静かな時間が流れる、ディアロ城の医療棟。
その一室……統率官室にいるのは、長い緑髪の男性……ジェイド。
彼はいつもどおりに自分の机に向かい、書類の仕事をこなしていた。
カルテの整理。
研究資料の整頓。
部下たちから届く報告書のチェック……
こなさなければならない仕事は、たくさんある。
しかし幸い最近は大きな怪我をしたり病気にかかったりする騎士が少なく、
医療棟は比較的平和な時間が長く続いていた。
医療部隊が暇と言うのはありがたい話だ。
早々頻繁に怪我をされたり病気になられたりしては、
心配で心配で、どうしようもなくなってしまうから……
ジェイドがそんなことを思っていた時、軽くドアがノックされる音が聞こえた。
それを聞いて彼は顔をあげる。
誰かが報告書を持ってきたのだろうか。
そう思いつつ、再び書類にペンを走らせながら、応えた。
「はい、どうぞ」
ドアが開く音。
それに普通の騎士ならかける"失礼します"の声がない。
あれ?と思いつつ、彼は振り向いて……納得した顔をした。
「おや、ペル」
そこにいたのは、無口な少年。
彼はノックはしても無言で入ってくる子とがほとんどだから、慣れている。
ジェイドは彼に微笑みかけて、"どうかしたのですか?"と首をかしげる。
ペルは何も言わずにジェイドに歩み寄ると、ぎゅっと彼の白衣を掴んだ。
それにジェイドが驚く間に、言う。
「……来て」
「え?」
ジェイドは唐突な彼の発言、行動にジェイドは困惑した表情を浮かべる。
ペルはそんな彼の服をぐいぐいと引っ張った。
彼の翡翠の瞳を見上げながら、訴えるように言う。
「来て、一緒に、来て……」
来て、とだけ繰り返すペル。
そんな彼に、ジェイドは困惑気味に問うた。
「ちょっと、ペル……?どうしたのですか?」
ペルはぐいとジェイドの白衣を引っ張る。
何処か焦ったような表情。
否、動揺を灯した表情?
そしてペルはジェイドを見つめ、いった。
「来て、よ……シュタウフェンベルク、助けて……」
そういう彼。
ジェイドははっとしたように目を見開く。
助けて。
シュタウフェンベルクを助けて。
ペルのその言葉に、何となくだが状況は悟った。
「!何かあったのですか!?」
何か起きたのだ。
それは、確実だろう。
ジェイドはそう思って問いかける。
ペルはつまりつまりに、いった。
「水……水が……」
水が、と繰り返す彼。
ジェイドは首をかしげて、尋ねる。
「水?溺れたのですか?」
「ちがう……」
否定するペル。
何が起きたのか、ジェイドにはさっぱりだ。
とりあえず、事情を聞くのは諦めた。 現場にいった方が早いだろう。
そう思いつつ、ジェイドはペルに言う。
「……いいです、いきましょう」
何処ですか?とジェイドが問いかけると、"地下室"と答えた。
それに頷いて向かおうとするジェイドだったが、
ペルが部屋に戻るのを見て怪訝そうな顔をした。
「ペル?」
部屋に戻ったペルは仮眠用のベッドにかかっている毛布を両手で抱えた。
それを見てジェイドは翡翠の瞳を瞬かせる。
「毛布……いるのですね?僕が持ちますよ」
ジェイドはそういいながらペルの手から毛布を受けとる。
ペルはそれを渡すと、その場にぺたん、と座り込んでしまった。
「ペル?」
「足に、力……はいん、ない」
どうして、とペルは呟く。
必死に立ち上がろうとしているようだが、立ち上がれない。
それも、仕方ない話だ。
目の前で、大好きな人が溺れかけて。
それを助け出すところは見たものの、足元を流れていった水。
それで、昔のことを思い出してしまった。
此処まではどうにか来たものの、ジェイドに事情を説明できたと言う安心感。
それゆえに体から力が抜けてしまったらしい。
ジェイドはそれを見て困った顔をした。
彼の様子を見るに、シュタウフェンベルクはかなり心配な事態らしいのだが、
この状態のペルを放置していくこともできない。
暫し悩んだ末、彼は決断した。
「ペル、そこにいられますか?
アルに声をかけてから僕はシュタウフェンベルクのところに向かいます」
そうすればアルが処置してくれるはずですから。
ジェイドが言うと、ペルはこくりと頷いた。
「早く、いって、あげて……」
ペルの言葉にジェイドは小さく頷く。
そして彼に渡された毛布をもって、足場やに地下室に向かったのだった。
***
薄暗い地下室。
その床は何故か濡れている。
その真ん中に、件の人物はいた。
ヘフテンに抱き抱えられているシュタウフェンベルク。
彼の顔色は遠目に見ても青い。
ただ事でないその状況に彼も驚いて目を見開いた。
「!シュタウフェンベルク?!」
どうしたんですか、と声をかければ、ヘフテンがはっとしたように顔をあげた。
そしてほっとしたような、泣き出しそうな顔をする。
「ジェイドさん……」
ジェイドは彼らに歩み寄ると、シュタウフェンベルクの頬に触れた。
彼の頬は冷たく冷えきっている。
それを感じてジェイドは顔をしかめる。
「こんなに冷えきって……一体何が……?
いえ、これは今は良いにしましょう」
問いかけるのはやめにした。
今は、そんな話をしている余裕はないだろう。
シュタウフェンベルクの状態を見るに、芳しいとは言いがたい。
ジェイドはシュタウフェンベルクの体を毛布で包みながら抱き上げた。
ヘフテンが魔力で暖めていたようで体は少し温もっているが、
それでも彼の体温が常時にはあり得ないほど下がっていることはわかった。
左右で重さのバランスが違う彼の体をしっかり抱き上げてやる。
そうする間に、彼は周囲を見渡していた。
「……ペル、は?」
かすれた声で、彼はジェイドに問いかけた。
ジェイドはその言葉に瞬きをする。
「え……?」
「怖い、思いをした、だろうから……」
シュタウフェンベルクも、ペルが水が苦手なことは知っている。
それなのにあの状況を見れば、どうなるか……目に見えていた。
それに何より、ジェイドを呼びにいこうとしていた彼は何度も躓いていた。
それが、どうにも気になって……
暫しあっけにとられたように固まっていたジェイドだったが、
やがて少し呆れたような表情を浮かべて、いった。
「……バカですか貴方は。
今の貴方の状況考えなさい」
他人の心配をしている場合ですか、とジェイドは言う。
低体温と言うのはバカにできない。
それに、シュタウフェンベルクは炎属性魔術使い……
急激な体温低下は相当な負担だろう。
ジェイドは彼をしっかり抱いて、ヘフテンの方を見た。
「ヘフテンは後から私のところに来てください、状況を教えてほしいので……
ペルだと、埒が明かないみたいですから」
「わ、わかりました……」
ヘフテンも彼の言葉に頷く。
そして既にやや意識も虚ろな様子の彼を心配そうに見つめたのだった。
***
そうして、ジェイドはシュタウフェンベルクを病室のひとつに運んだ。
完全に低体温状態で、彼の体をきちんと暖めつつ、様子を見ることに徹する。
そうしている間に、ジェイドはヘフテンから事情を聞いた。
どうしてこんな状況になったのか。
どうしてペルがあんなにも怯えていたのか。
それを聞いたジェイドは顔を歪めた。
そして小さく呟くように言う。
「……そんなことが」
「えぇ……」
ヘフテンは小さく頷く。
ジェイドはぐっと拳を握った。
「全く……本当に……」
怒りのこもった声でジェイドはそう呟く。
フロムの仕業だと聞いて、彼の表情は一層険しくなっている。
彼もまた、フロムがシュタウフェンベルクにする仕打ちを知っている。
と、そのとき。
ドアが開いた。
ジェイドとヘフテンは同時に視線をそちらへ向ける。
「ん……ペル?」
部屋にやって来たのは、ペルだった。
どうやら、大分落ち着いたらしい。
大丈夫ですか、というジェイドの問いかけに彼はこくりと頷く。
「これ、持ってきた……」
ペルはそういいながら、大事そうに手に包み込んできたものを差し出した。
それを見てヘフテンは小さく呟く。
「あ、ミルクコーヒー……」
そう。
彼が持ってきたのは、マグカップに入ったミルクコーヒー。
いつも彼が飲んでいる、そしてシュタウフェンベルクに彼がたまに作っているもの。
「からだ、あったまる、から……」
だから、持ってきた。
ペルはそういう。
ジェイドはそんな彼を見てすまなそうに微笑む。
そして優しく彼の頭を撫でてやりながら、いった。
「ペル、今は駄目ですよ」
ペルの気持ちはわかる。
しかしシュタウフェンベルクはまだ眠っているし、
下手に利尿作用のあるものを飲ませるのもこの状態だと良くない。
今はとにかく体を暖めて、休ませることが必要なのだ。
ジェイドがそういうと、ペルは幾度かまばたきをした。
そして少し俯きつつ、小さく頷く。
「……そう」
じゃあ、返してくる。
そういって、ペルは歩いていく。
少ししょぼんとした様子。
それを見て、ジェイドは眉を下げた。
「ちょっと、可哀想でしたかね……」
追い返すような形になってしまったか、と彼は少し反省する。
「でも。今は駄目ですからね……」
ヘフテンはそういいながら眠るシュタウフェンベルクを見た。
大分顔色は戻ってきているが、それでもまだ体温は低い。
そんな彼の額を撫でつつ、ヘフテンはふっと息を吐き出したのだった。
***
ふわふわとした、意識。
そのなかにシュタウフェンベルクの意識は沈む。
体が、暖かい。
意識が途切れるその直前まで感じていた冷たさは、なくなっていた。
ふと、額に誰かが触れた。
近くで話している声がうっすら聞こえていたジェイドかヘフテンだと思ったのだが、
どうにも、触れたその手は二人のどちらの手とも違う気がする。
小さいのだ。
「ペル……?」
シュタウフェンベルクは小さく呼んで、眼を開けた。
傍にジェイドはいない様子。
ペルはシュタウフェンベルクの声には気づかずに、なにかをしている。
小さなベッドサイドのテーブルに何かおいている?
いったい、なんだろう。
そう思う間に、体力がつきる。
眼を閉じる彼。
その頬に、もう一度小さく、冷たい手が触れた。
「……――」
なにか、小さな声で彼がいっていた気がする。
しかしそれを聞き取るだけの気力がシュタウフェンベルクには残っていない。
もう一度、そっと手が触れる。
それを感じながら、シュタウフェンベルクは意識を手放した。
***
ふ、と意識が浮上した。
シュタウフェンベルクの瞳に映るのは、真っ白い天井。
彼は少し体を動かし、小さく呻く。
「ん……」
彼の声に気がついたのか、ひょいと覗き込んでくる緑髪の男性。
彼……ジェイドはほっとした顔をして、シュタウフェンベルクにいう。
「シュタウフェンベルク、目が覚めましたか?」
その言葉にシュタウフェンベルクは小さく頷く。
「あぁ……すまない、迷惑を……」
迷惑をかけたな。
そういいかけた唇に軽く指を当てられる。
そしてジェイドはふっと笑って、いった。
「迷惑ではありませんよ。気にしないでください」
遮られてしまってはどうにもならないのだけれど。
そう苦笑しつつ……シュタウフェンベルクは周囲を見渡した。
「……ペルは?」
そう、問いかける。
ジェイドはそれにきょとんとした顔をした。
「え?」
「傍に、いた気がするんだが……」
そう、傍にいた気がする。
そして、彼は優しく頬や額を撫でてくれて……
シュタウフェンベルクがそういうと、ペルは小さく首をかしげた。
そして呟くようにいう。
「気のせいでは?僕が来たときには……」
そういいかけたジェイドはある一点に眼を止めて、笑った。
そして、ふわりと微笑みつつ、いう。
「いえ、違ったみたいですね」
そういいながら、ジェイドはサイドテーブルを指差す。
それを見て、シュタウフェンベルクは眼を丸くした。
「これ……」
そこにおかれていたのは、マグカップだった。
いつもペルが使っているもの。
中身は空っぽだったが……
"夢"のなかで彼がおいていたのはこれかもしれない。
シュタウフェンベルクはそう思う。
ジェイドはそんな彼と、ペルが持ってきたらしいカップを見ながら、いう。
「貴方に、一度持ってきたんですよ。
でも、あの状況では飲ませられなかったので……」
ペルが淹れて持ってきたミルクコーヒー。
それを貴方にあげることはできませんでしたが、とジェイドはいう。
それを聞いてシュタウフェンベルクは胸が一杯になるのを感じた。
こうしてぽつりおいていかれたカップ。
それに、彼の思いがこもっているきがした。
シュタウフェンベルクはベッドに体を起こしつつ、ジェイドに問う。
「彼は、何処に……?」
「さぁ……?僕はずっと此処にいたので……」
そう答えると、シュタウフェンベルクはベッドから降りようとした。
それを見て、ジェイドは慌てたようにいう。
「あ、駄目ですよ。まだ大人しくしていないと……」
「しかし……」
シュタウフェンベルクはジェイドをじっと見つめる。
もう体は大丈夫だ。
寒さも消えたし、体も動く。
……ペルを、抱き締めてやりたかった。
怖い思いをさせてすまない、と。
心配をかけたな、と。
そして何より、ありがとう、と……
そんな彼の様子を見てジェイドはふっと息を吐き出した。
そして、肩を竦める。
「……やれやれ」
仕方ないですね、といった後、ジェイドは人差し指を立てた。
「走るのはなし。
十分たっても見つからなかったら諦めて帰ってくること。
彼を見つけたら速やかに病室に戻ること」
いいですね?と首をかしげるジェイド。
それを聞いて、シュタウフェンベルクは小さく頷いた。
「わかった」
いってくる。
シュタウフェンベルクはそういうと久しぶりに歩く足に力を込めつつ、
ペルを探しに、歩いていったのだった。
―― 小さなマグカップ ――
(はやく、げんきになって。
いっしょに、こーひー、のもうね)
(夢のなかで彼は、そういっていた。
久しく見ていない彼の姿を探しながら私はそれを思い出したのだった)