地上に降りている時間が長くなったとはいえ、天界での仕事がないわけではない。
気は進まないことも多いが、ラジエルの血筋の天使……カライスは時折、天界に戻っていた。
仕事自体は嫌いではない。
人間風の言い方をするのであれば、労働環境が悪い、とでもいうのだろうか。
そんなことを考えて、カライスは小さく笑った。
仕事を終えると、普段はすぐに地上に戻る。
表向きは邪神とされる人物に心を奪われ堕天した友人の監視役として、本心としては自身の恋人と共に過ごすために、だ。
しかし、時々少し、寄り道をして帰る。
その寄り道先はカライスの監視対象であるリュスの実兄、アダスのところであることが多いのだが、それと同じくらい、頻繁に寄る先があった。
地上のことを知りたがる、幼なじみ。
自分達より少し年下のその天使は天界を見限ろうかと考えるカライスにとっては唯一と言っても良い気がかりだった。
地上にしばしば降りることを良しとする天使は多くない。
否、正確にいえば地上に降りる必要性を感じない天使が多いのだろうか?
イレギュラーとしては大天使のラフィニア、そして最近はウリアもしばしば地上で見かけるような?
そう考えながら、カライスは歩みを進めた。
ラベンダーの花に囲まれた、教会風の館。
そのベルを鳴らせば、一人でにドアが開く。
そこをくぐって奥に進めば、静かな部屋の中に一人、青年が椅子に腰掛けて本を読んでいた。
どこか幼げな雰囲気の残る彼は、リュスとは少し違うもののふわふわとした雰囲気を纏っている。
癖のある長い髪が床にまで流れているのを見て、カライスは小さく笑った。
「また髪が伸びたんじゃないか、アフェート」
そう声をかけられて、青年は顔をあげた。
そしてカライスの顔を見て、嬉しそうに笑う。
「そうかなぁ……うん、そうかもしれない」
結うこともしないからよくわからなかったけれど。
そういってはにかむように笑った彼の名前はアフェート・ジュスティア。
ザドキエルの血を引く彼は、慈悲の天使ともよばれ、カライス同様人間に関心を持つ天使の一人だった。
「元気にしていた?カライス」
そう問われて、カライスは頷いてみせる。
「あぁ、勿論」
「リュスも元気?」
「元気そうだ」
「そうかぁ」
良かった、と笑う彼は、天使にしては表情が豊かな方だ。
天使……特に位の高くない天使は、無感情なものが多い。
位の高い天使でも、感情など持たない方が効率がいい、などといって感情を捨て去っている者がいるほどだ。
リュスもかつては周囲への関心はさして示さないタイプだった。
今でこそ、不器用ながらに自分の想いをきちんと表現するようにはなったが。
そんな天界において、こうしてよく笑う天使、というのは珍しい。
尤も……それをアフェートがこの館の外で見せることはしないのだけれど。
彼は、カライスに椅子を勧める。
お茶いれてくるね、と笑う彼は、とても嬉しそうだ。
確かに最近、ここに来る頻度は下がっていたかもしれない。
寂しい想いをさせたかな、と少し反省しながら、カライスはそんな友人の様子を見つめていた。
***
アフェートが用意してくれたお茶を飲みながら、少しの間談笑する。
それがここに来る大きな目的だった。
というのも、彼……アフェートは、この館の外に出ないのだ。
それでも天使としての務めはこなせるし問題はないのだが、彼が完全に外界との接触を絶ってしまうことが、カライスには気がかりなのだった。
かちゃり、とティーカップを置いたアフェートは、瑠璃色の瞳を煌めかせて、カライスに問うた。
「何か面白いもの、見つけたりした?」
地上の話を聞くことが、アフェートには楽しみなようだった。
こうして館を訪れると、専ら同じ質問をされるのだ。
それがわかっているから、カライスは土産話を持ち帰る。
いつもこの館で、そしてこの息の詰まるような理想郷で一人きりの幼なじみに語って聞かせるのだ。
「そうだな、先日はあの国で大きな祭りがあってな……」
ちょうど、カライスがいる国の建国記念の月であり、女王の生誕祭もあって、街はとても賑やかだった。
色とりどりの装飾、たくさんの花、笑い合う人々。
町の中心部には屋台が並び、様々な菓子や食べ物が売っていた。
元々天使は天界にいる限り飲食の必要はないのだけれど、アフェートは殊更地上の食べ物に興味を示すことが多かった。
一通りカライスの話を聞いたアフェートはほうっと息を吐き出した。
まるで童話を聴き終えた子供のように、表情を綻ばせて、彼は呟く。
「いいね、とても楽しそう」
いつものように彼はいう。
まるで御伽話の世界を想うような顔をして。
「……そんなに気になるのなら、降りてみればいいのに」
カライスはそう彼に告げる。
天界から地上に降りることは、アフェートほどの力があれば然して困難なことではない。
行こうと思えば行けるし、カライスが案内することだってできる。
大天使であるラフィニアも、視察と称して降りているくらいである。
何の問題もないはずなのだ。
だから、カライスはいつもこうして、誘う。
しかし答えはいつも、同じだった。
「できないよ、私にはそんな度胸ないもの」
そういって、アフェートは寂しげに笑う。
彼が頷くことはない。
行かないよ、と彼は言うのだ。
「地上が怖いか?」
カライスは彼にそう問いかけた。
なぜ彼が頑なに首を振るのかを知りたくて。
地上はたしかに天界育ちの天使にとっては危険かもしれない。
人間も善人ばかりではないし悪魔に襲われることもある。
「完全であること」を求められる天界に戻るためには、無傷でなければならないのだ。
事実、目や翼をなくして天界に帰れなくなった者もいる。
その話はアフェートにも伝わっているはずだ。
故に怖いのかとカライスは問うが、アフェートは首を振った。
「うーん。怖くないといえば嘘になるけど……それが原因というわけじゃないよ」
そういって、彼は笑う。
では何故、と問いたげな友人を見つめて、アフェートはいった。
「ここに大人しくいるなら、何の不都合も起きないから」
そんな彼の言葉にカライスは目を見開く。
その言葉の意味は、彼もよくよく理解していた。
アフェートがここから外に出ない理由。
それは、この平穏を守るため。
天界は完璧に安全で、平穏な世界だ。
故に、此処が一番であると考える天使が多い。
アフェートもそうかと言えば、その実そうではない。
地上に憧れを抱き、少なからず天界のあり方に疑問も抱いている。
しかしそのあり方は、考え方は、天界においては「異端」なのだ。
天使たちは、自分達と異なるものを恐れ、迫害する。
それは、「悪」に繋がるかもしれないから、と。
そうした迫害を、アフェートは恐れていた。
アフェートは天界のあり方や天使たちのあり方を理解した上で、ただ人間界に焦がれているだけなのだ。
嘘をつけない自分では、もしかしたら外にいるときに地上への憧れを隠せないかもしれない。
一度地上に下りて仕舞えば、此処に戻りたくなくなるかもしれないとも確かに思っていて、そんな思考を持てば当然、「異端」だ。
それを責められるのが怖くて、彼は見知った者しか訪れないこの館に一人で引きこもっているのだ。
天使たちを糾弾したいわけではない。
この場所を捨ててまで地上に行きたいとも思い切れない。
地上にも確かに仲間はいるけれど、その仲間、友人たちにはすでに「大切な人」がいる。
そんな中に飛び込んでいって、万が一天界に帰れなくなった時、一人きりになるのはとても耐えられないと思っていた。
それでも、地上への興味は捨てきれない。
だから、カライスがこうして訪ねてきたときに、土産話を強請るのだ。
怠惰ではないとカライスは思っている。
彼なりの、防衛策なのだと。
よく先のことを考えられる彼だからこその悩みなのだろうなと、カライスは思っていた。
「カライスも、そういうタイプだと思ってた」
アフェートはそういって、笑う。
カライスはぱちと青の目を瞬かせて、彼に問うた。
「私があっさりと地上に降りたのは意外だったか?」
「うん、とても」
迷わず頷く、アフェート。
少しだけ視線を逃して、カライスは質問を重ねる。
「……失望したか?」
自分の行動は、天界にとっては確かに裏切りであり、「異端」なのだろう。
そんな自分に対して失望したかとアフェートに問う。
その問いかけに、アフェートはゆるゆるとくびをふった。
「いいや、そんなことはないよ。
羨ましいなぁ、って、それだけ」
私は臆病だから真似できないんだよ、と彼は笑う。
カライスはそれを聞いて一瞬開きかけた口を閉じ、頷いた。
「……そうか」
もう一度誘おうかと思った。
考えているだけでは何も変わらないのだから、と。
しかし、変わることを恐れる彼にそれを言うのは良くないだろう。
そもそも実際地上に降りたとき、アフェートが地上が楽しいと感じるかはわからない。
天界に戻りたい、天の生活の方が良いと感じたとしても何か起きてからでは遅いのだ。
大天使ならばいざ知らず、自分程度の力では、傷ついた天使を天界に戻す術などない。
かといって彼に何も危険がないように守るだけの力もないことをカライスはよくよく理解していた。
もし彼が、天界に戻れなくなる恐怖よりも優先したいことを地上に見つけたとしたら、その時は全力で手を差し伸べよう。
それまでは今までのように、御伽話を聞かせるように人間界の話をしてやろう。
今は、それだけでいい。
そう思いながら、カライスはそっと冷めた紅茶に口をつけた。
「そういえば」
ふと思い出したように、アフェートが口を開く。
どうかしたか、と視線をあげるカライスを見つめて微笑んだアフェートは言葉を紡いだ。
「カライスも恋人ができたんだって?」
思わず、カライスは噎せる。
流石に想定していなかった話題だ。
けほけほ、と咳き込んだ彼は、大きく目を見開いて、アフェートを見つめた。
「な……何で知って」
彼にはまだ、その話はしていなかったはずだ。
そう思いながら視線を揺るがせれば、アフェートはくすくすと笑って、言った。
「この前アダスが愚痴りにきたから。
いつも俺だけ置き去りだ、って」
「……あのお喋りが」
決まり悪そうに、カライスは呟く。
堕天してしまった弟を思いながらも天使としてのあり方を守り続けるあの幼馴染みは、何如せん口が軽くていけない。
そんなカライスの表情を見て、アフェートは楽しそうに笑った。
「ふふふ、でも楽しそうだっていってたよ?」
「それはっ……楽しくない、わけ、ではないが」
珍しくしどろもどろになるカライスを見て、アフェートは目を細める。
「良いなぁ、誰かと一緒に過ごす、って言うのも、楽しそう。
それが好きあった相手なら、尚更だよね」
まるで夢を見る乙女のように彼は言う。
その言葉を否定はしないしできないが気恥ずかしくて、誤魔化すようにカライスは言った。
「お前も、実はそれなりに好奇心旺盛だものな」
新しいものを見聞きしたいと言う思いは、とても強い天使だと想う。
きっと、今地上にいる、あるいは頻繁に地上に降りている天使たちのような思い切りの良さがあれば、彼はとっくに地上に降りていたことだろう。
しかしそうしないのは。
「それを表に出したら厄介だからね。
万が一それが原因で仲間に罰させることになったら、嫌だもの」
外界(そと)への好奇心を示してしまえば、ほぼ確実に異端として見られてしまうのだから。
そしてそれを罪として咎められる可能性がゼロではない。
その罰を与えるのは当然、仲間である天使なのだ。
自分のことを何とも思わない天使が罰則係ならまだ良いが、カライスやアダスにそのお鉢が回るのは嫌だ、と彼は言う。
そんなことになるかは、当然わからない。
わからないけれど、思慮深いこの天使は常に最悪の場合を考えて、動くのだ。
「……きっとお前の方が賢いよ、アフェート」
カライスはそう言って、肩を竦める。
事実、自分はきっと相当自分勝手なのだろう。
アフェートのように考えるのが本来は最善のはずだ。
憧れるものを遠くに見て、正しくあろうとする。
それが本来正解で、あるべき姿とわかっている。
……わかっては、いるけれど。
「後悔してる?」
そんなアフェートの問いかけに、カライスはほんの一瞬の間ののち、答える。
「……否、少しも」
正解の道が、天使として取るべき行動が分かってなお、そちらに行きたいとは思わない。
もっと言うなら、眼前で地上に憧れながらも踏み出せずにいる友人を連れ出してやりたいと思ってしまう自分はきっと、とっくに天使として終わっているのだろう。
そしてそんな自分のあり方に嫌悪も後悔もしていないのだ。
カライスはそう思いながら、苦笑する。
アフェートはそんな彼を見て、眩しそうに目を細めたのだった。
―― 人魚姫にはなれない ――
(安全な鳥籠の中から、外の世界にただ憧れる。
ああ、そこはどれほど楽しい場所なのだろう?けれど…)
(危険を承知で外の世界へ飛び出す人魚姫にはなれない。
海の泡と消える覚悟も、そうしても良いと思える存在も、私にはまだないのだから)