て……」
諭すような声音。我儘など行ったことのないリンではあるが、今の兄の声は聞き分けのない妹を諌める声だと感じた。
ジェイドはリンにとって憧れの存在であり、大切な家族だ。嫌われたくはない。兄の言うことを聞いておとなしく帰ればきっと、兄は優しく笑ってくれるだろう。
しかし、そうするわけにはいかないと、彼女は真っ直ぐに自分と同じ翡翠の瞳を見つめて、言葉を紡いだ。
「私はお兄様のように立派な医師になりたいのです。
誰かを助けるため、守るために、自ら動くことが出来る医師に」
それは、家を出たときにした決意。否、それよりずっと前から胸に抱いていた願いだ。
兄のようになりたい。国の多くの人を救う、魔術医になりたい、と。
そんなリンの言葉にジェイドは溜息を吐いた。
「それならば、騎士になる必要などないでしょう」
静かな声で、ジェイドは言う。事実、騎士にならずとも医師にはなれる。そもそも彼女らの父親は開業医。その跡を継げば簡単な話だ。寧ろ、両親はそうあることを望んだだろう。自分にも、兄(ジェイド)にも。
騎士になると言うことは、医術以外も身につけなければならないと言うことだ。戦闘部隊ではないとはいえ、魔獣の討伐に同行することもある。怪我をしたり、死亡するリスクだって当然あるのだ。
それはわかっている。親の想いも、兄の想いも。それでも、とリンは首を振った。
「いいえ、いいえ。
ただ診療所で患者が来るのを待つのではない、自ら必要とされる場所に赴くことができる医師に、お兄様のような医師になりたいのです」
静かに、けれど力強く、リンは言う。それを聞いたジェイドは少し目を見開いた。
……こんな風に自分の想いを口にする妹は初めて見たのだ。いつも聞き分けが良くて穏やかな彼女。我儘をいうこともない少女だった彼女はすっかり大きくなって……もう弱いだけの子供ではないのだと、頭では理解できた。
それでも、とジェイドは言葉を繋ぐ。
「僕は一部隊の統率官です。
貴女を贔屓することは当然できません。
貴女だけを守るために動くこともできないのですよ」
それは、兄としての不安。今までならば、或いは彼女がただの医師になるというなら、国に仕える騎士として彼女を守ることができた。しかし彼女も騎士となるならば、そう言うわけにはいかない。大勢の部下たちと同じように扱わねばならない。彼女だけを危険な任務から遠ざけることも出来ないし、つきっきりで守ることもできない。
ジェイドがそう言うのを聞いて、リンは力強く頷いた。
「当然です。甘えるつもりなどありません」
当然リンもわかっている。兄がとても平等な人であることはよく知っているのだ。おそらくこの警告こそ、彼がリンに向ける贔屓だろう。その想いが嬉しくないわけではなかったが、それ以上に譲れないものがリンにはあった。
自分をまっすぐに見つめる妹を見つめ返し、ジェイドはもう一度溜息を吐き出した。そして、静かな声で言う。
「……そのために貴女自身の寿命を縮めることになっても、ですか」
いつも通りを装った兄の声が微かに震えていることに、リンは気がついた。酷く悲痛なその声に一瞬揺らぎそうになる。元々病弱な身体だ。無理をすれば命を縮めるかもしれないと言うことはリンもよくよく知っていた。それでも、と。
「……覚悟の上です」
きっぱりと、そう返す。迷いのない瞳で真っ直ぐにジェイドを見つめて。
「もう私は子供ではありません」
守られるばかりの子供ではなくなったのだと、彼女は伝えた。これからは守られるだけではない、守る存在になりたいのだ、と。
それを聞いたジェイドは一度目を伏せた。そして、そっと溜息を一つ。
「……勝手になさい」
まるで呟くような声だった。それ以上は、何も言わない。
リンは椅子から立ち上がり、一度“統率官”に礼をした。そのまま、部屋を出ようとしたとき。
「手加減はしませんよ」
静かに彼はそう言った。その言葉にリンは大きく目を見開いた。微かに瞳を潤ませリンは微笑んで、しっかりと頷いたのだった。
「勿論です」
***
「よくジェイド様が許してくださったわね」
そんな夢、少し前の話を仲間にする。リンが淹れた紅茶を飲みながら、友人であり同僚はそう言った。マリンも"前"医療部隊長……ジェイドの性格は良く知っている。リンのことをとても大切にしていたことも。
故に、マリンもジェイドがリンの入団を許したことは意外に思ったらしい。
リンは彼女の言葉に小さく笑った。そして軽く肩を竦めながら言った。
「許した、というよりは許さざるを得なかった、という方が正しいでしょうね。試験には通りましたが……やはり、反対している風でしたし」
試験に合格した以上一人の騎士であると認め、指導をしてくれている。しかし、決してリンが騎士となったことを心から喜んでいる訳ではないことはよくわかる。諦めた、というのが正解だろう。
リンがそういうのを聞いて、マリンは苦笑を漏らした。
「だよねぇ。私もお兄ちゃんを説得するのが一番大変だったわ」
マリンもまた騎士の兄を持つ身。今は部隊長であるアネットもまた、妹が騎士団に入団すると知って驚き、反対したらしい。くすくすと笑ったリンは小さく首を傾げ、彼女に問う。
「ご両親は反対なさらなかったのですか?」
「もう諦めムード。パパは滅多に家に帰ってこないから相談のしようがなかったしママはお兄ちゃんも勝手に騎士団の試験受けにいっちゃって合格したから!って家飛び出してっちゃったからいつか私もやるだろうって思ってた、って」
そう言って肩を竦めるマリン。ほんの少し決まり悪さを滲ませつつも決意を翻すことはない瞳。それを見てリンは目を細める。
「ふふ、よく似ていらっしゃるのですね」
アネットとマリンは実際良く似ている。明るさも人懐っこさも責任感の強さも。兄妹なのだと感じ取れるそれがリンは少し羨ましかった。
そんな彼女の言葉にマリンは得意げに笑う。
「勿論!でも、リンとジェイド様もよく似てるわ」
マリンにそう言われて、リンは目を見開く。そして小さく首を振りながら、言った。
「そんなことは、ありませんよ」
静かな声での否定。それを聞いてマリンはぱちぱちと金色の瞳を瞬かせる。謙遜ではない本気の否定に少しだけ、面食らう。
リンはそんな彼女を見つめて、ふっと寂しげに微笑んだ。
「お兄様に憧れてはいるけれど、私はあの方のようにはきっとなれない」
ずっと憧れだった。追いかけても追いかけても追いつけない、星のような人だと思う。そんなリンの言葉にマリンは目を伏せ、言葉を探した。嘘をつくことができないマリンは、適当な言葉をかけることはできない。でも、何か言いたくて……
そんなマリンの様子を見て、リンはふっと微笑んだ。
「でも、少しでも近づきたくて……それで、騎士団に入ることを決めたのですよ」
まだ追いつくことを諦めたわけではないとリンは言う。諦めたなら、騎士団に入ろうとは思わなかった。大人しく、親の言う通りの医師になれば良いだけなのだ。そうしたくないのは、まだ兄のような医師になることを諦めていないからなのだと。
マリンはそれを聞いて、金色の瞳を大きく見開いた。そして、いつものように無邪気に笑う。
「そっか!でも、リンは可愛いからちょっと心配」
「え?」
可愛いから心配とは?とリンは不思議そうな顔をする。そんな彼女の頬を小さな掌で包みながら、マリンは真剣な表情で言う。
「男たちに何かされそうになったらすぐに言ってね!ソイツ、私がめちゃめちゃにやっつけるんだから!」
きっぱりとそういった彼女はにっと笑う。そんな無邪気な、そして頼もしい同僚を見てリンも微笑んだ。そして、マリンの頬を軽くつついて、言う。
「そういうマリンも、気を付けてくださいね」
貴女だって可愛い女の子なんですから。そう言って微笑むリンを見て、マリンはぱちぱちと鮮やかな金色の瞳を瞬く。そして、少し照れ臭そうに笑って、頷いた。
「うん!これからも一緒に頑張ろうね、リン!」
私たちの目標に向かって!そう言って笑う愛らしく頼もしい少女を見つめ、リンもしっかりと頷いたのだった。