―― 誰かに会いたいと思うなんていつぶりだろうか。
目を覚まし、ベッドの上に体を起こしながら、紫髪の少年は思う。
頬が微かに濡れている。
情けないな、と苦笑を漏らして、彼はベッドから降りた。
まずは顔を洗わなくてはならない。
こんな情けない顔で外に出る訳にはいかない。
そう思いながら、彼……シストはバスルームに向かう。
外は今日も暑いのだろう。
少し温い水で顔を洗って、タオルで拭う。
鏡で見れば、ほんの少し目元が腫れている気もするが、誤魔化せる程度だ。
そう思いながらシストは苦笑して、髪を軽く結い上げた。
時計を見れば、いつもより少し遅い時間だ。
早く身支度をして、会議室に行かなければ。
そう思いながら、慣れた様子でクロゼットを開ける。
そこに入った白い制服に腕を通した。
本来二人で使うべきこの部屋を一人で使うのにも慣れてきた。
本当は自分は一人部屋に移って、この部屋には別の二人が入るべきだろう。
騎士団に入団する者は決して少なくない。
しかし誰もそうしろといわないのは、きっと気を使ってくれているのだろう。
それを甘んじて受け入れてしまっていることに多少の申し訳なさを感じはするが……この部屋を離れようとは、思えないままだった。
あれからもう二年が経つというのに、まだふとした時に思いだしてしまう。
今日のように寝坊したときには、彼が起こしてくれた。
クロゼットにも二人分の制服が入っていて、急いでいるときには間違えて彼のモノを着てしまったりして……
―― 嗚呼、駄目だ。
そう思いながら、シストは首を振る。
今日見た夢は、何ということはない夢だった。
時折見る"あの日"の悪夢ではない。
それに比べたらずっと幸福な、未だ彼が……エルドが生きていた頃の夢。
二人で、他愛のない話をする夢だった。
任務に赴く前、或いは帰ってきた後に交わすような、本当に他愛のない会話。
例えば、今日の夕飯は何が良いだとか、次の休みには何処に遊びに行こうだとか。
他愛のない、けれども何より楽しくて幸せな会話だった。
それが夢だとわかっていたから、だから……一層悲しくて。
彼が恋しくなった。
きっとこんな自分の様子を見たら、エルドは呆れることだろう。
昔から快活な性格で、うじうじと悩んでいるとばんばんと背中を叩いて、遊びに出ようと誘ってくるような少年だった。
それにシスト自身、何度も助けられていた。
会いたいなぁ、などと呟いてみるが、それを聞く人間など居るはずもない。
答える声があるはずもなく、その願いが叶うはずもなく。
軽いノックの音で、はっとする。
どうぞ、と返事をすれば、控えめにドアが開いた。
そこから顔をのぞかせたのは見慣れた"相棒"の姿。
亜麻色の髪に蒼の瞳の少年騎士は無表情な顔に微かな心配の色を滲ませて、シストに問うた。
「起きていたか。どうした、具合でも悪いのか?」
なかなか来ないから、と彼……フィアはいう。
シストは苦笑まじりに首を振って、いった。
「いや、少し寝坊しただけだ。大丈夫、すぐいくから先にいっててくれ」
そう返すと、フィアは素直に頷いて先に会議室に向かっていった。
シストはふ、と表情を綻ばせる。
そして"彼奴にも申し訳ないよな"と小さく呟いた。
エルドと一緒に過ごす夢は、しばしば見る。
それは過去の自分たちの姿であったり、彼が生きていたならきっとこうなっていただろうという姿の夢であったりする。
しかしそれに共通するのは、その夢の中に"今の相棒"であるフィアの姿が無いことだ。
それも当然といえば当然なのだろう。
もしも彼が生きていたなら、フィアと組むことはなかった。
ヘタをすれば、親しくなることもなかったかもしれないのだから。
……別に、フィアに不満を抱いている訳ではない。
彼は強く、勇ましく、頼もしい相棒だ。
エルドと比較するのはどちらにも失礼だということはわかっている。
事実、何度も比較するような発言をしてフィアを怒らせた。
しかしどうしても、割り切ることは出来ないものだ、と思う。
「エルは、なんていうかなぁ」
机の上の写真たてを手に取って、シストは呟く。
そこには、笑いあう自分とエルドの姿があって。
その笑顔に、問いかける。
こんな風に引きずることをお前はどう思うんだろうな、と。
答えはわかり切っている。
彼は、仲間を大切にする性格だった。
きっと、怒るだろう。
"自分を大切にしてくれる人をないがしろにするな!"と。
そんな彼だから、相棒として尊敬していたのだ。
そう思いながらシストは写真たてを置く。
そろそろ行かないと本当に遅れてしまう。
遅刻も、彼は嫌っていたから。
そう思いながら、シストは部屋を出ていった。
***
「なぁ、ルカ」
部隊ごとの打ち合わせを終え、解散の宣言をしたところで、ルカは自身の従弟に呼び止められた。
珍しいな、と思いながらルカは彼に向かって首を傾げる。
「どうした、フィア」
何か気になることでもあったか?
そう問いかければ、フィアは少し迷うように目を伏せる。
それから、そっと息を吐き出して、彼に問うた。
「エルドさん、ってどんな人だった」
その問いかけに、ルカは驚いて目を見開く。
彼がそんな問いかけをしてくることは、今までほぼなかったから。
「いきなりどうした?」
そう問えば、フィアはまた眼を伏せる。
それから軽く周囲に視線を巡らせた。
会議室にはもう他の人間はいない。
任務がある者は向かっただろうし、そうでない者は訓練なり休息なりに向かったことだろう。
フィアとその相棒……シストは非番だ。
シストも自室に戻ったらしく姿はない。
それを確かめたフィアはルカの方へ向き直り、言った。
「シストの元気がなかったから。
……きっと、エルドさん関連だろうと思って」
フィアとエルドは面識がない。
彼が任務中に命を落とした時、フィアはまだノトの騎士で事故の詳細も知らなかったから。
だから、知りたいといった。
かつて、自身の相棒の相棒だったのは、どんな騎士だったのか。
それがわかっていれば、もしかしたら……少しくらいは、シストの傷を癒すことができるかもしれないから、と。
ルカはそれを聞いて少し表情を曇らせた。
かけるべき言葉に悩むように、一度口を噤む。
そんな彼の様子にフィアは"誤解しないでほしいんだが"と前おいて、口を開いた。
「別に代わりになりたいとは言わない。
なれるとも思ってはいない。
ただ、どんな人だろうと思っただけだ」
シストは自分に気を使って、彼の話をしないから。
フィアがそういうのを聞いて、ルカは表情を緩める。
―― 嗚呼、そうだよなぁ。
フィアもシストも、不器用だ。
相手のことを想いやって、結果的に何も話せないことが多い。
シストはきっと大切なかつての相棒のことを話したいだろうに。
フィアはきっと彼の相棒のことを知りたがっているだろうに。
「エルドは、そうだな。明るい奴だったと思うよ。
シストと同じで、孤児院の出身だったけれどマナーなんかもしっかりしていたし、オンオフの使い分けをしっかりしてるタイプだった。
俺のこともちゃんと敬ってたしな」
「それは嘘だろう」
「嘘じゃねぇ、失礼な」
そんな軽口まじりにルカは友人であり部下であった少年のことを語る。
フィアはそれを聞きながら時に表情を緩め、時に眼を細め。
「あ、そうだ。彼奴は、花が好きだったな」
ふと思いだしたように、ルカは言う。
花?とフィアが問えば、彼は頷いて懐かしむように言った。
「それこそ孤児院とかで育ててたんじゃないか。
花言葉とかにも詳しかったぞ」
部屋にもたまに飾ったりしてたんじゃないか。
ルカがそういうのを聞いて、フィアは少し考え込む顔をした。
それから、小さく頷いた。
「……ありがとう」
何かを思いついた様子の彼は部屋を出ていこうとする。
ルカは思わずそれを呼び止めた。
「あ、おい」
「ちょっとでかけてくる。何かあったら、連絡してくれ」
そういって、彼は部屋を出ていってしまった。
ルカはそれを見送って、ふっと笑った。
「……何だかんだいって優しいんだよなぁ、彼奴も」
見た目がああだから誤解されがちだが。
そう呟いたルカも、自室に向かう。
たまった書類を片付けなくては。
シストに手伝ってもらおうかと思ったけれど、彼も少し休ませた方が良いだろう。
そんなことを考えながら。
***
いつの間にか、眠ってしまっていた。
そう思いながら、シストは目を擦る。
今日は特に任務もなく、部屋で休んでいた。
夢は幸福なものであっても、眠りが浅かったのは事実らしく、日々の疲れもあって、眠ってしまっていた。
少し剣術の訓練でも、と思っていたのになぁ。
そう思いながら、シストはベッドに体を起こす。
軽く伸びをすれば、背骨がぱきぱきと鳴った。
ふと感じたのは、室内に残る微かな魔力。
あれ、と思いながら視線を室内に巡らせる。
「フィア?」
魔力の主の名を呼んでみるが返事はない。
名残のようだから此処にいるとは思わなかったが、彼がこの部屋を訪ねてくるのは珍しい。
朝の様子を不審に思ったのかな。
後で謝っておかなければ。
そう思ったところでふと目に留まったのは机の上。
そこには、長く使っていなかったものが鎮座していた。
彼が……エルドが生きていた頃はしばしば出番があった、ガラスの花瓶。
「!はは……」
なるほど、これを出してきたのはフィアか。
そう思いながらシストは目を細めた。
花瓶の持主、エルドはしばしば自分にそこに生けた花の話をした。
花言葉だとか、育て方だとか。
あの頃はシストはそれを軽く受け流していたが、もっと色々聞いてみたかったなぁ、などと思ったりもするくらいだ。
しかし寡黙で素直ではない今の相棒はそうではないらしい。
花瓶の傍にはメッセージも何もない。
花瓶にバラが一輪だけ差してあった。
―― 一輪の… ――
(花瓶に生けられていたのは、一輪の紫色の薔薇。
お前は、どういう意図でこれを選んだんだろうな?)
(尊敬の証なんだぞ、と冗談めかした声音で彼奴はいっていた。
お前も、同じ意味で選んだのかな?)