差し出された手。
それを取ればきっと、願いは叶うのだろう。
眼前の堕天使がそれだけの力を有していることは、自分でよくよく知っている。
死んだものを蘇らせることが出来る。
また、昔のように一緒に過ごすことが出来る。
彼と、自分のミスで死なせてしまった彼と、一緒に……――?
それは酷く魅力的な誘いに思えた。
堕天使の手伝いといったって、死ぬようなことをさせられるとは思えない。
冷静さを欠いた思考は深い泥沼に捕らえられたかのようだ。
ただただ、その堕天使の誘いが魅力的なものに感じられるだけ。
「大丈夫、僕は嘘が嫌いなんだ」
安心して、僕にゆだねてくれていいんだよ。
そういいながら、堕天使は慈悲深い笑みを浮かべて見せる。
差し出された手を、そっと握ろうとした……
―― その刹那。
「何をしているッ!」
鋭い声が、飛んできた。
それと同時冷たい氷柱が、シストの手を弾く。
痛みに思わず手をひっこめると、眼前の堕天使の顔が歪んだ。
「邪魔しないでよね」
「貴様……」
忌々しげな顔をする堕天使を睨みつけているのは、その堕天使を鏡に映したかのような姿の、少年騎士。
険しい表情を浮かべて、剣を抜き、堕天使を睨んでいる。
その視線が一瞬、シストに向いた。
「……何をしている」
「う、……ぁ」
掠れた、言葉にならない声しか出ない。
それをみて一瞬眉をよせた彼……フィアは一度強く地面を蹴り、自分の兄に、フォルに斬りかかった。
キンッと鋭い音が響く。
いつの間に武器を抜いたのか、フォルがフィアの斬撃を自身の剣で受け止めていた。
「折角楽しい話をしていたのに、台無しじゃないか」
「何が楽しい話だ。俺のパートナーを誑かすな」
「誑かすだなんて人聞きが悪いなぁ」
大袈裟に驚いたような、悲しそうな顔をして、フォルは言う。
"僕は彼を救ってあげようと思っただけだよ"と。
「死んだ人に会いたいと願うのは当然の感情でしょう?
フィア、嫉妬してるの?
死んだ人間には勝てないってこと、君もよく知ってると思うけど」
そういいながらフォルはわざとらしく首を傾げる。
フィアはそれを聞くと盛大に顔を歪めて、言った。
「喧しい、外道が。
俺が言いたいのはそんなことではない。
俺じゃエルドさんに勝てないことくらいはとっくに理解している」
そういいながら彼は剣を振り抜く。
フォルが勢いに負けてよろめいたところを狙ってもう一度剣を突き出すが、その斬撃は魔術で受け止められた。
「っち……」
「そう簡単にやられるわけにはいかないからなぁ」
くすくす、と笑う堕天使。
忌々しいその表情と声にフィアの眉間のしわは深くなる。
「勝てないことは知っている。
けれども俺はシストをお前の人形にするつもりはない」
「へぇ?じゃあやってみれば?」
そういうと同時にフォルはすぅと目を細めた。
刹那、その手がシストの方へ向けられる。
大きく目を見開くと同時、強い魔力が体を包む。
自分の叫ぶフィアの声と高らかに笑うフォルの声とを最後に、シストの意識は途切れた。
***
呼ぶ声が、聞こえる。
シス。
シスト。
なぁ、シスト。
その声はよく知った、かけがえのない相棒の声。
自分のミスで死なせてしまった、大切な彼の声。
嗚呼そうだった。
お前の声は、そんな声だった。
まだ、忘れないでいられた。
エルド、エルド、エル。
今行くから。
お前を、俺の傍に……
そう願い、手を伸ばす。
その手を彼が、エルドが取ってくれることを願いながら。
***
意識が浮上した時には、真っ白な世界にいた。
あれ、と思いながら視線を巡らせると、誰かの溜息が聞こえた。
「本当にバカだよな」
はっとして目を見開くシスト。
彼の傍にいたのは、溜息を吐き出したのは、ずっとずっと、会いたかった、傍に居たいと願った相手。
「エル……」
そう声をあげると同時、頬を強い力でひっぱたかれた。
痛みに顔を歪めると同時に、強い力で肩を掴まれた。
「いい加減にしろよっ、シスト!」
怒鳴られた。
エルドと喧嘩をしたことは何度もあったけれど、こんな剣幕で怒鳴られたことはなかった。
シストは大きく見開いた瞳を瞬かせる。
その理由は、怒鳴られたから、だけではない。
自分の肩を掴むエルドの手に強い力がこもっていたこと。
そして自分を見据える彼の瞳からぼろぼろと、涙がこぼれおちていたから……――
「エル、……俺……」
「俺は、そんなに負担か……」
そう問いかける声は、弱弱しい。
シストはゆっくりと、瞬きをする。
そんな彼の頬にも涙が伝い落ちた。
「ちが、う……違うよ、エル……」
「俺が、お前をそんなに苦しめちゃうなら……俺の事、忘れていいよ」
そういって微笑む、エルド。
シストはその言葉を聞いて大きく目を見開く。
え、どうして。
そう呟く彼を見つめて、エルドは言う。
「俺の事を忘れられなくて苦しみ続けるんなら……
俺の事忘れて、前に進んでほしい。
そうでないといつかシスが壊れてしまう気がするよ」
俺は、それが悲しいから、嫌だ。
エルドはそういって、静かに泣き出した。
それを聞いて、シストはアメジスト色の瞳を潤ませる。
ふるふると首を振る彼を見て、エルドは言った。
「だってお前、頷こうとしただろう?
あの堕天使の言うことを聞いて、代わりに俺を呼ぼうとしただろう?
……俺はそんなこと、望まない。
例えそれで呼ばれたって、俺はお前のところになんかいかないからな」
彼にそういわれて、シストは大きく目を見開く。
エルドは彼の様子を見て苦笑を漏らしつつ、言った。
「大体なぁ……俺は後悔してないんだって。
そりゃ、シストと一緒に居たかったなとは思うけどさ……
それでも、今お前が楽しく、幸せに生きてて、それで時々俺の事を思い出してくれるなら……俺は、それで良いんだよ」
だからさ。
そういいながら、エルドはそっと、シストの頬をなでた。
「……だいじょうぶだよシス。
俺は、お前の事を恨んでなんかいない。
ちゃんとお前の事、見守ってるから……――」
だから、そんなに苦しまないでくれ。
そういって微笑むエルド。
シストは彼の言葉に"エル……"と掠れた声で彼の名を呼ぶ。
「ごめ、ん……ごめん、エル……俺」
「謝るなら俺じゃなくて、今の相棒に言えよな……
多分、すごく心配してると思うからさ」
そういいながらエルドはそっと、シストを抱きしめた。
子どもを宥めるように、慈しむように……――
「俺は、ちゃんと見てる。
お前が頑張ってることもよくわかってる。
だから……無理をするな。
辛い時に辛いっていった時、突っぱねるほど冷たい仲間はいないだろ」
「うん……」
小さく頷くシストに触れる手は変わらず優しいが、少しずつその感覚が遠いものになっていく。
現実味の無いものになっていく。
もう別れなのだと。
そう理解するのと同時に意識が揺らぐ。
白い中に消えて、溶けるように……――
***
ふ、と目を開ける。
柔らかな朝日が顔を撫でていく。
ゆっくりとアメジストの瞳を瞬かせて体を起こす。
そこは見慣れた自室。
二つのベッドが、二つの机がある、二人部屋。
「エル……」
小さく、愛しい相棒の名を紡いだ、その刹那。
ガタン、と何かを落したような音が響いた。
驚いてそちらを見れば、手にしていたらしい救急箱を落とした様子の"現在の相棒"の姿があって。
「フィア……」
「っ、この……大馬鹿者!」
耳がキィンとするような声で、怒鳴られた。
普段静かな声で話すフィアの怒鳴り声というのはなかなかに破壊力が高く、シストは大きく目を見開く。
つかつかと、彼が歩み寄ってきた。
それと同時に、エルドにぶたれた方と逆の頬を強い力でひっぱたかれた。
痛みに悲鳴を上げるいとまもなく、やはり彼と同じように胸ぐらをつかんでくるフィア。
違う点はといえば、エルドは泣いていたのにフィアは泣いていない。
それどころか怒りに満ちた表情を浮かべて、シストのアメジスト色の瞳を見つめていた。
「……全く、お前は……救いようもない、大ばか者だ」
怒りの表情とは対照的に、やわらかな声で言われる。
それに驚いて、ゆっくりと瞬きをしていれば、彼は深々と溜息を吐き出した。
「……もう少し、俺を頼ってくれても良いのではないか。
そんなに、俺は頼りないか?」
そう問いかけてくるフィアは、寂しげだ。
その表情を見て、シストは自分が彼に与えた痛みを知る。
「……ごめん、フィア、俺……」
「確かに、俺はエルドさんにはなれないけど……それでも、お前の事をかけがえのない相棒だと思っている」
だから。
そこで一度言葉を切ったフィアはふい、とそっぽを向いてしまった。
一瞬、見えた彼の顔。
その頬に伝い落ちる、涙。
普段滅多に泣かない彼の、小さな一滴。
それをみて、シストは自分が彼に与えた悲しみを理解する。
「……ごめん、フィア」
「いや、いいんだ……もとはといえば、彼奴の所為だし」
そう呟く彼の瞳には再び強い怒り。
「そもそも彼奴がお前に揺さぶりをかけたのが原因だ。
引っかかるお前も大概ではあるがもとはといえば奴が悪い。
……あの後、奴はお前に魔術をかけた。
"あの子が帰ってきたいと願えば目を覚ますかもね"などといって。
……正直目を覚まさないのではないかと、心配していた」
どうやら、シストはフォルの魔術で眠ってしまっていたらしい。
おおよそ、"彼"との想い出から抜け出すことが出来れば、自分が現実に戻ることを決めれば目を覚ますような魔術でもかけて。
「本当に最悪の、性悪の悪魔だ」
吐き捨てるようにフィアは言う。
憎悪にも似た色をその美しい蒼の瞳に灯して。
自分のために、彼は怒ってくれているのだ。
それを理解すると……何だか、嬉しくて。
「……ありがとう」
微かな声で呟いた声に、不器用な堕天使は気づかぬふりをする。
しかしそんな彼の照れ隠しをよく理解して、シストは柔らかく、笑みをこぼしたのだった。
―― かけがえのない相棒(パートナー) ――
(かつては"彼"と、今は彼と。
そうして一緒に居られることはきっと、酷く幸福なことなのだろう)
(それに気が付くことが出来なかった俺はきっと愚か者で。
その幸福に気づかせてくれた彼は、きっと…――)