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夜の片隅で新発見(キ学:数学教師 シリーズもの)

人生、良くも悪くもタイミングで色々決まることだってあったりして
その分岐点から新しく何かを見つけることだってある、らしい。


「……」

一人暮らしの同僚の家、のとある閉鎖空間。
わたしはひとり、顔を覆って項垂れていた。
最悪。無意識に出た言葉。まさかこのタイミングで。
ただ、ここにいても状況が打破出来ないのも知っている。どうにもならないことを嘆いていてもどうにもならない、のだ。
とりあえず今ここで出来ることをして、一息つく。やることは決まっている。

扉を開けて、真っ直ぐ居間に向かう。革張りのソファーに、同僚で同級生の実弥ちゃん(ちゃん付けしているけど男性)がビールを飲みながら寛いでいたけれど、出てきたわたしの姿を見て目を丸くする。

「……は?」

何してんのお前、と声をかけられた。
実弥ちゃんが何を言うかは分かってる。分かってるけど、今は細かに語ってる余裕は無い。

「ちょっとコンビニ行ってくる」

「は?え?何しに」

「買い物」

自分のカバンの中から財布を取り出す。顔を上げると同時に実弥ちゃんに手首を握られ、静止を求められた。

「買い物ってお前、何買いに行くんだよ」

「買い物は買い物」

「答えになってねェ」

そりゃそうだと心の中で思いつつ、彼に買いに行きたい物を口にするのを躊躇う理由だってあるわけで。
何をどう言おうかと迷っていると、実弥ちゃんが先に口を開いた。

「……欲しい物なら俺が買いに行くから、風呂入ってろ」

「いや……それは、嬉しいんだけど」

別にやましいことではないし、仕方のないことなのだけれど、どうしても言い難い。
恥ずかしいとか、後ろめたいとか、そういうものでもないのだけれど、やっぱり憚られてしまう。それはきっと、実弥ちゃんじゃなくてもそうだ。
言えなくて、しどろもどろに言葉を紡ぐ。

「……多分、実弥ちゃんに迷惑かけちゃうから」

「はァ?お前、何言って、……」

言葉が途切れる。実弥ちゃんに目線を向けると、気付いてしまって困ったような、そんな顔をしていた。空気を変えようと明るく「すぐ帰ってくるから!」と声をかけるけど、実弥ちゃんの表情は変わらなかった。何やってんだと俯く。

「……気遣わせちゃって、ごめん」

「いや、んなの気にすんなァ。それより大丈夫か?」

その大丈夫、には様々な意味が含まれているのだろう。大丈夫と一言伝え、小走りで玄関に向かった。

---

予想外の出費にショックを受けている場合じゃない。まさか、このタイミングで来るとは思わなかった。きちんとアプリで管理しているのと、周期が乱れたことがなかったので、完全に油断してた。
コンビニの帰り道、曇り空を見上げながら考える。多分遅寝早起きが続いたり、補習と部活の引率でろくに土日休めなかったり、と生活リズムが乱れていたのが原因だろう。
下腹部が重い。いつものことで、もう何年も付き合っているはずなのに、きっとこれからも慣れないんだろうなあ。自然とため息が出た。
実弥ちゃんの家に着く。中に入ると、実弥ちゃんが歯磨きしながらお湯を沸かしていた。

「悪ィ、紅茶しかねェわ」

「あ、ありがとう」

「風呂入るか?」

「ううん、シャワーだけ借りてもいい?」

おう。家主の許可が降りたので、遠慮なくお風呂場に向かう。用意してもらったお湯の湯気を肌に感じて、申し訳なくなった。
簡単に湯浴みする。お風呂から上がると、裏起毛のスウェットが上下用意されていた。遠慮なく身に纏う。
身支度を済ませて居間に戻る。実弥ちゃんにお礼の言葉を言うと、本日2回目の「大丈夫か?」が返ってきた。過ぎた思いやりに、つい、 吹き出してしまう。

「そんなに心配しなくても大丈夫」

「いやまあ、そう……だよな」

そうなんだけどよ、と口ごもる実弥ちゃん。

「うちの女連中、結構重い方らしいから。どうしても気にするんだよ。気にするっつーか、気になる」

「え、そうなの?」

「そうらしい。俺はよく分かんねェけど」

それはそう。
ソファーに座り、用意されていた紅茶を一口啜る。林檎のほのかな香りが鼻をくすぐった。慣れない心配りに自然と笑みがこぼれる。と同時に、生まれる罪悪感。

「ホントごめん」

「何が?」

「今日出来ないじゃん。なのに泊めてもらっちゃって」

「……そんなの、気にすんな」

気にすんな。と言われても、気にしないことなんて出来るわけない。わたし達は友達以上恋人未満で、週末だけ身体で繋がるだけ。そういう関係なので、何もない夜を知らない。そんな夜があっていいのだろうか。せめて手か口で、と提案したけどすぐに却下された。

「しなくていい」

「でも、」

「いいから、もう寝るぞ」

ぐいっと手を引っ張られ、そのまま寝室に誘導され、あれよあれよといううちにベッドに寝かされ、布団を掛けられた。

「いやいやいや、展開が早くない!?」

「別に早くねェだろォ。日跨いでるし」

居間の電気を消してきた実弥ちゃんが、するりとベッドに潜り込んでくる。

「ほんとにいいの?」

「いいって言ってんだろうが」

「……ほんとに?」

「嘘ついてどうすんだ」

同じ質問の繰り返しに呆れたように言うと実弥ちゃんはわたしの身体を強引に逆方向に向かせる。何事かと思った時、わたしの横腹を実弥ちゃんの大きな手がすり抜けていって、そのまま下腹部に優しくあてがわれた。

「暖めた方が楽になるんだっけか」

耳元でわたしの身体を労る低い声。服越しに伝わる体温がじわじわと広がって心地よい。鈍い痛みが不思議と和らいでいく気がする。

「そう言うよね。夏場だけどカイロ持ってる子とかいたなあ」

「大変だな」

「わたしは軽い方だと思うけど。実弥ちゃんの家族は重いんだっけ」

「あー。おふくろも妹も、1日目?は仕事休んだり学校遅刻して行ったりしてるな。ずっと横になってるわァ」

「そうなんだ……」

柔らかな温もりが身体中に巡り、眠気を誘う。 スイッチが切れる前に、もう一度謝った。

「なんで謝るんだよ」

「だって、したかったでしょ」

「そりゃしたかったけどよ、仕方ねェだろ。いつ来るかなんて分かんねェもん」

「体調管理も出来ないなんて未熟……」

「だーから、気にすんなって」

辟易した言葉とは裏腹に肩まで布団を掛けられ、冷えないようにとくっつかれる。そこに強引さはなく、壊れ物を扱うような丁寧さを感じて、なんだかくすぐったい。

「……実弥ちゃんの手、あったかい」

「そりゃよかった」

「なんか、眠たくなってきた」

「ん、もう寝ろ」

「ぅん……」

意識を手放すまで早かった。実弥ちゃんの体温は相変わらず優しくて、一人で過ごす夜とは違って。
頑張って、ありがとうと呟いた。

***

女が寝静まったのを確認して、トイレに駆け込む。それから適当に半勃ちのモノを扱いて、溜まっていた欲を吐き出した。
長い溜息をつきながら、振り返る。しなくていい。そう言ったのは事実で、でもしたかった。そんな逃れられない男の性もあって。あの場でよく強引に押し倒して事を進めなかったとまずは自分を褒めるべきか。
アイツとは中学の時の同級生で、今同じ職場で働いていて、お互い固定の相手がいないから週末だけ酒飲んでする、それだけの関係で。それだけだから、何も無い夜があるなんて考えたこともなかった。

「……」

水を流す。ため息が一緒に吸い込まれて消えた。クソ、せめて手か口で抜いてもらえればよかったと一瞬思って、違うそうじゃないと脳内で前言撤回した。相手が大変な時に何考えてんだ、俺。なんとも浅ましい思考に嫌気がさす。きっと、不埒な関係でもそんな夜があってもいいだろう。今回は不可抗力で、どうにもならなかったことなんだから。
そっと寝室に戻り、ベッドを揺らさないように元いた位置に身体を収める。再び下腹部に手を添え密着すると、女の髪から俺が使っているものじゃない洗髪剤の香りがして、息が詰まった。

「(ぅ、ま、マジか)」

少しだけ顔を背け、容赦なく襲ってくる情欲になんとか耐える。このままじゃまた暴走しそうなので、目を閉じて自分が担当してる科目のことを考えることにした。来週から理系クラスの授業でちょっとややこしい単元に入ることを思い出す。どう授業を進めていこうか、そんなことを粛々と考えてるうちに、いつの間にか自分の高校時代を振り返っていた。
理数科目が得意で、高3のクラス選択でも理系クラス一択だった。そこで教えを受けた数学の先生が(いい意味で)頭がおかしくて、それでもすごく分かりやすい授業をしてくれた。数学の世界はいつだってシンプルで美しい、がその先生の口癖で、そのくせテストは全然シンプルでも美しくもなく、生徒からの評判は最悪だった。
その先生から「不死川。お前、学校の先生になれ」って言われたのが、今の俺に繋がってる。当時は先公なんて誰がなるかと返したけど、教育の世界に身を投じて、肌に合ってるなとしみじみ感じる毎日だ。充実してる、と言ってもいいかもしれない。
……そう言えば中学の時、コイツの友達から数学教えてと言われたことがあるような。詳細は忘れたけど。コイツの友達より、俺はコイツのことが好きだった。好きで好きで堪らなかった。その気持ちを打ち明けることはなかったけど。まさか同じ職場になるなんて。そう言う意味で高校の先生に感謝だ。
ただ、交わってる時に膨れ上がってくるこの気持ちが好き、かどうかは分からなかった。付き合う?今更?仮に付き合って、今の適当な距離が壊れるのは嫌だった。家族との時間が減るかもしれない。
お互いに都合がいいじゃんと利用され利用して始まった俺達。いつかこの関係が終わる時が来るとして、その時俺とコイツはどんな選択をするのだろう。

「……」

目を開ける。夜の空気に、無防備に晒されているうなじが視界に入ったので、そっと唇を当ててみる。当たり前だが、反応はない。
寝てしまおう。すぱっと割り切ることにした。つーかコイツが起きたとしてどうせ何も出来ねぇし。
もう一度目を閉じた、その時。女ががばりと起き上がる気配がして、反射的に目を開けた。

「……どうした?」

起こしてしまったか?と焦ったが、女は一言「トイレ」とだけ言い、ベッドを降りる。ペタペタと歩く音を聞きながら、ほっと胸をなでおろした。
ややあって女が帰ってくる。ベッドに手を付き、四つん這いになりながら元の位置につくと、乱暴にベッドに倒れ込んだ。

「大丈夫か?」

うーん、と唸り声にも似た返事。女の下でくちゃくちゃになっている布団を引っ張り出しながら女に掛けてやる。

「腹痛ェか?」

「いたい……」

「……薬飲んだ方がいいんじゃねェの」

「今日来ると思わなくて持ってきてないんだよね……」

体を丸めて痛みに耐える女。生理痛に効くかどうかは分からねェが、頭痛薬ならあった気がする。テーブルランプを点けて、ベッドから滑り降りた。

「実弥ちゃん?」

怪訝そうに俺を見つめる女に、頭痛薬があるからちょっと見てくると伝える。女の返事を待たずに居間へ向かい、薬が入ってる棚を開け、頭痛薬の箱を寝室に持って来て明かりで効能を確認する。頭痛、解熱の隣に月経痛と書いてあったので、薬を箱から取り出した。

「この薬生理痛にも効くらしいぞ」

「えっ、ホント?」

女は怠そうに上体を起こし、薬を受け取ると開封し、そのまま口に放り投げた。
……え?

「おい、水!」

「あっ」

何やってんだバカ。慌てて台所から水を汲んでくる。水と一緒に薬を飲んだ女は、ごめんと苦笑いした。

「今日、実弥ちゃんに迷惑かけてばっかり」

「気にすんな」

このやり取りも、もう何回目だろう。目を伏せる女を見て、そう言えばこんな風に萎れるコイツを見るのは初めてかもしれない。よっぽど負い目を感じているのか。だったら気にすんな、より、冗談交じりの言葉の方が気が紛れるかもしれないと思って、口を開く。

「……今度、思いっきりご奉仕してもらおうかねェ」

その言葉に、女はハッとした表情になる。それから「じゃあ実弥ちゃんのためにメイド服買って来なきゃね」と、口元に笑みを浮かべて言った。


夜の片隅で新発見


「ご奉仕でメイド服って安直過ぎねェ?」

「そう?ナース服がいいとか、リクエストがあれば合わせるけど」

「……考えとくわァ」
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流行り廃りを見逃し三振(キ学:数学教師 シリーズもの)

そういう服がある、ということはなんとなく知っていて。なんで知ってるのかと言われたら、大学時代の時に付き合ってた女がSNSの画面をを俺に見せながら「これ可愛くない?」なんて言ってきたからだったような覚えがある。
ただ女が着るようなそれ、興味が沸くはずもなくその時は軽くスルーしたんだったか。その後クリスマス近くに「あの服が欲しい」とねだられて、一緒に店に行って買った覚えもある。見た目は可愛い癖に値段はちっとも可愛くなかったのも覚えてる。
何がいいんだかこんなもん、もっと安くて似てるような服なんざ沢山あるだろと彼女に言ったら急に不機嫌になって、不死川君分かってないよね、みたいなことを言われた、ような。ここら辺は曖昧だ。多分めんどくせぇなとか思ったんだろう。その後がっつりやることやったのは覚えてるのに。

それから数年経って社会人になった今も、なんであの服が女連中にウケるのか、分からなかった。


次の授業の教室に向かっている時だった。
スマホを輪の中心にきゃあきゃあと騒ぐ女子生徒達へ声掛けをする。

「おい、そろそろチャイム鳴るぞォ」

「あっ、さねみん」

「ちょっとコレ見てー!」

イヤだという前に、グイッと手を引っ張られて強引に輪の中に入れられる。
引っ張るなァ!とキレ気味に生徒を戒めた。これでセクハラで訴えられても困る。そんな俺の心配を他所に、生徒達はお構いなしにスマホの画面を俺に見せてきた。
画面に写ってるのは、見覚えのある、モコモコとしたパジャマを着ている女。

「コレ可愛くない!?秋の新作なんだよね」

「この子、彼氏にクリプレで買ってもらう予定なんだってー」

……すごくどうでもいい情報が俺を襲う。秋の新作だろうが、クリスマスプレゼントにもらう予定だろうが、マジでどうでもいい。
もう一度画面を見る。パステルカラー?アースカラーって言うんだったか、今。二つの違いがよく分からねぇが、とにかく灰色のソファーの上で、女が気だるそうなポーズをとっている。
女を包むモコモコのパジャマにプリントされているのは、とあるゲームのキャラクターだった。コラボしてんのか?女が好むパジャマのブランドと、男が遊ぶゲームとの謎コラボ。なんでこの二つを掛け合わせたんだ?

「お前、このゲーム遊んだことあるのかよ」

スマホを持ってる女子生徒に尋ねる。

「え?知らない。これゲームのキャラクターなの?」

予想外の返事だった。このゲームのキャラクターを知ってるから買うんじゃねぇのか。
遊んだことがあるゲームのキャラクターだから俺は当然知ってるし、そのゲーム会社を代表するマスコットキャラクターと言ってもいいような存在なのに、知らねぇのかよ。

と思ったが、ゲームをしない奴にとっては知らなくても無理ねぇか、と思考が一旦落ち着いた。

「このキャラ知らねぇなら、別にこのパジャマじゃなくてもいいだろォ」

俺の言葉に、女子生徒が一斉に沸いた。さねみん分かってない、だの、だからモテないんだよ、だの、女心を学んだ方がいいよ、だの、好き勝手まくし立てられる。

「うるせぇな!ギャーギャー騒ぐんじゃねェ!」

さねみんのほうがうるさいしデリカシーないよ、と言われ、ブチ切れそうになる。
余計なお世話だ。沸騰しそうな脳みそを落ち着けるために、大きく息を吸う。
すると、輪にいた別の女子生徒が俺に「さねみん」と、話しかけてきた。

「これって期間限定のデザインなのー。秋冬限定販売なんだよね。期間限定って言われたら欲しくならない?」

「……期間限定?」

そんなことも知らないの。からかわれるように言われて、口角が引き攣る。
知るわけねぇだろ、そんなもん。

「期間限定のものって思い出になるよねー。あ、この時に買ってもらったんだ、みたいな」

「それな!懐かしーってなるよね」

「あたし中学の時に付き合ってた人と買った指輪、お祭りの安い指輪だったわー」

「500円だけど特別なやつー!」

分かる分かると盛り上がり始める女子生徒達。
祭りが夏の期間限定イベントだとして、そこで買ったものが思い出、と言われると、『特別』になるのかもしれない。

「……まァ、確かに」

俺の言葉に、わっと群がる女子生徒達。寄るんじゃねェ!と一喝した。

「さねみん覚えときな。彼女が出来たら『期間限定のもの』だよ」

チャイムが廊下に鳴り響く。期間限定は分かったから早く教室戻れと生徒達を促したあとで、自分でも吃驚するくらい大きなため息が出た。歳があまり変わらないはずなのに、生徒と話す時はすごく疲れる。熱量が段違いと言うか。
それはそれとして、あのパジャマには全然興味はねぇが(そもそも基本半裸で過ごすし、冬は寒けりゃスウェットを着るし)パジャマにプリントされていたゲームのキャラクターがどうも気になる。別にアホほど遊んだゲーム、とか、キャラクターに思い入れがある、とかではないのだが。
小さい頃、弟の玄弥と一緒に遊んだ記憶が蘇って、懐かしさに胸が震えて、なんだか泣きそうになる。最近勉強を頑張ってる弟にご褒美として買ってやるのも、悪くはないかもしれない。

スマホを開いて、インターネットで検索しようとする。が、いかんせんあのパジャマのブランド名が分からなくて狼狽える。あの、ふわふわモコモコのパジャマで、ゲームのキャラクターとコラボしてる、女子ウケがいい、プレゼントで贈られることが多い……そんなことを考えながら、インターネットの検索窓にそれっぽい単語を打ち込んで、検索ボタンを押す。よくもまあ、「パジャマ ふわふわ」で出てくるよなァ。とりあえずサイトはあとで見ることにして、今は授業に集中だ。

***

「……」

その日の仕事帰りに、例のパジャマが売ってる店舗へと足を運んでみたが、店舗前で立ち尽くしてしまった。
いや、こんな可愛らしい店構えだったか?数年前の記憶を掘り返すが、やっぱり思い出せない。
淡い色のトリコロールで彩られた店の看板、店前に飾られたマネキン、が着ているふわふわモコモコのパジャマ。隣に立ってる小さいマネキンもふわふわモコモコのパジャマを着ているが、果たして需要があるのか?少なくとも俺の兄弟は着ねぇだろう。女連中も上の寿美は着るかもしれねぇが、貞子は女の子向けのシリーズ物の方が良いって言うのが想像出来る。近付いてみると、洒落たプライスカードが視界に入った。相変わらず可愛くねぇ値段だな。
店内に目をやると、店員っぽい人と目が合った。いらっしゃいませと声をかけられ、反射的に頭を下げた。ええいままよと店内に入る。なんかいい香りしねぇか?と思ったら入口付近にいくつかのアロマキャンドルが置いてあった。こんなのも売ってるのかと関心しながら値段を見て、そっと戻す。金がないわけではないのだが、キャンドルやバスボムなど消えてなくなってしまうものに対して金をかけることがどうしても無意味に思えてしまうのだ。ただ、このブランドが好きで、いい香りに包まれる生活を送りたいと思っている人にとっては惜しまず買われていく商品なんだろう。
開けた場所に、キャンディーの屋台みたいな外国風のワゴンが花やらフラッグガーランドで飾り付けられている。ワゴン上にはハンドクリーム、練り香水、ふわふわモコモコのレッグウォーマー、バニティポーチやら母子手帳ケースなんかが置かれていて、どれも可愛いらしい。

「何かお探しですか?」

話しかけられて、ドキリとする。声がした方に顔を向けると、さっき目が合った店員が俺を見上げてニコニコとしていた。

「あー。えっと、最近なんか、SNSで見たんですけど……」

無下にするのも申し訳なく思ったので、ゲームとコラボしてるパジャマを探しに来たんですけどと伝える。店員は「あー!あれですね!」と嬉しそうに声を弾ませ、人気なんですよー、とか、今日もお兄さんみたいな男性の方が買われて、とか、色々話してくれた。どうやら意外と野郎も来るらしい。よく見たら店内には男の買い物客もちらほらいて、俺だけじゃなかったのかと安堵した。
その店員に、パジャマがあるところに案内される。どうやらコラボと言うこともあり、店の一角にコーナーが展開されているらしい。ふわふわモコモコのパジャマの他にも、ブランケットや腹巻があって、どれもゲームのキャラクターがプリントされていた。
お目当てのパジャマを手に取る。触れて、驚いた。手触りが物凄くふわふわで、滑らかなモコモコが優しく掌を包む。小学生みてぇな感想だが、あの時あの女に買ってやったやつもこんな感じだったか?と記憶の海を潜ってみる。当然、思い出せるはずもなかった。
タグを見る。フリーと書いてあって、手が止まる。フリーサイズって困るんだよな。ハンガーラックから取り出し、自分に当ててみる。小さくはねぇが、ゆとりがあるわけでもない。ただ、玄弥だったら着れそうだ。アイツ、俺より細身だし。大丈夫だろ。
隣にいた店員に「これ買います」と告げると、ご自宅用ですか?と聞かれた。プレゼントではないので頷く。そのままレジに案内された。

***

買い物を終えたその足で、実家に向かう。
ただいまと玄関の扉を開けると、お袋とお袋に抱っこされてる貞子が出迎えてくれた。

「あれ!?実弥、連絡もなしにどうしたの」

驚いた表情で駆けてくるお袋。靴を揃えて立ち上がると、貞子が俺に抱っこをねだってきた。お姫様のご希望通りに抱っこしてやる。

「いや、買い物してきたから」

「なんの買い物?」

「衣替えの季節だろ。チビ達の新しいパジャマ買ってきた」

お袋に買い物袋を手渡す。中身を見たお袋は「全員分?」と申し訳なさそうに尋ねる。流石に1人にだけ、となると、他の奴らが可哀想なので、あの後急いでショッピングセンターに行って買ってきたのだった。

「寿美のはねぇけど。アイツ最近ワガママだからなァ。実兄センスねぇとか文句たれるし」

俺の一言に、お袋がそうねと笑う。一番上の長女は、反抗期の沼に片足を突っ込み始めていた。

「さねに、てこのは?」

どこで覚えてきたのか、上目遣いで俺を見つめる貞子。ちゃんとあるぞと言うと、嬉しそうに頬を胸に寄せてきた。

「ご飯食べてく?」

「いや、着替え持ってきてねぇし、今日は帰るわ。玄弥は?」

「自分の部屋におるよ」

了解。貞子を抱えたまま、二階の階段を上がる。下から就也とことのはしゃぐ声が聞こえてきて、思わず顔がほころんだ。野郎は単純でいいよな。
玄弥の部屋の扉を叩く。誰?と中から声がしたので、兄ちゃんだと返すと、バタバタと慌ただしい音がして、ガチャと扉が開いた。

「兄貴!?今日帰ってくるなんて一言も、」

「チビ達の新しいパジャマ買ってきただけだ。今日は帰る」

部屋を覗き見る。どうやら音楽を聴きながら勉強していたらしい。テーブルの上に英語の教科書と、電子辞書と、ノートが散らばっていた。

「テメェ、数学の宿題きちんとやってんだろうなァ」

俺より若干身長が高い弟に目線をやる。俺はこいつの科目担当ではないので、こいつが今どんな風に数学を取り組んでるのか、全部把握しているわけではなかった。

「やってるよ。あ、でも、今やってるところがちょっと怪しいかも……」

「今やってるところっつーと、二次関数か?」

「うん。グラフの最大値最小値の場合分けなんだけど。たまに範囲を入れ忘れちゃうんだよね。ただ、全然分からないって訳じゃないから、今度帰ってきた時に教えてよ」

「おう」

俺と玄弥の話してる内容が完全に理解できず、置いてけぼりの貞子が「なんのはなし!」と、頬を膨らませて抗議する。それを見た玄弥が苦笑いしながら「貞子も大きくなったら分かるよ」なんて優しく貞子を宥めた。

「げんにいきらいっ」

ただ、その回答が納得出来なかったのか、貞子は玄弥にあっかんべーをして、俺に力一杯しがみついてきた。自分の分からない話をされると急に不機嫌になるのは通常運転だ。玄弥は困ったように笑いながら肩を竦める。

「妹に嫌われちまった可哀想な玄弥君に兄ちゃんからのプレゼントだァ」

「えっ」

ショッパーを差し出す。まさか俺がこのブランドのパジャマを買ってくるとは思ってなかったらしく、口をぱくぱくさせている。

「え?えっ?なんで?」

疑問符ばかりの弟に、いいから見てみろと袋の中身を見るように指示する。言われた通り袋からパジャマを取り出し、広げた玄弥の瞳がキラキラ輝いていくのが分かった。

「うわ!このキャラクター懐かしっ!あのゲームのでしょ?」

「覚えてたんかよォ、てっきり忘れてるもんだと」

「そりゃ覚えてるよ。朝早く、親父とお袋が起きる前にこっそりやってたよね」

「あったな、そんなこと」

それは、俺と玄弥だけの秘密だった。
ゲームの続きが気になって、二人が起きる前に目覚ましをセットして
電気もつけずに暗がりの中、二人でゲームを楽しんだっけ。

「……って、あれ?」

そんな懐かしんでる俺の耳に、疑問符ひとつ。玄弥はショッパーをひっくり返して、「これだけ?」と不思議そうに俺を見つめる。これだけってなんだ、これだけって。
ワガママ言うなと告げると、玄弥は慌てて口を開いた。

「いやそうじゃなくて。兄貴、上だけしか買ってきてないって」

「……あ?」

玄弥の持ってるパジャマを見て、次に玄弥の顔を見て、ようやくコイツが何を言ってるか分かった。
上だけ、しか買ってきていないのだ。
パジャマなのになんで上だけしか買ってきてないんだ、俺。普通下も買うだろ。なんで上だけ買ったんだ?
自分のポンコツさに思わず頭を抱える。そんな俺への笑い声が降ってきた。

「流石にこれ一枚じゃ下半身丸出しじゃん」

そんなの、言われなくても分かる。恥ずかしさで顔に熱が集まった。
明日下も買ってくると鼻息荒く言った兄に、弟は眉を下げていやいいよと笑う。

「だったら新しいスウェット買って欲しいな。今着てるやつ、穴空いちゃって」

言いながら玄弥はパジャマをささっと畳み、俺に渡してきた。

「兄貴、いつも寝る時薄着だからこれ着たら?これから寒くなるし」

「いやでも、これはお前に」

買ってきたやつだと言おうとした口を、これまで大人しくしていた貞子のワガママで遮られた。

「さねにい、だっこ!」

……今まさにしてるんだけどな。とは言わず、妹を担ぎ直す。貞子の下にことと弘が生まれてから、すごく俺に甘えるようになってきたような気がする。お袋が幼い二人にかかりっきりだから仕方がないのだが、甘やかしすぎも良くないよなァ。そっとため息をついた。どうしたもんかね。なんて、今考えてもどうにもならねぇんだけど。

「悪ィ、今度埋め合わせする」

玄弥への挨拶もそこそこに、部屋を後にする。シワになりそうなくらい俺の服を掴んで離さない貞子。今日はこのまま帰る予定だったが、この状態だと貞子が寝るまで帰してくれなさそうだ。時計を確認する。終電には間に合いそうなので、リビングへ向かった。

***

そんな訳で弟にあげるはずだったパジャマを家に持って帰ってきてしまったのだが、あんなふわふわモコモコのパジャマを二十歳超えた厳つい男が着る訳もなく、しばらくタンスで眠っていた。
それから数ヶ月後、アイツが週末泊まりに来た時に、何のきっかけもなく、ふと思い出して。

「おい」

「ん?」

風呂上がり、バスタオルを巻いた女が俺の元へやってくる。週末飲んだくれた後俺の家に来るのが恒例となっていて、今日も例に漏れず終電がなくなるギリギリまで飲んできたところだった。
タンスから例のモコモコパジャマを渡すと、女は目を見開いて俺を見つめてきた。

「……こんな趣味あったんだ」

そんなことを言ってきたので、んな訳あるかと突っ込む。寝る時、俺のスウェットだったり、干してるTシャツを勝手に着たりしている女。まさかこんなファンシーな物が手渡されると思っていなかったのだろう。

「玄弥へのプレゼントだったんだけどよォ、いらねぇって言われて持って帰ってきた」

「年頃の男の子に着せるには可愛すぎるでしょ」

センスなさすぎ、とかなんとか言いながら女は楽しそうにパジャマに腕を通し、頭を通す。フリーサイズのそれ、俺よりひと回りもふた回りも小さい女が着ると、ワンピースみたいな形になった。

……いや、マジか。そう来るか。

「ね、どう?似合う?かわいい?」

「……」

その場で一回転し、謎のポーズを取る女。
一方で見えそうで見えない絶対領域と、絶妙な萌え袖に釘付けになる俺。
クソ、反則だろ、この服。すげぇ可愛い。そう思うのは、昔好きだった女だからだろうか。それともこの服のせいなのか。
意思に反してぐぐっと沸き上がる、安っぽい性衝動。早まる心臓の鼓動が耳に響く。
あー、可愛い。唇から転び出そうになるのをグッと堪えた。

「あ!これ、あのゲームのキャラクターじゃん。懐かしーっ。お兄ちゃんがよくやってたなぁ。実弥ちゃんもやってたの?」

「……」

「……ね、実弥ちゃ、」


流行り廃りを見逃し三振


俺の顔を覗き込む女の手首を無言で掴んで、慌てる女をそのままベッドに連れていった。
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これじゃまるで(キ学:数学教師 シリーズもの)

なんだか、俺達の普通が歪な形で成り立っているから。
普通の(普通ってなんだか良く分かんねぇけど)時間を過ごすことが、なんだかどうしようもなく
くすぐったかったりする、のだ。


「ラーメン食べに行きませんか」

そう、同僚の女から誘いを受けたのは、週の半ばの水曜日。
ん?もしかして今日金曜日だったっけか?ポケットに入れてるスマホで確認する。水曜日で間違いないらしい。
つーか職場で、しかも人の往来がある廊下で話しかけてくるのも珍しくて、なんだか動揺。

「……今日、金曜日じゃねぇけど」

念のための確認込みで聞く。女はうんうんと頷き、分かってると一言、それから悩ましげな表情で悶えた。

「さっきさあ、授業中になーんか知らないけどラーメンの話になっちゃって。なんでだっけ?でもそこからもうダメ、ラーメンが食べたくて食べたくてもう無理。分かってくれるよねこの気持ち」

で、どう?今日暇?
ずいっと迫られて、一瞬たじろいだ。
授業中にラーメンの話なんかするからだろ、と言うツッコミはひとまず置いておくことにして、ケータイのカレンダーを開き予定がないか確認する。
別にいいけど、と言う返答を口から出す前に、すれ違った生徒に声をかけられた。

「さねみーん、やっほ」

「誰がさねみんだコラ、つーかスカート短ぇしネクタイだらしねぇぞ」

「えーっ、夏だしこれくらいいじゃん」

「テメェらは年中そんな格好だろうがァ」

「女子高生の青春を奪う気ですかーっ」

「そうそう、今しか出来ないんだから許してよね」

「何馬鹿なこと言ってんだ、いいから大人しく直せェ!」

きゃいきゃいと目の前でスカートを翻してはしゃぐ生徒達。
いくらスカートが短かろうがパンツが見えようが残念ながら欲情しねぇんだな、これが。
手に持っていた教科書で虫を払うように生徒を退ける。

「とっとと教室戻れェ、鐘鳴るぞ」

俺の一言に焦りもせず、まだ大丈夫だもんさねみんかわいいとかぬかしやがるから。
ならばと思い、しれっと言ってやった。

「あっ冨岡」

ゲッ!
生徒達の顔が一気に青ざめた。
そりゃそうだ、風紀違反で追いかけられたらめんどくせぇもんな。
猛スピードで俺の元から走り去る生徒達。生意気言わなかったら可愛げもあるんだけどな。

……そんなやり取りをしているうちに、同僚の姿はなくなっていた。

アレ?俺、今、アイツと喋ってたよな?
もう一度スマホを取り出して日付を確認して、そこで既視感を覚える。
夢でも幻でも、なんでもねェ。今日は水曜日で、明日は木曜日。
何当たり前のこと言ってんだ。でも、当たり前じゃないことが、今さっき起こっていたのだ。

「……ったく」

誰にともなく呟いて、頭を乱暴に掻く。
直後、女からメッセージが届いた。週末にしかやり取りしないから、また違和感。
女のメッセージをタップして開くと、ご丁寧にこれから行くであろうラーメン屋のURLが貼られていた。
場所を確認する。繁華街の外れにあるらしいラーメン屋で、メニューを見ると野菜がらたっぷり乗っているラーメンの画像が目に飛び込んできた。

そう言えばアイツ、部活の顧問で遅くなるんじゃ?何度も言うが、俺達は週末だけの関係なので平日のアイツの動きがちっとも分からない。部活があるのかないのか、そもそも生徒指導などの業務があるのかないのか、授業が7限まであるのかないのかすらも分からない。
さっきの話だけどよ、とこれからの予定について聞こうとした瞬間、画面に映っている会話が進んだ。

「今日は部活なし、放課後業務もなし、つまり定時上がり。実弥ちゃんは?」

……心を読んでる訳じゃねぇよな?
辺りを見渡し、女の姿がないことを確認する。
とりあえず、了解の意味でOKのスタンプを送っておいた。

***

そう言えば、平日にアイツと飯に行ったことなんてなかったな、と
いつもより人が少ない駅前でぼんやり考える。
いつもならこの時間でも人がごった返していて、人波の中からお互いの姿を探すのだけでも大変で、前に進むのも一苦労で。
でも今日は平日で、しかも週半ばで、明日も仕事があるわけで。
やっぱりなんだか落ち着かない。いや、別に飯を食いに行くのが嫌とかではなく。
これじゃまるで、

「……」

そこまで考えて、やめた。ガキじゃあるまいし、女と飯に行くことくらい、なんでもねぇだろ。しかも雰囲気のいいバーとかじゃなくて、野郎が好んで行くようなラーメン屋だし。
今更何を思う必要があろうか。気を遣うこともなければ、緊張することもない。
視界の端でふわりと影が揺れる。顔を上げると、女が立っていた。目を見開いて。

「……そう言えば今日、水曜日じゃん」

どうやらコイツも、さっき俺が考えていたようなことを考えていたらしい。
何言ってんだバカ、と、自分のことは棚に上げておくことにした。

***

それぞれ注文し終わると黙って商品の到着を待つ。
話したいことがあったら話すし、なければ話さない。くだらねぇ話題を提供し合うこともないし、変に愛想笑いをする必要もない。だから、コイツといる時間は大分楽だった。
「次いつ家に帰ってくるの?」弟からのメッセージになんて返そうか悩んでいると、注文したラーメンが届いた。明日も仕事だから、と言うのと、今日の昼食べすぎちまったから、野菜もトッピングも麺の量も全部控えめ。
一緒に女の注文したラーメンも届く。見て吃驚した。俺のラーメンと真逆じゃねぇか、コレ。つい、尋ねる。

「お前、マジでそれ食うのかよ」

「え?食べるよ?」

事も無げに言ってのける。いやまあ、人の好みはそれぞれだからいいんだけどよ。

「明日も仕事だろうが、トッピング全増しって、しかも豚骨」

「……逆にそんな少ない量で満足出来るわけ?」

女は俺の届いたラーメンを見て、俺と同じように吃驚していた。店員も作ってる時、逆じゃねぇのか?なんて思っていたんじゃなかろうか。強面の男がトッピング控えめで、細い女がトッピング全増しって、俺が店員だったら念のため「注文間違ってませんよね?」って聞くかもしれねェ。
でも、これが俺の「普通」だし、コイツの「普通」なんだろう。なんだか今日は普通に戸惑う日だな。普通に。

「いただきまーす」

女は意気揚々と野菜をかっこみ、麺を啜り、スープを飲む。野菜の山はあっという間に崩され、中から勢いよく湯気が飛び出してきた。それを顔面に浴びながらも食べる手を止めない様はある種の清々しさも感じる。
いただきますと感謝の言葉を口にして、俺もラーメンを食べ始める。量を控えめにして正解だった。
お互い無言で食べ進めていく。途中、声にならない声を出したり舌鼓を打ったりするけれど、会話らしい会話なんてそこにはない。いつもなら酒が入ってるせいもあるけど二人でベラベラ喋って、取り留めのない話なんかもしたりして、会話が尽きることなんてないのに。

不思議だった。何がって、この空気が。俺達、金曜日に飲みに行って、馬鹿みたいに喋って、終電間近の電車に駆け込み乗車して、俺ん家でドロドロとヤって、月曜日素知らぬ顔でおはようございます、なんて挨拶して。
それが俺達の普通だと思っていた、のに。

「なァ、」

頬杖をつきながら、女を見やる。食べ進めていた手を止め、女は俺に視線を送った。

「この後俺ん家来るか?」

はぁ?素っ頓狂な声が返ってくる。

「何言ってんの?明日も仕事じゃん」

「……だよな」

「そうだよ」

女はそれ以上何も言わずに、再びラーメンを食べ始める。俺も何も言わずに、ぼーっとラーメンをひたすら作る店主を眺めていた。

***

「あーっ、美味しかったぁ」

店を出て開口一番、満足そうに目を細める女。

「中太麺じゃなくて太麺でもよかったかも」

「太るぞォ」

「明日朝練あるし動くから問題なし」

そのまま真っ直ぐ駅へと向かう。夜も深まっているはずなのに、人はまばらだ。心なしか居酒屋の看板も寂しそうに見える。
それでも駅は帰宅ラッシュの波が続いているらしく、そこそこ混雑していた。
改札を一緒に通る。別れる前に、女が口を開いた。

「またラーメン食べたくなったら実弥ちゃん誘おっと」

「はぁ?なんで俺なんだよ」

「だって誘いやすいんだもん、同じ職場だし」

一理ある。学生時代の友人達の勤務時間はてんでばらばらで、朝早く出社する奴もいれば夜遅くに勤務開始の奴もいて、勿論休みも合わなくて。だから、コイツの言うことは分からなくもない。

「じゃあ俺がラーメン食いに行きたいって言ったら着いてくんのかよ」

「え?いいよ」

「いいのかよ」

女は当たり前じゃん、と言い、次いでこう言った。

「お互い独り身で都合がいいからね」

その言葉に引っ掛かりを感じる。確かに、彼氏彼女と呼べる存在がいない俺達にとって、都合がいいのは間違いではない。ただ、じゃあ、もしどちらかに彼氏彼女が出来たとして、この関係はなかったことになるのか?いや、なかったことにはならないか。
都合がいい。そうだよな。俺達はそういう関係だ。当たり前過ぎて、今まで深く考えたことがなかった。利用して、利用されての間柄。
……だったら今まで一人で行けなかったようなところも行けるのではないか?例えば女しかいないような小洒落た喫茶店、とか、女がよく行くプチプラのアクセサリーショップ、とか。そろそろ思春期を迎える長女とオシャレに目覚め始めた次女。最近俺のプレゼントにもケチをつけるようになってきて、どうしようかと悩んでいたところだった。
気になるけど一人で行くのは躊躇われるような場所に着いてきてもらうという依頼をコイツにしても、よっぽどなことがない限り断られない、はず。

「じゃあ付き合えよ」

「えっ?」

雑踏の中で、女が疑問符を掲げる。

「……付き合う、って」

その一言に、しまった、と喉が詰まる。この会話の流れで「付き合えよ」だなんて、まるきり違う意味じゃねぇか。何言ってんだ俺。そういう意味じゃねェと慌てて付け加える。

「お互い独り身で都合がいいなら、俺が行きてぇ場所にお前も来いってことだわァ」

どぎまぎする心臓と動揺をなんとか抑えようと、とりあえず頭を掻く。

「べ、別にいいけど」

乱れ飛ぶ会話の音量にあっさりとかき消されそうなくらい、女の声は小さかった。

「……」

「……」

「じゃあ、とりあえず……今月のどっかで。あーいや、今月ももう終わりかァ。今月から来月のどっか?になるのか」

全くのノープランだった。今月はいいとして、どこに何をしに行くんだよ。どんどん墓穴を掘ってる気がして、俯いた。ややあって、俺を呼ぶ声。

「……実弥ちゃん」

「……あ?」

顔を上げると、プルプルと肩と唇を震わせながら笑いを堪えている女がいた。
なんだよ。ちょっと語気強めに言うと、なんでもないと返ってくる。いや絶対なんかあるだろ。

「何笑ってんだよ」

「笑ってない」

「笑ってんだろうがァ」

「いやごめん、なんか実弥ちゃん、中学生みたいだなって」

「は!?」

予想外の言葉に、思ったよりも大きな声が出た。
隣を歩いていたサラリーマンが俺の声に驚いたのか、振り返って俺達をチラリと見る。もしかして揉めてると思われてるのだろうか。勘違いされても嫌なので、言葉を続ける。

「お前なァ、俺のどこが中学生なんだよ!ちゃんと成人もしてるし、真っ当に働いてるわァ!」

「そんな大きな声出さなくても聞こえてるし!ってか、なんていきなり自己主張し始めたの!?」

俺のすることなすこと全てかツボに入るターンなのか、女は片手で俺を制しひいひいと笑い続ける。
クソ、ドツボにハマっちまった。これ以上何かしても無駄な気がする。ふうと長めのため息をつき、咳払いをして、まだ笑い続ける女にあえて凛とした態度で話しかけた。

「おい」

「あー、おっかし……ごめん、何?」

今日は水曜日で、明日は木曜日。
傍から見たら、俺達は普通のカップルなんだろう。
でも、俺達は付き合ってる訳じゃないし、平日に遊ぶような仲でもねェ。

だからなんだか、この状況が
夢のような気がして。

「お前、今日の分絶対どこかで付き合えよ」


これじゃまるで
(本当に恋してるみたいじゃないか)


了解です、と目を細めて笑うその顔。
学校でも、飲み屋でも、ベッドの上でも見たことがなくて
心臓の奥でなにか、小さな火がついた感覚がした。
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甘え下手王子の憂鬱(キ学:数学教師 シリーズもの)

学生時代の思い出TOP3に入るような行事に、まさか教師として参加する日が来るなんて。

「今回、中学3年生の修学旅行の引率をお願いしたいんだけど」

理事長室にいきなり呼び出しを受けて(教師でも呼び出しされるんだ)おそるおそる理事長室を尋ねると
理事長に笑顔でそう告げられて、一瞬固まった。

「……え?」

中学3年生の修学旅行の引率?わたしが?
今年、この学校の中学生を教えていないので、なぜわたしが指名されたのか全く分からない。
その旨を理事長に伝えると、すごくシンプルな理由が返ってきた。

「今年、中3を担当している女の先生がいなくてね。修学旅行には女の先生が1名以上引率しないといけないんだ。胡蝶先生には高3の修学旅行の引率をお願いしようと思っていてね」

なるほど。
胡蝶先生は高3のクラスの担任なので、高校生側の引率になるのは当たり前で。
きっと数少ない女の先生達が、毎年代わり代わり修学旅行の引率を担当しているのだろう。
それはそれとして、懸念点ひとつ。

「分かりました。けど、今の中3を担当していないので、生徒の名前とか把握していないのですが……」

「うん。ただ、あくまで引率だから、女子生徒が困っていたら助けてあげる、くらいのスタンスで大丈夫。旅先で急に体調を崩したり、精神的に不安定になったりする子がいると思うから、そんな子ども達に寄り添ってあげてほしいんだ」

「は、はい」

そもそも、当たり前なんだけど、修学旅行の引率なんて生まれてこの方したことがない。
急に不安になる。修学旅行の引率なんて、わたしに出来るのだろうか。もし修学旅行で事故なんか起こしたらどうしよう。

……そんなわたしの不安を見透かすように、理事長が笑って話しかけてくれる。

「不安になる気持ちも分かるよ。でもね、一緒に行く先生達は何度も引率の経験があるし、トラブルにも慣れてる。何かあったり、分からないことがあったら遠慮なく頼ってくれて構わないから」

「あ……ありがとうございます」

心遣いに一礼する。
隣に立っていた校長のあまね先生に、クリップ止めされた紙束を渡された。
見ると、修学旅行の行き先や旅の目的の他にかかる費用、クラス情報、生徒情報が書かれている資料だった。
生徒情報に至っては、アレルギーや性格、普段の様子などが事細かに書かれている。

「情報漏洩に当たりますので学校外への持ち出しは禁止となります。不明点がございましたら、3年学年主任の先生におうかがいしていただければと」

「分かりました。ありがとうございます」

渡された紙束はそんなに分厚いものでもなかったのに、責任の重さをずしりと感じる。
そんなこと、今考えても仕方ない。とりあえず最初に、学年主任の先生に挨拶に行かなきゃ。

---

「はァ?修学旅行の引率?」

同僚の不死川先生───プライベートでは実弥ちゃんって呼んでるんだけど、その実弥ちゃんと週末に飲みに行くのが恒例になっていて。
がやがやと喧騒の中、修学旅行の引率を頼まれたことを伝えると、不思議そうな顔をしてわたしを見つめた。

「お前、中3持ってたっけ」

「ううん」

「じゃあなんでお前が引率するんだよォ」

「それ、わたしも思って聞いたの!そしたら、女の先生が絶対に必要らしくって」

わたしの言葉を聞いた実弥ちゃんは、一瞬何かを考えるように目を伏せ、それから「ああ、」と、何か理解したように目線をわたしに戻した。

「胡蝶先生、高3の担任だからかァ」

「そ。んで、多分だけど他の女の先生が毎年交代で引率担当してると思うんだよね」

「そりゃそうだろ。毎年気が緩まらねぇ旅行に行かされるなんてキツすぎんだろうが。入れ代わり立ち代わりで引率を受け持ってんだろうなァ」

なるほどね。そう言いながら実弥ちゃんは、豪快にビールを流し込む。
相変わらず爽やかな飲みっぷりだ。
酒のアテに頼んだ軟骨の唐揚げを口に運ぶ。

「んで、どこに行くんだよ」

「チラッとしか資料見てないからあれだけど、お寺とか牧場とか行くみたい」

「俺らの修学旅行もそんな感じじゃなかったかァ?」

「そうだっけ?」

懐かしい記憶を引っ張り出す。寺に行ったのは覚えてる。お坊さんの講話があったんだ。さすがにどんな話かは覚えてないけれど。
でも、牧場なんか行ったっけ?行ったのは水族館だったような気もする。
そこの記憶が曖昧なのは、失礼だけど印象が薄かったからか、はたまた実弥ちゃんとわたしで記憶違いを起こしているかなのか。
記憶を漁っているうちに、別のことを思い出した。

「あ」

「?」

「抹茶パフェ」

「あァ?」

実弥ちゃんがメニュー表を手に取り、パラパラと一頻り捲った後に「抹茶パフェなんかねぇぞ」とご丁寧に教えてくれる。
いや違う、そうじゃない。

「抹茶ぜんざいだっけ」

「何がだよ」

「実弥ちゃん、食べてたよね」

「は?……」

そうだっけかァ?
実弥ちゃんの疑問形にうんうんと頷く。
目をキラキラさせて抹茶ぜんざいを食べるその顔がすごく可愛いかった覚えがある。
本人に言ったらキレそうだから言わないけれど。

「学生時代のこと、意外と忘れてるモンだなァ。記憶力には自信がある方なのに」

「そりゃ十年も前だったら色々忘れたりもするよ」

あの頃と大きく変わった目の前の同級生を眺める。骨ばった指先、鋭くなった目つき、大きな身体。
中学生の頃は同じくらいの体型だったはずなのに、いつしか大人になっていて。
実弥ちゃんを観察していると、薄い唇に目が止まった。なんだか胸がざわざわしてきて、慌ててお猪口に入ってる日本酒を飲み干す。

「今日家来るかァ?」

「へっ」

熱い喉から情けない声が出る。実弥ちゃんにぶはっと笑われた。その笑顔が中学生の時と同じで、なんだか一人だけタイムスリップ、した気分。

「なんつー声出してんだァ」

「だって飲んでる最中に話しかけるから」

「家来るか?って聞いただけだろォ」

目を細めて笑う実弥ちゃんの無防備な脛を軽く蹴り飛ばす。痛ぇ!と言いつつツボに入ったのか、笑顔のままだった。

「今日は帰る」

「なんだよ、怒ったんかよ」

「そういう訳じゃないけど、明日バスケ部の朝練が別の高校と合同で、朝早いから」

もつ煮を食べる。冷めているのに味が染みていて、これはこれで美味しい。

「へぇ」

「だから今日はこれで帰るから」

「了解」

すいません、と手を挙げて店員さんを呼ぶ実弥ちゃん。
便乗して、わたしも追加のお酒を注文した。

---

修学旅行当日まで、本当にあっという間だった。
日常の仕事は勿論、部活の遠征や講習、補習、修学旅行の打ち合わせなどが重なって土日もほぼ休み無し。
修学旅行の前日に慌ててキャリーバッグに荷物を詰め込んで準備したはいいけれど、緊張で寝れるはずもなく。
修学旅行一日目は眠気との戦いだった。
とは言え担任を持っている訳ではないので、割と気楽な気持ちではあったけど。
(一番最後のクラスにくっついているだけだった)

ただ、平和だったのは昼間だけだった。
と言うか、夜の方が遥かに忙しかった。

急に月のものが来て布団を汚してしまったと涙目の女子を対応したり
エレベーター(もしくは階段)の前に立ち、異性の部屋に行かないようにと見張り番をしたり
なんだか熱っぽいとロビーで蹲る男子の介抱をしたりと
布団に潜って寝るまもなく小さな仕事が次々と舞い込んでくるので
結局二日目以降も、睡魔との熱い戦いを繰り広げていた。
お陰で旅行があまり楽しくなかったのは事実。いや、楽しむつもりもなかったけど、まさかこんなに忙しいとは。
当時の先生方に足を向けて眠れないなと、改めて感じた。

細かいトラブルはあったものの、大きな事件に巻き込まれることもなく終わったのは、他の引率の先生達がビシッと締めていたからだろう。
生徒への指導、力の抜き方、引率の距離感など沢山の学びがあって、自分が担任を持つ前に修学旅行の引率が出来て良かったと、帰りの列車の中でウトウトしながら思った。

---

「ただ今戻りました」

三泊四日分のキャリーバッグを引きずりながら職員室に入って自席に向かう。
机の上にはプリントの束やら不在時のメモなんかが山のように乗っかっていて、一気に現実に引き戻された。
ため息をつきながら座る。授業中なので、職員室にはあまり人影がない。
なんとなく、隣の席──不死川先生の席を見る。無駄なものがなく整頓されてて、わたしとは大違い(いや、この状況じゃ仕方ないんだけど)
携帯を取り出して、不死川先生に連絡する。授業中だけど、さすがにマナーモードにしているだろう。
送信して、一息。
気合を入れて、机の上の片付けに取り掛かることにした。

---

「わざわざ悪ぃな、気ぃ遣わせちまって」

実弥ちゃんに大きな紙袋を渡す。
お土産を渡したい、と連絡したら
今日の帰りに受け取るわ、と返ってきたので
実弥ちゃんの家の最寄り駅で待ち合わせすることにした。
お前ん家の最寄り駅でいいと言われたのだけど、仕事で疲れてるのに申し訳ないなと思ったから。

「いえいえ、いつもお世話になってるので」

「うお、美味そう。サンキュー」

紙袋の中身を見て、目を輝かせる実弥ちゃん。お気に召すといいのだけど。

「お前、明日振休?」

「うん、二日間」

「部活は?」

「冨岡先生が見てくれるって」

「……ふーん」

……冨岡先生の名前出すと、ちょっと不機嫌になるんだよなあ。冨岡先生と実弥ちゃん、仲悪いってのは知ってるんだけど。

「それじゃ、帰るね」

目的を果たしたのでキャリーバッグの取っ手を取り、駅の改札に向かおうとした、その時だった。
ちょっと待て、と背後から声をかけられる。

「なに?」

「……」

口をへの字に曲げ、難しそうな顔をしてる実弥ちゃんが映った。
なんで呼び止められたのか分からなくて、距離を詰める。

「どうしたの?」

「いや……」

がしがしと頭をかいて、目を遊ばせる。落ち着きがない実弥ちゃんを見るのは初めてかもしれない。

「もしかしてお土産のお菓子、嫌いだったりした?」

「そういうことじゃねェ」

「俺の前で冨岡の話すんじゃねェ!……ってこと?」

「……それでもねェ」

「???」

なんだかハッキリしない。実弥ちゃんの言葉を待とうとしたけれど、タイミング良く列車がホームに到着する旨のアナウンスが響いた。

「ここで言いづらいことだったら、後で連絡ちょうだい」

再び踵を返す。
すると、キャリーバッグを持っていた方の肘が勢いよく掴まれた。
振り返ると、目を見開いた実弥ちゃんと視線がぶつかる。
切羽詰まった表情に、思わずびっくりする。

「なに?なに?どうしたの?」

「……」

顔を覗き込むと、ふいっと目を逸らされる。
訳が分からなくて、戸惑った。

「……実弥ちゃん?」

名前を呼ぶと、肘を掴んでいる手のひらの力が強くなった。
引き止めたい理由でもあるのだろうか。でも、なんて聞けばいいのだろう。思い当たる節はもうないし。
そんなことを考えていると、不意に実弥ちゃんにキャリーバッグを奪われた。
実弥ちゃんはそのまま大股で、駅の出口に向かっていく。

「え!?なんで!?」

実弥ちゃんを急いで追いかける。全く意味が分からない。
修学旅行中に酷使したふくらはぎが軋む。
実弥ちゃんは駅の出口でわたしを待っていた。街灯に照らされてる表情は、さっきの状態から変わっていなくて。

「ねえ、どうしたの?なんかさっきから変だよ」

「……」

ここまで変だと、わたしがなにか怒らせるようなことをしてしまったのかと不安になる。
でも、お土産を受け取った実弥ちゃんは嬉しそうだったし、冨岡先生の名前出したから不機嫌になってる、って訳でもなさそうだし
むしろなんだか、しゅんとしているような。
こうなったら今来る列車は諦めて、次の列車に乗ろう。
そう腹を括った、その時だった。

「……帰るなァ」

ぽつりと漏らして、それから口を手のひらで隠す実弥ちゃん。
ややあって、言葉を続けた。

「……明日休みなんだろォ。だったら、急いで帰らなくてもいいだろうが」

「え?」

「だからァ」

泊まってけって言ってんだァ。
実弥ちゃんの一言に、微かな違和感を覚える。
普段「泊まっていけ」なんて言わないのに(家に来いとは言うけど)なんで今、そんなことを言ってきたんだろう。

「わ、わたしはいいけど、実弥ちゃんはいいの?」

「いいから言ってんだろォ」

「で、でも、なんで急に」

「いいだろ別に」

「い、いいけど……」

「……」

「……」

列車の発車を伝えるアナウンスが、遠くから聞こえる。
やっぱり変だ。こんなに落ち着かない実弥ちゃんを見るの、初めて。
ホントに泊まっていいの?と、聞こうと思って口を開こうとする前に
悪ぃ。ポツリと、実弥ちゃんが謝ってきた。

「いきなり言われても……困るよなァ」

「えっ」

「悪ィ、ワガママだった」

ワガママ。
その一言に、実弥ちゃんの言動の違和感を、ようやく理解した。
もしかして、もしかしなくても。


甘え下手王子の憂鬱


確かめようとしたけれど、やめた。
それを言ったら、壊れてしまいそうな気がして。
(この日の夜、いつもよりベタベタに甘えてきた実弥ちゃん)(可愛かったんだけど、もっと早く言ってくれたらよかったのに)
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湖月に誘われて(kmt:さねカナ)

「ねえ、不死川君」

その日は風が少し強く、空には雲が広がっている。
たまに切れ間から射す月明かりが辺りを弱々しく照らしていた。
時折、水面が跳ねる音が聞こえる。
どうやら水辺が近くにあるらしい。

合同任務。と言うと下弦レベルの鬼退治だと思うが、実際は討伐に時間がかかっているんだとか。
そんなに手強い相手なら俺が塵芥になるまで刻み尽くしてやる、と怒りに震える反面
下弦の鬼でもねぇ雑魚に手間取ってるんじゃねェ、という隊士に向けての呆れもあって
俺の胸中はちっとも穏やかじゃなかった。

そんな中、合同任務の相手が花柱の胡蝶カナエときたもんだ。
蝶のように、ふわふわしていて危なっかしい女。目を離すといなくなってしまいそうな、儚い雰囲気をまとう女。
俺はそんなコイツのことが、理由もなく気になっていた。
そんな状況だから、気もそぞろになってしまう。

「なんだよ」

つい強めになってしまった語気にも動じず、胡蝶は言葉を続ける。

「湖が近くにあるのかしら。小舟で沖に出てみたいわね」

「はァ?」

何言ってんだ、コイツ。
こんな暗闇の中で舟なんか出してみろ。

「死にてぇのか」

俺の一言に胡蝶は「ううん」と首を横に振り、それから静かに笑った。

「湖の真ん中から見上げる月はきっと綺麗なんだろうなって」

「月?」

空を仰ぐ。
ちょうど話題に出たそれは雲の中に隠れているらしい。

「言っとくけどよ、たとえ近くに湖があって舟があったとしても絶対乗らねぇぞ」

「私が貴方と舟の上で口付けしてみたい、って言っても?」

「は、」

間抜けな声が出て、無意識に足が止まった。
動揺している俺を無視するかのように、胡蝶はスタスタと歩を進めていく。

「お……おいこら、待て!」

「なに?」

くるりと、何事もなかったかのように振り返る胡蝶の元へ大股で近付く。

「テメェ、今この状況分かってんのかァ。巫山戯たこと言ってんじゃねぇぞ」

「冗談に聞こえた?」

上目遣いで見つめられ、思わず目を逸らす。
くそ、調子狂うぜ。
心境の変化を見抜かれる前に、話題を変えた。

「……大体、月見なんざ湖の上じゃなくても出来るだろォ」

「ふふ、そうね。お月見には相応しくないかもしれないわね」

でも、と呟くように言い
胡蝶はもう一歩、俺との距離を詰めた。

「舟に乗ってしまえば二人きりになれるでしょう?風柱でも花柱でもなく、鬼殺隊の一員でもなく、ただの男と女になれる気がするの」

ただの男と女。
そんなもんになってどうするんだ。
俺達が普通の人間になったところで鬼がこの世から滅ぶ訳でもないし、失ったものが戻る訳でもねぇ。
世迷言だ。こいつの妄想だ。

──頭ではそう考えているのに、心のどこかでは
陽の光の下で、俺と胡蝶が仲睦まじく歩く光景を想像してしまっている。
もし、俺達が鬼を知らない
普通の、男と女だったら。
どんな未来が待っていたのだろう。

風が強く吹いて、白い光が胡蝶の輪郭を薄く縁取る。

「……ただの男と女になって、それからどうするんだァ」

思ったことを、口にする。
そうね。一呼吸置いて、紅を纏った唇が動く。

「普段話さないような、取り留めのないことを話したいわ。すっかり春らしくなったわね、とか、新しい甘味処が出来たらしいわよ、とか」

「……」

「……バカみたい、って思う?」

それまで楽しそうに話していたのに、急に寂しそうに微笑む、から。

「……チッ」

俺はどうしても、この女のことを
放っておけないのだ。

「……たら、」

「え?」

「もし雲が晴れて風が止んで辺りの鬼を一掃して月が出たら、一緒に舟に乗ってやるって言ってんだァ」

「あら、いいの?」

俺は何も言わず、歩き出す。
夜はこれからだ。
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