香水の匂いには慣れている。
高貴なお嬢様方の護衛の際には勿論嗅ぐものだし、仕えている女王もつけているものだ。
繰り返し会う機会のある相手がいる者……有態に言うならば恋人の居る騎士の中には、僅かな変化にも気づくことが出来るようにと、身に付けもしない香水の香りの研究をする者もいるくらいだ。
どちらかと言えば、自分は疎い方だろうと思いながらフィアはそっと溜息を吐く。
今身にまとっているのが薔薇の香りだということがわかる程度で、その香水の良し悪しだとか、流行りだとかはわからない。
勧められるまま、されるがままに身に纏ったに過ぎない形である。
……されるがまま、というなら香水だけの話ではない。
今身に付けている淡いブルーのドレスも、長い亜麻色髪のウィッグも、デコルテを彩るアクセサリーも、である。
じとりとした視線を"元凶"に送る。
従弟の絶対零度の瞳に見据えられた黒髪の部隊長は降参を示すように両手を上げて、苦笑ヲ漏らした。
「んな顔すんなよ……」
困ったようにそう言って笑う、ルカ。
それを見てフィアは鮮やかなサファイアブルーの瞳を細める。
「ほう」
驚く程低い声が出た。
びくっと肩を跳ねさせるルカを見つめ、フィアは緩く口角を上げた。
そして、小さく首を傾げながら、わざとらしい猫なで声で問うた。
「それは俺がこの十年あまりをどの様に生きてきたかを理解した上での発言だな?」
「いや、うん、そうなんだけど……」
すっかりしどろもどろになっている従兄兼上官を見て、フィアは溜息を吐き出す。
……どうやら、自分をからかうために"こんな仕事"を任せた訳ではないらしいことはわかった。
そう思いながら溜息を吐き出す。
「何が悲しくて"男のフリをして"生きている俺が"女装"して囮捜査なんか」
相変わらずにじとりとした目をしながら、フィアは自分が身に付けているドレスをそっと引っ張った。
そう。
フィアがこれから就く任務は文字通りの囮捜査。
パーティドレスで着飾った淑女たちの群れの中に紛れ込め、というものだった。
社交界というものは華やかである一方で様々な犯罪の隠れ蓑にも利用されやすい。
薬物や武器類の密売、それを用いての傷害、婦女暴行なんかも起こりうる。
……今回は、"ソレ"がほぼ確実に起きるから、という騎士団のブレイン、水兎統率官の言葉である。
彼には予知能力がある。
全盛期に比べればそれは相当精度も頻度も落ちたらしいが、僅かにでも可能性があるのならば対策するべきだというのが騎士団全体の判断だった。
とはいえ、だ。
堂々と、騎士が護衛についているならば、そう言った輩は行動に出ない。
今回防げたからと言って次回防げるとは限らない。
故に、"ごく自然な形で"護衛に入ることが必要だった。
「男として入りこむ手もあっただろう。
以前、クオン様がしていたようにボーイのフリをするだとか」
フィアはまだいま一つ諦めきれていないようで、そう言う。
ルカは緩く首を振って、その言葉を否定した。
「デカい屋敷だから使用人は足りてるんだよ」
「……女性をエスコートする役としていくとか」
「こういった事情を聞いて動揺しないお嬢さんが内部に居れば良かったんだがな」
ぐうの音も出ない反証にフィアは黙り込む。
そして小さく溜息を吐き出すと、言った。
「……囮を選ぶにしても他に居るだろう、幾らでも。
俺の性別が露見するリスクを考えたらシスト辺りにやらせるべきだろう」
随分と酷い言いぐさである。
これを件の相棒に聞かせたら怒られるぞ、と思いながらルカは首を振った。
「シストだと声でぼろが出る、今回は喋りも必要なんだ。
流石に喋らずに何時間も逃げ回るのは難しいし自然じゃない」
そう言われてぐう、とフィアは唸った。
……流石に万策尽きたらしい。
と、その時。
くすくすと笑う声が、傍で聞こえた。
「良いじゃない、私としては"かわいい"フィアの姿が見られて幸せよ?」
そんな言葉をかけてくるのは、長い緑のドレスを揺らす、彼らの主。
どうやら任務に赴くフィアを見に来たらしい。
彼女はフィアの事情を理解しており、男として、騎士として振舞うフィアと同じくらい、愛らしい女性の姿をした姿が好きなのである。
彼女にまでそう言われてしまったら、流石にこれ以上我儘は言えないとおもったのだろう。
フィアは深々と溜息を吐き出した。
「……陛下」
「とても素敵よ」
悪びれず、何処か無邪気さと幼さを残した女王はそういって微笑む。
フィアはそれを聞いて困ったように表情を崩す。
「素直に喜んで良いのだろうか」
「あら、素直に褒めているのよ?」
そんな女王の言葉にフィアは微笑んで見せる。
覚悟が決まったようで良かった、とルカも胸をなでおろした。
「……帰ってきたら相談もなしにこんな任務を割り振った貴様に言いたいことがある」
……ディナが姿を消すと同時に、そう至極不機嫌そうな声で言われたけれども。
***
午後八時。
会場からは賑やかな談笑と華やかな音楽が聞こえてくる。
それを会場外から聞きながら、ルカはそっと息を吐く。
「ああはいっても仕事はこなすんだからな」
そう呟く彼の視線の先にはパーティの主催と談笑している"従妹"の姿があった。
ほんの少しぎこちない風ではあるが、未だ社交界に慣れていないのだといえば誤魔化せるレベルである。
あれほど文句を言っていても、上手くこなす辺りが彼の生真面目さだ。
……無論、嫌な仕事だからと言って手を抜くような人間ならばこうして任せることなどしないが。
「……さて」
小さく呟いて、ルカは会場を離れる。
「俺は俺で、仕事をするとするか」
***
薄暗い部屋の中。
送られてくる"客"の情報。
それを見て、男は笑みを浮かべる。
「おぉ、今日は珍しい魔力の持主が多いな……顔も悪くないのが多い」
笑みを浮かべ、そう呟く。
彼の手元には分厚いファイル。
これまでに"売った商品"だ。
夜会に集まる小鳥たちは上質だ。
その中から数羽を攫うことは決して難しいことでもない。
彼はそうして攫った小鳥たちを売りさばいているのだった。
今回は高く売れそうな小鳥が多い。
どうやら特殊な魔力を持っている者もいるらしい。
緩く笑いながら、会場内に居る"同胞"に指令を送ろうとした、その時。
不意に首筋に、冷たいものが突き付けられた。
「悪いな、おにーさん」
低い声。
男は体を硬直させ、突き付けられている刃で首が飛ばないようにと注意しながらふり向く。
そこには真白の騎士服を纏った青年の姿。
迷わず剣を突き付けるその姿は、まるで突然現れたかのようだ。
「な……っ!?貴様、いつの間に……魔力、なんて」
気配なんて感じなかった。
そもそも、魔力の感知センサーを仕込んであるのだ。
それに引っかからずにこの部屋に入れるなど……
そう呟く彼を見て、騎士は笑う。
「悪いな。俺はほぼ魔力が無い身でな」
そう言いながら彼は軽く手を振る。
シャリシャリと音を立てるブレスレットは抑制機だ。
普段ならば彼……ルカが身に付ける必要のないそれ。
しかし今日は、わざと身に付けていた。
元々少ない魔力は、こんなちょっとした抑制機をつけるだけで完全に消えてしまうのだ。
それが今回は役に立った形である。
そう。
今回捕えるべき相手は、特殊な魔力を持つ者を中心に攫い、売っているのだという調べがついていた。
会場内に来ている人間の魔力をそれぞれ感知して獲物を選別する者だと聞いていたために…フィアが適任だった、というのも間違いではなかったのである。
そして、そんな夜会の合間に指示を出すであろう"黒幕"を捕えるには、そうした魔力のセンサーに引っかからないルカが適任だったのだ。
「騎士団(うち)の参謀部隊を甘く見過ぎだな。
別に完全にボロ出してからでも良かったんだが……ま、仕事は早く片付けるに越したことはないだろ」
そういって、ルカは笑う。
そして、彼が帰ってくる前に押収していたこれまでの被害者の情報が入っているであろうファイルをぽんぽんと叩いて、言う。
「此処にある資料全部そろえれば十分お前の仕業だって立証できる」
そういってルカが笑うと同時。
不意に、鋭い魔力が飛んできた。
それは、剣を突き付けられていた男から向けられたもの。
しかし、それをあっさりと受けるルカではない。
素早く躱し、その身を床に組み敷く。
「魔力が無い人間に……」
小さく呻いた男はルカを睨み付け、吐き捨てるように言った。
小さな抑制機一つつけるだけで消える程度の魔力しか有していない人間に負けるなど、と。
それを聞いてルカは苦笑混じりに肩を竦めた。
「……こう見えて部隊長させてもらってるんでな。
部下を危険な目に遭わせてるんだ、これくらいのことはあっさり出来ないとな」
そういって笑ったルカは元から渡されていた器具で男を捕縛した。
丁度そのタイミングで持たされていた遠隔通信機が鳴る。
恐らく、外で待機してくれている水兎の騎士からの連絡だろう。
そう思いながらルカは通信機を手に取った。
―― 見えない努力 ――
(確かに俺は魔力を持たない。
だけどだからこそ、出来ることがあると思ってるさ)
(大事な家族を囮に使うんだ。
失敗出来ない、そう思うのは至極当然だろう?)