鈍色の空が広がる、夏の日の午後……――
鮮やかな赤髪の少年は一人で退屈そうにコーヒーカップのなかをかき混ぜていた。
飲めもしないコーヒー。
それをぐるぐると回すことはや数時間だ。
任務も午前中に終えて帰ってきてしまった。
恋人である金髪の少年は自分の統治領に帰ってしまっていて不在。
親しい友人もことごとく任務中で、彼……
アネットは完全に手持ちぶさたなのだった。
「ラインハルト、最近帰ってきてくれないなぁ……」
アネットはぽつりとそう呟いた。
頭に思い浮かべているのは、愛しい金髪の彼……ハイドリヒのこと。
彼は現在自分の統治領であるカペレに帰ってしまっている。
何やら仕事が忙しいらしく、ここ数日はイリュジアを離れていた。
いつでも一緒にいたアネットにとってかレの不在は大きい。
すぐ近くに愛しいひとがいないと言うのは寂しくて、切ない。
かといって仕事なのだからついていくことも出来ない。
そんな悶々とした気分のままに、彼はこうして此処で……食堂で、
ハイドリヒが戻ってきてくれるのを待っているのだった。
これで何日経つだろう。
二日か、三日か、それ以上か……――
そう思いつつアネットが小さく息を吐き出した時、
食堂のドアが開いて、なかに黒髪に金の瞳の少年が入ってきた。
その姿をみて、アネットはぱっと顔を輝かせる。
「お、ヴィル、久々ー!」
アネットは彼にはしゃいだように声をかけた。
やっと話し相手になってくれそうなひとが来た、といったところか。
黒髪の彼……カナリスはアネットの声に気がつくと、
やや驚いたように彼の方を向いた。
そしてふっと息を吐き出しつつ、いった。
「良かった、アネットさん此処にいたのですね」
そう呟くように言うカナリスに、アネットは困惑した顔をした。
どうやら、彼は自分を探していたらしい。
でも、いったいなんの為に?
心なしか、カナリスの顔は強張っているように見える。
何か恐ろしいことでも起きたのだろうか。
アネットはそう思いつつ少しだけ身構えつつ、彼にいった。
「……?どうしたんだよ、そんな深刻な顔して」
ちょっと怖いぞ、とわざとおどけていって見せたが、効果は皆無。
逆にカナリスの表情は強張ってしまった。
そんな彼をみて、カナリスは小さく溜め息を吐き出すと、
まっすぐにアネットを見つめながら、いった。
「アネットさんに、頼みたいことがあってきたんです」
彼の言葉にアネットは幾度もまばたきをした。
カナリスから彼に頼み事と言うこと自体が珍しい。
いったいどうしたことか、と言う顔をしつつ、アネットはいった。
「?頼みたいこと?」
「えぇ……ライニの、ことです」
カナリスの返答に、アネットは更に大きく目を見開いた。
聞いた名は、他でもない愛しい人の名前。
アネットは焦ったようにカナリスに訊ねた。
「!ラインハルトに何かあったのか!?」
カナリスからアネットへの相談。
不安そうな表情。
あげくそれは、アネットの恋人であるハイドリヒのことだと言う。
一体何が起きたのか。
彼は大丈夫なのか。
ハイドリヒは美しい容姿をしている。
それにこなしている仕事も仕事だ。
トラブルに巻き込まれると言うことも幾らでも考えられる。
アネットの頭のなかにそれがぐるぐる回っているのは、
きっとカナリスにもよくわかったのだろう。
心配そうな顔をしているアネットに首を振りながら、カナリスはいった。
「いいえ……彼がしていることを、止めてほしいんです」
彼の言葉にアネットは固まった。
ハイドリヒが何かされたのではないと言う。
彼が何かしたのだと。
「なに、してんの……」
アネットの声は落ち着いていた。
落ち着いたと言うよりは、毒気を抜かれたとか、そういう感じだ。
カナリスはそんな彼をみて小さく息を吐く。
そして、自分が此処に来た理由を話した。
***
カナリスの話を聞いてすぐ、アネットは馬にのってハイドリヒのところに向かった。
空間移動術が使えれば話は早いのだけれど、それができない。
それをもどかしく思いつつ、アネットは馬を駆ける。
カナリスに聞いた話。
それがぐるぐると頭のなかに回る。
ハイドリヒがしていること。
それは、ある主の"政策"で。
区域内にいる人間の選別。
"生きるに値しない命"の選別。
それらを"退去"させると言う。
そんな人々を集める場所に、移動させると言う。
体が虚弱な者。
身体に障害がある者。
精神的障害がある者。
その他にも、社会の妨げになる者……
それらを"排除"していると言う。
カナリスもそれが問題だと思った。
止めたいと思ったけれど……
自分では無理だとそう思って、アネットを呼びに来たのだと言う。
正義のためと彼らは謳う。
けれど……
それは、果たして本当に正義のためか。
そしてそれを指示しているのが他でもないハイドリヒだと言うのだから、
アネットだって静かにしている訳にはいかなかった。
「ラインハルト……!」
ハイドリヒは小さな声で呟くように彼の名を呼ぶ。
手綱を握りしめる手に力が籠った。
***
それから、しばらくして……
「ラインハルト!」
アネットは、ハイドリヒのいるカペレ城にたどり着いていた。
不意に聞こえたその声に、ハイドリヒは驚いた顔をした。
どうしてこんなところまで入り込んでいるのか、とハイドリヒは驚いたのだろう。
けれど、城のセキュリティも掻い潜れるほど、アネットはハイドリヒを思っていた。
そんな彼の気質のことを、ハイドリヒもよくわかっている。
「何やってんだよ、ラインハルト……!」
アネットはそう問いかける。
その問いかけの意味をハイドリヒも理解したのだろう。
何処から聞いたのかわかりませんが、と前置いた後、彼はいった。
「するべきことをしているだけですよ。
秩序の維持、ですよ。
社会の秩序を守るために、それを乱しかねない方々に退去指示を出しているだけです」
ハイドリヒはそういう。
しれっとしたその言葉に、アネットは顔をしかめる。
そして叫ぶようにいった。
「お前らの言う"退去"は殺すと同義だろ!」
そうした社会的弱者を移動させると言う。
引っ越させるといったとしたら聞こえはいいが、
結果的にそういう人々がどうなっているのかも、アネットはカナリスに聞いている。
殺されているのだ。
まるで、野良犬や野良猫がガス室に放り込まれて殺されるように。
安楽死と言えば聞こえはいい。
しかし、少しも楽な死ではない
その事はアネットもよく知っている。
ハイドリヒはそんな彼の言葉に小さく息を吐き出す。
そして静かな声でいった。
「否定はしませんよ。事実ですし」
「何でそんなことするんだよ!殺すことねぇだろ!」
怒りを込めたアネットの声。
それを聞いて、ハイドリヒは青い瞳を細める。
そして、冷ややかな声でいった。
「社会の足手まといでしかない穀潰しに生きる価値があるとでも?」
働くこともできない。
普通に生きていても周囲の人間に負担をかける。
そういう人間なのだから仕方がない。
ハイドリヒはそういう。
アネットは彼の言葉に一瞬固まった。
その後、ぐっと唇を噛み締めた後、叫ぶようにいった。
「ふざけんな!体に欠陥があったら生きてる価値さえないってのかよ!?」
アネットがそうもむきになるのには、理由がある。
彼の妹もまた、視力を失った人間。
ハイドリヒがしていることを許容するとしたら、それは彼女の人権を否定することになる。
そんなこと、恋人にしてほしくなくて……
アネットはこうして、必死に彼に訴えているのだった。
「事実でしょう?働くことも出来ないのなら、社会貢献能力は皆無なのですから」
あっさりとそう返すハイドリヒ。
アネットは固く拳を握りしめながら、震えるような声でいった。
「社会に貢献できなきゃ生きてる意味もねぇの……?
そんなのあんまりだろっ!」
アネットはハイドリヒを見つめながらそういう。
その表情は悲痛だ。
ハイドリヒはそれをじっと見つめた後、呟くようにいった。
「それが世の為社会の為です……統治するというのはそういうことなのですよ」
そのためだ、と彼は言う。
上手く治める為には必要な処置だ、と。
アネットは彼の言葉にぐっと唇を噛んだ。
そしてそのままうつむく。
「……それが統治だってんなら、俺はそんなとこ住んでたくない……
そんなことで守られる秩序なんか要らない!」
子供っぽい叫びであったかもしれない。
でも彼の言葉も決して軽んじられるものでないことも、ハイドリヒはわかっている。
でもそれを認めることは出来ないから、彼は黙ったままでいた。
アネットはそんな彼を見つめて、顔を歪める。
そして、ぎゅうっと彼を抱き締めながら、掠れた声でいった。
「今のラインハルトが考えてること、全然分かんないよ……」
どうしてそんなことするんだよ、と呟くように言う彼。
その声は、涙が滲んでいるようだった。
ハイドリヒはそんな彼の腕から無理矢理逃げようとすることもなく、
黙ったまま、静かに目を閉じていたのだった。
―― Justice ――
(それが社会の為だと彼は言う
でもそれを受け入れることは、認めることはできないよ)
(わかっている。彼の言わんとしていることも。
でも致し方ないこともあるのだと、彼に伝えるしかなくて)