予定が入っていない夜が気に入らない、なんてわけじゃないけれど
授業と授業の隙間に送った「今夜飲まねえ?」素っ気ない一文が
なんだかかまってちゃんみたいに見えて、職員室でこっそりため息ひとつ。

いやいや待て待て、今更遠慮する仲でもねぇだろうし
でもでもだって、飲みたい気分になったからしょーがねぇし
言い訳なんて泉の如く

「新しい古文の先生、かわいいよな」

なんて噂がちらほらり。
聞こえる中で、優越感。
抜け駆けつーか俺が適役

だってふたりは同級生、だったんだから。

当たり前だけど返事が来ることなくて
(そりゃそーだ、授業中だし)
気もそぞろのまま、鳴り出す授業終了のチャイム。
ここから怒涛の連続授業、しかも学年違いときたもんだ。

「うしっ」

気合いを入れて、立ち上がった。

***

社会人になって驚いたことは、びっくりするほど友達との予定が合わないことだった。
アフターファイブなんて夢の夢、採点補習に部活の見守り保護者対応生徒指導にあれやこれ。
やること多くて毎日目が回ってる。物理的に。
だから、同業者、というか
同じ穴の狢というか
賛同してくれる人がいるのって
実はものすごくありがたいのではないだろうか。
だから、休み時間にケータイを開いて

「今夜飲まねえ?」

って、同僚から連絡が来ている時
なんだか少し、嬉しかったりする。

***

授業後、数名の生徒に呼ばれているのを「今行くからちょっと待てェ」なんて言いながら急いでケータイを見てメッセージを開く。
あいつから「OK」のスタンプが送られてきてて一安心。
採点補習に部活の見守り保護者対応生徒指導あれやこれを先にこなしてきた俺は
待ち合わせ場所の居酒屋で先に、ビール二杯と酒の肴各種をやっつけていた。

いらっしゃいませー、と店員が声出しする度に入口を確認する。
一人じゃどうも落ち着かない。
ただまあこの状況は仕方ない。
どうやらあいつが担当している女バスが大会前で張り切ってるらしい、というのをあらかじめ聞いていたからだ。
弾ける苦さをぐいっと飲みきって、もう一杯頼もうか迷っていると
ふわりと香る風と気配を感じた。

「ごめーん!遅くなっちゃった。待った?」

なんとも絶妙なタイミング。
俺は疑問詞に答えず、ビールでいいだろォ?と、空のジョッキを掲げた。

***

ああ美しい青い春。
体育館の真ん中で、険しい顔しながらのミーティング。
三年生が一年生に喝を入れるこの光景、いつの時代もあるもんだなあ、なんて一人でしみじみ。

「じゃあ最後、先生達から一言お願いします」

お願いします!
揃った声がわたしに向けられる。
三年生の目は、今にもわたしに噛みつかんとギラギラしている。
そんな最上級生を宥め賺すように、丁寧な言葉を紡いでいく。
うんうん分かるよ。ウザいよね、上から目線の綺麗事って。
だけどもそうじゃないとやってけないのよ。
先輩風、吹かしてます。

お疲れ様でした!
体育館中に響き渡り、各自が自分の仕事を全うすべく動いていく。
わたしはというと、今日の仕事は全て終えた……はず、なので、
あとは部活が無事に終わるのを見届けるだけ。

ちらり。
壁にかかってる時計を見る。
19時ちょっと前、気分はシンデレラさながら。
もう飲んでるかな、終わったよって連絡しなきゃ、こっから待ち合わせ場所までどれくらいだろ
なんて考えをめぐらせていると、もう一人の女子バスケ部の顧問を担当している冨岡先生が、わたしの隣に立った。

「……この後、用事でもあるんですか」

ずばりと言い当てられ、息が詰まる。
もしかして、もしかして、

「え、ご、ご存知でしたか?」

わたしの問いに、冨岡先生は「いや」と短く否定し、それから

「時計を気にされていたので、なんとなく」

と、表情を変えずにわたしに言った。
なんだ、冨岡先生と不死川先生って仲がいいから
てっきり不死川先生が気を利かして、冨岡先生に伝えてたのかと思った。

「す、すみません」

部活に集中してないなこのアマ、とか思われてるのだろうか。
冨岡先生は前をじっと見つめたまま、動かない。
謝罪の言葉を重ねようと息を吸った、その時だった。

「俺が残るので、先に上がって下さい」

「えっ」

まさか、そんなこと言われるだなんて思ってもいなかった、から。
予想外の申し出に、慌てて首を振る。

「いやいや!そんな、悪いです」

「いえ。その代わり、今度最後まで残ってくれると有難いです」

付き添いは一人で大丈夫そうですし。
冨岡先生は表情を変えずに、ひたすら真っ直ぐ見つめている。
表情筋、ないのかな?この人。

「いや、あの、でも……」

「待たせてる相手に悪いでしょう」

あーっ、トミセン口説いてるー!
隣のコートでモップがけをしていた男子バレー部の子が、きゃあきゃあとはやし立ててきた。
冨岡先生はすかさず笛を口に咥え、ぴりりと激しく鳴らす。

「ごちゃごちゃ言ってないで、早く片付けろ」

浮ついてる男子諸君を一蹴する。
チラリと冨岡先生の顔を覗き込むけれど、その目は生徒達に向けられていた。

あまり断るのも失礼だろうか。
わたしは90度でお辞儀をして、冨岡先生今度残りますお気遣いありがとうございますすみませんお先に失礼します、と早口でまくし立てた。
冨岡先生は返事をせず、代わりに片手を軽く掲げた。

***

「ってことがあったの」

これまでのあらすじ、を隣に座った女──同じ学校に勤める、同僚だ──から聞かされて
俺の口からは大きなため息と、小さな舌打ちが出た。

「あの野郎、スカしやがって」

冨岡は教育大からの知り合いだった。
お互い無事に卒業し、なんやかんやで同じ学校に配属されることになったのだが
何考えてるか分かんねぇあの表情が、俺は大嫌いだった。

「えーっ、そうかなぁ?」

芋焼酎のお湯割りと
湯気立つおでんの牛すじを交互に味わいながら話す女の横顔をじっと見つめる。
最近分かったことだが、こいつは酒が強い方だ。
なので、可愛らしいカクテルが置いてあるような店じゃなくても喜んでくれる。
こんな野郎しかいないような居酒屋でも、酒が飲めればとりあえずオーケーなのだ。
店選びに気を遣わなくていいのも楽だった。

「あ?なんだお前、まさか冨岡の野郎がタイプとか言うんじゃねぇよなァ」

俺の一言に「それはない」と首を振り、すかさず「そうかも」と頷く。
はぁ?
不満そうに漏れた声が、居酒屋特有の喧騒に溶けて消えた。

「冨岡先生って顔整っててカッコイイよね!あーいう整った顔立ちの人見たことないから、カッコイイなって思うっ」

「お前、趣味悪すぎ」

「あれで趣味悪くなっちゃうの?」

「そーいやお前と中学ん時にウワサになってた男に似てるかもな、冨岡」

ぐふ。
隣からなんとも情けない音が聞こえた。
喉に詰まったのだろうか、手元の酒をぐいっと一気飲みするのを見てぎょっとする。
それ水じゃねえぞ。水成分はたっぷり入ってるかもしれないけど。

「おいおいなにやってんだ、水じゃねぇぞそれ」

片手を上げて店員を呼び、水と、ついでに自分の飲み物を注文する。
店員がオーダーを取りこの場から離れたと同じくらいのタイミングで
隣の女からギロリと睨まれた。

「ぜんっぜん!似ても似つかない!ってかそれ冨岡先生に失礼でしょ」

「そうかァ?アイツ、名前なんつったっけ、冨岡?」

「……」

何かを誤魔化すように口に物を詰め込み出すから、俺の中にある意地悪な面がむくむくと姿を現す。
そっぽ向いてる顔を覗き込んで、ケラケラ笑った。

「なに思い出して顔赤くしてんだよ」

してない、ばか、ありえない
首をぶんぶんと振り、言葉を続ける。

「冨岡先生じゃないし前澤君だし、ってか前澤君は憧れの存在っていうか高嶺の花っていうか」

「高嶺の花ァ?」

俺の記憶だとアイツは高嶺の花っつーより食える雑草なんだがな。
所謂「思い出補正」がかかってるのかなんなのか、
どうやら俺が思い描いてる前澤と、こいつが思い描いてる前澤はイコールにならないらしい。

「前澤君、今何してるのかなー」

空になったグラスの縁をゆるゆると撫でながら独りごちる。
遠い目をしながら思いを馳せるその姿、なんだか面白くない。
モヤモヤが漏れ出ないように目の前にある厚焼き玉子を口に運んで、適当に発言した。

「さぁな、宇宙にでも行ってんじゃね」

「あーっ!思い出しちゃった!昔は昔で今は今!振り返っちゃダメだっ」

「昔の知識を教えてるやつが言う台詞じゃねぇんだよなァ」

店員さんが水と、日本酒を運んでくる。
すいません芋お湯割り、と間髪入れずに注文した女を見て
まだ大丈夫だな、そんなことを考える。
夜はこれからだ。

***

珍しく千鳥足の同僚。
シャッターが閉まっている商店街を歩いて帰る。
わたしの帰り道はこっちではないのだけど、飲んだ夜はこの人の家に帰るのがお決まりのパターンになっていた。

「ちょっと実弥ちゃん!真っ直ぐ歩いてよ」

ぐらぐらと覚束無い足元。
不意にがばりとのしかかって来たので、変な声が出た。
学校から距離がある場所で、こんな時間帯に、知り合いがいるはずもないけれど
知ってる誰かに見られてないかとヒヤヒヤする。

ってか、普通。
立場が逆なのでは?
そーいう時って女の子の方が酔っちゃったー、って男の子に甘えるのがテンプレなのではなかろうか。
道端ではギターで弾き語りしてる人がいるし
八百屋のシャッターにはパンクな絵が描かれてるし
もう訳が分からない。

「あー、飲んだァ」

満足そうな声。
ぐらぐら揺さぶるから、わたしの視界も気持ち悪く歪む。

「ちょっとマジ、身体揺するのやめて」

「おい、もう一軒行くぞォ」

「行かない。帰ります」

いつもならこんな酔い方しないのに。
そう言えば後半のペース、いつもより早かったかも。
自分も余裕があるわけじゃないので、まだ飲み足りないとワガママに構ってられない。
このままじゃ共倒れだ。

「なァ」

今度はピタリと足が止まって、ぐんと引っ張られる。
もう、なんなの。ワガママが過ぎる。

なにさ、抗議の声を上げる前に
後ろにいた男が、わたしとの身長差を詰めるようにかがみ込んできて
ぐっと顔が近付いてきて
半開きだったわたしの唇に柔らかい熱が押し当てられた。

まばたきする間もなく。

本当に、一瞬くっついただけだった。
長いまつ毛が揺れて、真剣な瞳がわたしを突き刺す。

「……前澤のこと、まだ好きなの」

「はあ?」

何言い出すのかと思えば、こんな時になんで前澤君の名前が出てくるわけ。
ってかそれ中学の時の話でしょ、そん時の恋心なんか時効だし。
っていうか今キスしたよね?外で。
ホントありえないこの酔っぱらい!

……そこまで言って気付いた。どうやら自分の呂律が回っていないらしい。
酔っぱらい、と言う単語で舌がもつれたのが分かった。
自分も立派な酔っぱらいじゃん。

頭が痛くなってきた。体力の限界が近い。
後ろに回り、背中を押す。

「馬鹿なこと言ってないで帰るよ」

「何言ってんだよ、夜はこれからだろォ」

ダメだこいつ早くなんとかしないと。
今すぐ朝にならないかな。

***

「……ぅ、」

喉の乾きで目が覚めた。
カーテンから漏れる光はまだ弱い。
枕元にあるケータイで時間を確認しようと、目を擦りながら上体を起こしてぎょっとする。
なんでかって、服を着ていなかったからだ。

「は?」

布団をめくり、下も履いていないことを確認する。
素っ裸じゃねぇか。
続いてやってくる、激しい頭痛。
電流のような痛みに頭を抱えて悶絶した。

「……ん、」

どこからか聞こえる女の声に、耳を疑う。
横を見ると、昨日一緒に飲んでた女が寝息を立てて目を閉じている。
はみ出ている肩は肌色で、もう一度布団をめくると
女も一糸まとわぬ姿だった。

マジ?
状況を整理しようと、辺りを見渡す。
ここは俺の部屋で間違いない。
布団の上に男女の下着
ベッドの下に散らばった服数枚と、今ぱさりと流れ落ちた女の下着
ティッシュに包まれてない使用済みのアレが二個
乱暴に破られた正方形の袋二個
そしてなぜか落ちている、俺の財布。

待て待て待て。
どんな状況だ、コレ。
映画じゃあるめぇし記憶がないなんてそんな馬鹿なことあるか。フィクションじゃねぇぞ。
昨日の夜の記憶を、脳の奥底からサルベージしようと試みる、けど。

「……思い出せねぇ、……」

いや微かに残ってる、家の近くの商店街の風景。
こいつにだる絡みしたのは覚えてる。
中学の時を思い出して、覚えてない同級生に勝手に嫉妬して
強引にキスしたんだった。
あれ?なんで嫉妬したんだ?俺。

前澤。
昨日話題に上がってた同級生の名前を呟いてみるけれど、そこから先はおぼろげで。
前澤?って誰だ?
あの、頭いい高校に行ったサッカー部の奴か。
冨岡?あのいけ好かねぇ奴。
あの野郎の話もしていたような気がする。

そんなに飲んでないと思っていたのに、いつの間にかキャパオーバーしていたらしい。
襲ってくる頭痛と、女に対する申し訳なさ。
俺の家にいるってことは、たぶんこいつがなんとかしてくれたんだろう。

それはそれとして。

「普通、泥酔したままヤるかよォ……」

こいつとは所謂「都合のいい関係」で、事に及ぶのはこれが初めてではなかった。
そう。何度も何度もしているはずなのに、行為中の記憶が全くないのは今回が初めてだ。
どんな抱き方したんだ?俺。

「……さね、みちゃん?」

ハッとして目線を向けると、寝ぼけ眼の女が俺を不思議そうに見つめていた。
光の速さでベッドから飛び降り、土下座する。

「ごめん!」

女からの返答はなく、代わりにベッドが軋む音が聞こえる。

「俺昨日絶対お前に迷惑かけた。マジで申し訳ない。タクシー代とかかかった金請求してくれていいから、なんなら迷惑料で倍出す」

「んー……」

特にお金かかってないし、土下座する必要もなくない?
頭上から降ってきた言葉は意外なものだった。
おそるおそる顔を上げると、不敵に笑う女が瞳に映った。

「ただ……まあ、めっちゃめんどくさかったよね。あんな実弥ちゃん見るの初めて。だから、迷惑料つーことで今度、焼肉おごってよ。すんごく高いとこの」

ぐっ。
固有名詞で言われた焼肉店は、会計が万単位するところで。
しかし自分が撒いた種だ、自分で刈り取らなきゃいけないのはその通りだ。覚悟を決めろ、俺。
分かった。観念したように呟くと
嬉しそうに「やったー!」なんて喜ぶから。
許されてよかった、心の奥でホッとした。

***

何一つ覚えてないって言うもんだから。
わたしの覚えてること全部話したら、この世の終わりみたいな顔をした。

「マジ……そんなことしたんか、俺」

申し訳ない、何度も深々と頭を下げられて
その度に、別にいいよとあっさり返す。
だって許せないようなことされてないもん。さすがにキスはびっくりしたけど。
まあ、帰って来るなりギラギラした目で襲われたのは怖かったかな、正直。
そうだ。居酒屋の会計、全額出してくれたんだった。勿論、本人は覚えていなかったよね。

「あっ、酔っぱらいの実弥ちゃんめちゃくちゃしつこかったしめんどくさかった」

「うっ……すまねェ」

ベッドでの出来事を話す。
痛くなかったか?嫌じゃなかったか?
都合のいい関係なのにわたしのことを思いやってくれるのが、なんだかくすぐったかった。

「そんなこと、いつもなら聞かないのに」

「そりゃ痛くならねぇように気ぃ遣ってるからな。あとお前が嫌だって言うことは絶対しねぇって決めてる」

「ただのなんちゃらフレンドなのに?」

「親しき仲にも礼儀ありだ」

ふーん。
いつもぐずぐずと交わってるだけだと思ってたのに、思っていたよりも大切に扱われているらしい。
体の関係で繋がっている人達は、どんな風にお互いを扱い扱われているのだろう。

淹れてくれたコーヒーをひと口すする。
いつもならまだ寝ている時間だ。
今日の予定は?と聞く。

「午前練の監督。午後は補習」

「二日酔いのまま午前練の監督とかヤバそう」

彼はたしか運動部の顧問だったはず。
今日の天気は分からないけれど、初夏の太陽は疲弊してる身体を焼き付くしそうだ。

「それよりも補習の準備してねェ」

「それ、もっとヤバそう」

そうなると、あまりのんびりもしていられない。
お前は?と逆に問われたので
バスケ部の午後練と夕練があると話す。

「ん。じゃ、もうちっと余裕あるな。俺先に出るから、出る時鍵かけといてくれ」

「はいよ」

バターの香ばしい香りがたつトーストを口の中に押し込み、コーヒーで流し込む姿をぼーっと見つめながら
この人が出たあと、中学の友達に前澤君のこと聞いてみよう。なんてことを考えた。