―― 体が熱い。けれど、寒い……
そんな奇妙な感覚の中で、金髪の青年はうっすらと目を開けた。
差し込んできた光が眩しくて、小さく息を飲む。
その光を遮るように、長い銀髪の青年が顔を覗かせた。
彼はそっとリエンツィの前髪を払いつつ、訊ねる。
「大丈夫か、リエンツィ」
「クオン、さん……?」
出した声が酷く掠れたものであることに、リエンツィ本人が驚いた。
声と言うにはお粗末な、聞き取りづらい息のような、音。
一体どうしたんだ?と考えようとするも……
体が怠くて思考が追い付かない。
そんな彼をみて、銀髪の彼……
クオンは小さく苦笑した。
「状況のみ込めてない、って顔だな……
風邪引いてるんだよ、お前」
その言葉にリエンツィは幾度かまばたきをした。
風邪?
……あぁ、そういえば。
少し体が怠いな、と昨日の夜から思っていたっけ。
でも、ただでさえ多忙なクオンに負担をかけたくない。
そう思って、自分の体を騙し騙し眠りについたんだった、と。
リエンツィは漸く自分がおかれている状況を思い出した。
そして、ふと思う。
けれど、だとしたら……
「なんで……」
なんでわかったのですか、と訊ねようとした声は咳に消えた。
自分は体調が悪いことをクオンにいっていなかった。
思い出す限り、彼は気づいているそぶりを見せなかった。
なのに、何故今彼は……?
クオンは顔をしかめて"あんまり喋るなよ"という。
そして、リエンツィの思考を汲み取って、答えた。
「朝起きたらお前の様子がおかしいなって思ってさ。
やたら呼吸速いし咳してるし……
で、体さわったら熱いし、そういうことしても目覚まさないし、
こりゃ駄目だと思って医者読んだ。
それでも目ぇ覚まさないから……ちょっと心配になり始めてたところだ」
クオンの返答にリエンツィは小さく"すみません"と謝った。
確かに、起きなければと思っても気だるくて睡魔に負けていた。
これは風邪のせいだったのか、と今さらのように納得する。
体に触れられても医者に診察されても目を覚まさないレベルとなると、
相当体はダメージを受けているらしい。
そう思い知らされると、なんだかいっそう体調が悪く感じられた。
クオンは謝るリエンツィの額を撫でて、微笑んだ。
「まぁ、気にすんな。
ただでさえ慣れない環境なのに此処まで元気だったのが不思議なくらいだよ。
ゆっくり休んで、早く治せよ」
そういうとクオンは一度リエンツィの額を撫でてから、
机に向かって、書類を片付け始めた。
密偵部隊という表に出ない部隊の騎士のクオンだが、
こういった仕事は多いのだといって苦笑していた。
リエンツィも手伝える限りは手伝っていたが、
やはり、"異世界"の人間であるリエンツィに出来ることは限られている。
ついでにいうなら、今の体調では手伝うどころではない。
今の自分にできるのは、早く風邪を治すことくらいだ。
そんなことを考えているうちに、まぶたが落ちてくる。
寝ようと思わずとも、体が休息を欲している。
その事態に苦笑しつつ、リエンツィは目を閉じた。
***
―― 夢を、見た。
明々と燃える炎。
それから逃げ惑う、夢を。
起きた暴動。
扇動された市民たちが襲い来る。
怒声、罵声、悲鳴。
そんな恐慌状態。
思い返したくもない"あのとき"の光景。
あのときは逃げることなどできなかったけれど、
逃げることが出来ても、恐怖は変わらなかった。
寧ろ。
結末を知っているからこそ、恐怖だった。
助けて、助けて。
誰か、助けて。
必死にあげた悲鳴も、助けを求める声も、周囲の雑音(ノイズ)にかき消される。
炎がリエンツィの腕を舐める。
無数の腕が、リエンツィを捕らえた。
もう逃がさない。
この、殺人者が。
そんな声のなか、耐えがたい絶望を感じた……
***
―― 目を、開けた。
幸か不幸か、喉が痛くて悲鳴をあげられなかった。
夢だとわかっていたけれど、恐怖は消えていなかった。
呼吸は速くて、息が苦しい。
リエンツィは布団のなかで体を丸めた。
恐怖と息苦しさに耐えるために。
「リエンツィ?」
聞こえた声と、肩に触れた優しい手。
びくり、とリエンツィの肩が跳ねた。
「どうした、魘されてんのか?」
覗きこんできた銀の瞳は心配そうな光を灯している。
リエンツィは答えずに、それを見つめ返した。
それが答えと思ったか、クオンは優しくリエンツィの額を撫でる。
額に滲む汗は、決して発熱のためだけで出たそれではないだろう。
「すげぇ汗だな……あとで着替えた方がいいかな」
クオンはそういって、ベッドに沈んだままのリエンツィの額を濡れたタオルでぬぐう。
冷たいそれに一瞬声が漏れたが、発熱した体に冷たいタオルは心地よい。
献身的な彼の看病に心が締め付けられる。
切ない気分になった。
それは、体調が優れないせいだろうか……?
リエンツィは熱に浮かされた思考のままに、口を開いた。
「……クオン、さん」
「ん?どうした?」
呼び掛けられたと認識するにも小さすぎる声だったはずだが、
クオンはリエンツィの方をみる。
優しい銀の瞳に見据えられて、リエンツィは目を伏せた。
「貴方は……」
―― 本当に、ずっと傍にいてくれるのですか。
リエンツィは掠れた声で、呟くようにそういった。
もしこれがクオンに聞こえないならばそれでも構わない、と思いながら。
ずっと、聞けずにいた。
アドリアーノが自分の"正体"を明かしたあのときから、ずっと。
本当に自分は貴方の傍にいて良いのか、と不安で。
貴方は本気で私を見捨てず傍にいてくれるのか、と不安で。
クオンは守る、と宣言してくれた。
その言葉通り、守ってもくれた。
―― けれど、どうしても不安になる。
あのときは泣いている自分を放っておけなくてああしただけではないか。
本当に助けてほしいときに見捨てられはしないか、と。
どうしても、そう思ってしまう。
もう、"絶対"を無邪気に信じることは出来なかった。
一度"裏切り"にあっているから。
殊更、からだがうまく動かない風邪引きというこの状況、
あげく、先程あんな夢を見てしまったから……
不安で、怖くて……
ともすれば、泣き出してしまいそうだった。
けれど泣けば心配をかけるからとリエンツィは涙をこらえる。
クオンはそんなリエンツィを暫し見つめていたが、
やがて小さく息を吐き出して、リエンツィの体をきつく抱き締めた。
唐突なクオンの行動に、リエンツィの緑の瞳が見開かれる。
「っクオ、ンさ……」
「馬鹿なこと考えて泣きそうな顔する暇あるなら、さっさと寝て風邪治せよ」
いつもよりいくぶん低い声。
怒っているのかと思ったけれど……
そうではなさそうだ。
クオンは少しだけ腕を緩めて、いった。
「あのな、俺が言い出したんだぞ。お前を守りたいって。
守護の任務ならば雪狼の騎士の方がずっと上手い。
お前自身に興味がなかったら、俺はとっくに奴等に仕事を任せてる。
……それをしないのは、俺がお前に惚れてるからだって、
ちゃんと言わなきゃわかんないか?」
率直な言葉。
普段、はっきりと物事を言わない癖があるらしいクオンにしては、珍しい。
リエンツィはただでさえ熱で熱い頬をさらに赤くした。
クオンはそんな彼の綺麗な金髪をすきながら、いった。
「それとも、不満か。俺じゃ」
クオンがそういうと、リエンツィは即座に首を振った。
不満なんてことはない。
守ってくれるのは、嬉しい。
こうして自分を抱き締めてくれる体は暖かく、優しい。
それにすがることを、躊躇うほどに……――
クオンはリエンツィの反応を見ると、
満足そうに笑って、彼の唇を塞ぐ。
「ん、……ん、ぅ」
リエンツィは最初もがいた。
自分は風邪を引いている身。
キスなどしたらうつしてしまうではないかと。
けれど、クオンは彼を離そうとしない。
寧ろ一層深く口付けられて、逃げられなくなる。
リエンツィの瞳から涙が溢れて、ようやくクオンはリエンツィを解放した。
そして"馬鹿なことを言い出した罰だ"といった。
「は、ぁ……クオ、さ……風邪……っ」
「風邪移すなら移してくれて構わねぇよ。
……お前が背負ってるもんがどれだけかはわからねぇけど、
俺もちゃんと、一緒にもってやるから」
―― ちゃんと傍にいる。約束だ。
クオンのその言葉はすとんと胸に落ちてきた。
リエンツィは"わかったか?"と訊ねるクオンにうなずく。
クオンは彼の反応をみて微笑むと、リエンツィの体をベッドに倒した。
そのまま優しく額や頬を撫でる。
「あとは、寝とけ。少ししたら起こす。薬飲まなきゃな」
"苦いけど我慢しろよ"というクオンの声はすでに遠い。
けれど、先程まで抱いていた不安や悲しみは消えていた。
おやすみ、とささやく声と同時に落ちてきた柔らかな口づけを感受して、
リエンツィは静かに目を閉じる。
―― 今は……すがらせて、ください。
熱で揺れる思考のなか、リエンツィはそう願う。
クオンの言葉を信じたい。
支えるという彼の言葉を。
守りたいという彼の言葉を。
……好きだという、彼の思いを。
そんなことを考えていればまぶたが重くなってきて……
リエンツィは、クオンの優しい掌を感じながら眠りについた。
―― 不安と、思いと、優しい手のひら ――
(裏切られることへの恐怖。それをぬぐうような優しい手のひら)
(お前を守りたいという思いはちゃんと俺の胸の中にある。
ちゃんと守るから…今は安心して、ただ眠って元気になってくれな?)