何か変わるのかな、と思っていたけど
あなたと顔を合わせた瞬間、なんてことない「おはようございます」が、するりと口から出て
ああ、一緒にいることを茶化されて、気まずくなったあの頃とは違うんだな。
そんなことを、思った。

「次いつにする?」
「今週末空いてる?」
「暇な日教えて」
どれも全部、違う気がして、
こころの想い、募るばかり。
どうしてあの時、身体を重ねてしまったのだろう。
あの熱を知らなければ、こんなに悩むこともなかったかもしれなくて
でも、好きな気持ちに溺れていたかったのも間違いなくて。

気軽に甘えることができない関係。
それを選んだのはわたしだけど
初めての距離に、ため息ひとつ。
次はどうすればいいのだろう。
一体なにをすればいいのだろう。
そんなことを考えながら、職員室から出ようとした、その時だった。
閉めようとした扉が閉まらなくて、ハッとする。
後ろに、不死川先生が立っていた。

***

「おはようございます」
あんなことがあった次の週の月曜日。
普通に、マジで普通に挨拶されたから。
どんな顔して会えばいいんだとその瞬間まで悩んでいたのに、何事もなかったかのように振る舞われたから、あれはもしかして夢だったのか?と、一瞬錯覚してしまった。

確かに酔った勢いであんなことしちまったってのはある、けど、酔いが醒めて冷静になって、物凄く後悔した。いや、後悔するならやるなって話なんだが、好きだった女に誘われて理性を保てるやつがいるなら会ってみてぇよ。無理だろ、あの状況で。
ただ、後悔したところでやり直せる訳もなく、恋愛より家族が大事なことには変わりない。だからお付き合いは出来ないとして、俺とアイツ、ホントになんとかフレンドになったのか?付き合いましょうそうしましょうというやり取りがない分、この関係に戸惑っていた。仮にそうだとして、次どうやって誘えばいいんだよ。よしやるぞホテル行くぞ、って、あけすけに誘えばいいのか?それはそれでなんか違う気もして、だからと言って家来いよ、も違う気がする。
どうすりゃいいんだよ。頭を抱えた瞬間に時計が目に入った。次の授業が俺を待ってる。
教科書とチョークの箱を手に取り、職員室の出口に向かうと、アイツが先に職員室から出ようとしていた。扉が閉まらないように後ろから押さえると、驚いた顔で俺を見上げてきた。

瞬間、香る柔らかな匂い。

香水か柔軟剤かシャンプーの匂いか分からないけれど、それに俺の心臓が大きく反応する。
触れたい。反射的に思った。
香りの正体を確かめたくて顔を近付けると、女がばっと勢いよく離れた。

***

「す、すみません。邪魔でしたよね。失礼しました」
早足でこの場を去る。
後ろから彼が声をかけてきたような気がしたけど、無視して足を進めた。
だって。
キスされるかと思ったんだもの。
あんな目でわたしを見つめ返してくる、なんて思わなかったから。

廊下の角を曲がって、一息つく。
落ち着こうと呼吸を整えていると、頭が冴えてきた。
ここは学校だし、わたし達は教師だし、そんなことされるわけない。
彼だって、それくらい分かってるはず。なのに、なんであんなことをしてきたのだろう。
分からなくて、心がざわめいた。
不意に顔が近付いてきたのを思い出して、鼓動が早まる。
同時に夜を過ごした彼の姿が脳裏に蘇って、また思考が乱れてきた。
ダメだ、ちゃんとしなきゃ。これから授業なのに。
軽く頬を叩くと、ポケットに入れていたケータイから音が鳴った。マナーモードにするのを忘れたとポケットから取り出す。
先程の通知音は、彼からの連絡を知らせるものだった。

「えっ」

偶然再会した日に交換し合ったお互いの連絡先。無事に追加されたことを確認する「よろしくお願いします」と書かれたスタンプのやり取りだけで
それ以降、なにもなかったトーク画面。
まさかこのタイミングで、でも、なんで?
アイコンをタップすると、画面が切り替わって
画面に映し出された、一言。

「今日の夜、何もないなら飯でも行かねえか?」

***

その誘い文句の裏には秘密があった。その気かどうか、一か八か、伸るか反るか。
相手の出方を試すようだったが、直接誘って断られるのもなんとなく嫌で。だから遠回しに提案してみた。さて、どうなるか。
授業が始まる鐘の音が響く。授業始めんぞと教室に入った瞬間、ケータイが震えた。日直の号令の隙間に急いで確認する。
アイツとのトーク画面に「OK」のスタンプが追加されていた。

---

「急に飯でも行こうなんて言うからビックリしちゃった」

仕事帰り、繁華街の中心部で待ち合わせた俺達。さすがに平日の夜だから、どこの居酒屋も割と空いていて。適当に入った焼き鳥屋で、各々好きな商品を頼んでいた。

「家に帰って飯作るのが面倒だっただけだァ」

「えっ。実弥ちゃん、一人暮らしなの?」

食べかけの串を握りしめながら、目をぱちくりさせる。そういや話してなかったっけか。あの夜、たくさんの言葉を交わしたはずなのに、自分達の近況はあまり話さなかったことを思い出して、端的に「大学時代から一人暮らしをしてる」と伝えた。

「いいな一人暮らし。わたしも一人暮らししたい」

「すればいいだろ、ガキじゃねぇんだから」

「うーん。悪くないしね、実家。家賃とかかからないし」

実弥ちゃんの家ってどんなかんじなの?そう聞かれたので、普通の家だと答えたら、行ってみたいと予想外の言葉が返ってきた。それはそれで構わねぇんだけど。拒否する理由は、ひとつしかない。

「……来てもいいけどよォ、明日どうすんだよ、お前」

コイツが今どこに住んでるのか分からないが、この時間帯だと俺ん家に行って色々やったとして、帰る頃には終電がなくなっているに違いない。そうすると泊まりになるのは必然で、泊まりとなると諸々準備が足りないような気がする。それに明日も仕事だし、流石に連続で同じ服はまずいだろ。それとも、この時間から明日の服を買いに行くか?現実的じゃない考えは却下だ。

「まあ、そうだよね……」

酒が入ったコップの縁をゆるゆると撫で回しながら、女がひとつため息をする。

「なァ、お前終電何時だよ」

「ん?日付変わるまでは出てる」

時計を見る。ラブホ街までちょっと移動して、休憩3時間で入って駅まで戻ってギリギリか。明日も仕事であまり無理をさせたくないから、今日はこれでお開きかもしれない。
残ってる串をぽいぽい口の中に入れていると、女が俺の服を引っ張ってくる。何事かと思い目線を向けると、なにか言いたそうに目を伏せる女がそこにいた。

そこで気が付いた。もしかして、もしかしなくても、コイツにも下心があるってことだよな?今日、そういうことになるかもしれないって思って俺の誘いに「OK」したとして、この雰囲気は合意とみていいだろ、これ。
これで「そんな気はなかった」なんて寸止めされたら、無意識に男を振り回すのをやめろと説教してやる。

残っていたビールを一気に飲み干して、会計の札を握りしめる。時間がねぇ。行くぞ。女の目は、疑問に満ち溢れていた。

「どこに?」

「決まってんだろ」

「え?あ、ちょ、ちょっと待ってよ!?」

判断早すぎじゃない?
その一言に、そうかもな。と、心の中で独りごちた。

***

帰り道、全然休憩出来なかったねと笑うと、しゅんとした顔で謝られた。

「……悪かったァ」

なんだか叱られた子犬みたい。
悪いことしてないから謝ることないんじゃない?そう言うと、隣を歩いていた実弥ちゃんの足が止まった。

「いや、なんか……我慢できなかった、っていうか」

「我慢」

「ホントはもっと優しくしてやりたかったんだけどよォ、なんつーか、その……」

頭をがしがしと掻きむしる実弥ちゃん。言葉の続きを待たずに、背中に回って無理矢理押し出した。
縺れた足を懸命に動かす実弥ちゃんが、首だけ振り返る。

「おい!何すんだっ」

優しくなんて、しなくてもいい。
我慢なんて、しなくていい。
喉まで出かけた言葉を飲み込んだ。
だって、流されたわたしも共犯者だ。
それを望んだのもわたしで、求めたのもわたしなんだから。
あなたが思うままに、抱いてくれればいい。
そうしていつか、わたしを捨ててくれればいい。
言えない想いをこころの奥に封印する。

「ホント、全然休めなかったんだから。今度家に連れてってよね」


エフォートレスに重ねて


それから数日後、彼の家にお呼ばれすることになるのだけど
その話は、また今度。