SIDE ロゼ
お伽噺っていうのは、ただ子供を楽しませるだけのものではないとわかったのは、いつのことだっただろう。
幸せな物語がたくさんある一方で、その裏側には子供への戒めが含まれているって。
例えば、嘘をついてはいけないとか、人とのつながりは大切にしなければいけないとか。
……寄り道をしてはいけない、とか。
大体、そうした"約束"や"教訓"を守ることが出来なかった子供は、酷い目にあう。
例え、童話の中であったとしても。
それはわかっていたはず、なんだけどなぁ。
目の前には、大きな、狼のような魔獣。
低く唸るそれは、私にとっては見慣れないもの。
けれど、その鋭い瞳に点るのが殺意であることくらいは、理解出来る。
暗くなってから一人で出歩くなって、何度も言われていた。
それは、"お母さん"にも"ママ"にも言われたし、弟にも何度も言われていた。
それを破ったのは、私自身で、嗚呼これをきっと、自業自得というんだろう。
いいつけを破って寄り道をした赤ずきんも、母さん山羊の言うことを聞かなかった子ヤギも、狼に食べられた。
"良い子"じゃなかった私も、きっと食べられるんだ。
魔獣が、一声吠えた。
一歩後ずされば、相手は一歩前に出てくる。
明らかに、狙っている。
私が、正気を失って叫びだせば、或いは背を向けて走りだせば、一瞬で餌になるのだろう。
どうしたら良い、と必死に考える。
走って逃げる?でも私はそんなに足が速くない。
鞄の中に一応護身用の剣は入っているけれど、戦えるの?
魔獣の遠吠え。
きっと、痺れを切らしたんだ。
もう、襲ってくるんだ。
「っ……」
嗚呼、神様。
最期に、弟(シスちゃん)に会いたかったなぁ。
そう思いながら目を閉じる。
頬に冷たい雫が落ちていくのを感じた。
嫌だ。
死にたくない。
……もう、あの子に、可愛い弟に、苦しい思いをさせたくない!
その想いに突き動かされて、私は鞄から武器を取り出して、魔獣に向ける。
"これくらいは持っておけよ"と弟にプレゼントされた、ごく小さい短剣。
獣を怯ませるには小さすぎて、何の戦力にならないこともわかっていたけれど、此処で何もせずに殺される訳にはいかない。
必死に武器を向ける。
魔獣は、嗤ったような気がした。
そんなちっぽけな武器でどうするつもりなんだ、と。
そして、襲いかかってくる。
「姉貴!」
響いたのは、凛とした声。
聞きなれているはずの、弟の声だと気づくのに時間がかかった。
それと同時、素早く体を誰かに抱えられ、地面に倒れ込む。
守るように、強く抱き締められる。
すぐ傍で、魔獣が唸るのが聞こえた。
「っく……」
私を抱きかかえている誰かが、小さく声を漏らした。
抱えられたまま地面に倒れ込んだ私たちの横を、茶のブーツが駆け抜ける。
その手に握られた大きな剣に怯み、魔獣は私たちから距離を取ったようだった。
「フィア、姉貴を頼む!」
私を守る騎士……ふぃーちゃんの腕の中から見えたのは、私たちと魔獣の間に立つ、弟の姿。
さっき私を守って怪我をしたらしいふぃーちゃんは私を守るように庇いながら、頷いた。
「あぁ」
任せておけ、と笑う彼の方を振り向いて笑う、私の弟。
彼は低く唸る魔獣に剣を向ける。
長い紫髪が、吹き抜ける風に揺れた。
「し、シスちゃん、駄目だよ、危ないよ……」
ふぃーちゃんに庇われたまま、私はシスちゃんに言う。
駄目、駄目だよ。
危ないよ。
そう、何度も言う。
だって、だって。
シスちゃんは、狼が怖いでしょう。
エルちゃんを殺した狼が、怖いでしょう。
だから、だから。
私が、守らなくちゃ。
そう思うのに、身体が動かない。
でも、シスちゃんは私の方を見て、笑うの。
いつもみたいに、呆れたみたいに。
……いつもみたいに、優しく。
「何言ってんだよ、姉貴」
―― 俺は、騎士だよ。
そういって、彼は剣を握り、魔獣に向かっていく。
強く、地面を蹴って。
駄目、と叫んだ気がする。
行かないで、と泣いた気がする。
駄目よ駄目なの。
だって、あの子は……――
でも、伸ばした手を、傍に居る彼が、そっと握った。
「ご安心を、ロゼ様」
私を庇うように抱きしめたまま、女の子みたいに華奢な騎士様は言う。
「シストは、頼りになる騎士です」
俺のかけがえのない相棒です。
貴方の信頼する弟です。
そうでしょう。
そういって、彼は微笑んだ。
***
気が付けば、決着はついていた。
私に襲いかかってきた狼は私の弟の前に斃れ、それを斃した彼はそっと剣を拭って鞘に納めている。
そして、座り込んだままの私たちの方へ来て、手を差し伸べた。
「怪我は?」
「だ、大丈夫」
そう返せば、彼はほっとしたように笑う。
私ははっとして、逆に問いかける。
「し、シスちゃんは?」
「俺も平気だ」
心配いらないよ。
そういって、彼は私の手を引いて立ちあがらせて。
一度、そっと抱きしめられて。
「良かった、無事で」
守れて良かった。
そういった彼は、自分で立ちあがっている相棒……ふぃーちゃんの方へ行く。
心配そうな顔をしている彼に笑いかけて、ふぃーちゃんは言った。
「きちんと障壁を張ったから、傷は見た目ほど深くない、心配いらないよ。
帰ったらちゃんとアルに診てもらう」
「あぁそうしてくれ」
良かった、と笑う騎士様は、確かに私の弟で。
……小さい頃、私の後ろで泣いていた、私の弟で。
「シスちゃん、大きくなった、んだねぇ」
思わずこぼれた、そんな言葉。
それを聞いて、シスちゃんは苦笑い。
「そりゃあ、そうだよ」
―― 俺は、姉貴たちを守るために騎士になったんだからさ。
そういって笑った彼は、ぐしゃぐしゃと、私の頭を撫でた。
大きな手。
昔は、私の手にすっぽり収まるくらい小さかったのに。
親なし子だと、捨て子だと揶揄われ、泣いていたのに。
「強く、なったんだね」
そういって笑いかければ、当たりまえだろと彼は笑った。
***
SIDE シスト
「怖くはなかったのか?」
姉貴を家に送り届け、城に戻る道中。
隣を歩いている相棒は、そう声をかけてきた。
本当に、偶然だった。
今日は巡回任務が少し長引いて、帰り際に魔獣の声が聞こえて、駆けつけてみればそこに居たのは大きな狼に襲われかかっている姉貴で。
フィアが姉貴を庇って、俺は魔獣に向かって。
守ることが出来て良かったと、改めて考える。
そんなタイミングで、彼は問うてきたのだ。
怖くなかったのか、と。
「え?」
「さっきの魔獣は、その……」
エルドさんを殺した魔獣だろう。
言葉を選ぶように、フィアは言う。
なるほど、と俺は笑う。
「あぁ」
まぁ、怖かったけどさ。
そういって、俺は肩を竦めた。
「姉貴やお前が目の前で殺されることに比べたら、怖くなかったよ」
確かに、俺は狼型の魔獣が苦手だ。
何なら、少し大きめの犬も怖いくらいだ。
でも、な。
それで俺が怯んでいたら、既に手傷を負ったフィアが戦わなきゃいけなかっただろう。
そうなればもしかしたら、フィアも、姉貴も、殺されるかもしれない。
そう考えれば、苦手な魔獣に向かうくらい、怖くも何ともなかった。
俺がそう言えば、相棒はふっと笑った。
「それは、そうか」
有り難う、と礼を言われる。
寧ろ礼を言うのは、俺の方なんだけどなぁ。
一瞬体が竦んで姉貴の方へ向かうのが遅れたのは事実。
それをカバーしてくれたのは、フィアなんだから。
「もっと、ちゃんと強くならないとなあ」
今度は、もう怯まないように。
そんな俺の言葉に、フィアは頷く。
「あぁ、そうだな。そのためにも」
―― 今日は、生きて帰ることが出来て良かった。
そう言うフィアに、俺も笑って頷いて見せた。
―― My dear… ――
(私が守らなきゃと思っていたか弱い弟はいつの間にか、お姫様を助け出せる王子様に成長していました)
(俺が此処まで生きてこられたのは、貴女の御蔭なんだよ、なんて。
気恥ずかしいから、言葉にして伝えるのは、もう少し待っていて)