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スミレの人 6

あの日以降、ウィッカと会うのは最小限となった。
この頃では牢の中に入っても拘束される事は無い。
というよりも、いよいよもってシュノを拘束出来る手段が無くなったのだろう。
魔を抑えるという聖別された純銀も、束縛の呪いを掛けた魔縄もたやすく引きちぎってしまうのだから。
シュノもまた、聞きたいことは全て聞き終えたと思っているのでウィッカの所に行くことは無い。
結果的に本に囲まれた空間で大半を過ごすようになった。



「そういえば、ここはどこなんだ……?」

今更といえば今更な疑問をシュノが抱いたのは、持て余す時間を散策で潰すようになってしばらくしてからだった。
この場所はとにかく閉鎖的で窓の一つも存在せず、高い天井や壁、床の全てが石を組んで作られている。
食堂や浴場、書庫といった大勢の人が使用する事を前提とする部屋がある割に他の気配は無い。
誰もいない長い廊下を煌々と照らす明かりは途切れることがないのに、だ。
ウィッカがその全てを管理しやすいよう、人は隔離しているのだろう。
そうなるとこの施設の目的だが、ウィッカの実験場と言うよりは後にそうなったと考えられる。
そう思った理由は複数あるが、一つは書庫にある蔵書の類い。
あれだけ専門用語、ないし持論を口にしてはばからない彼女には似つかわしくない、絵本や初心者用と思われる言葉遊びの本があったからだ。
寒村育ちのシュノは文字に触れる機会が少なく、さすらい人としての年月でもとくに必要としていなかったので本を見るのは初めてだった。
そんな彼だから文字を読む、というのは最低限。
ほぼ初めての経験に等しかったので、これらの本は大いに役に立った。
無造作に引っ張り出しては隣に並べて比べ合い、教える者が居ないにも関わらず異常な速度で読破していく。
練習用のそれらから、徐々に歴史書、世界地図、図鑑と気になった物からとにかく読んだ。
腹が減れば大人数を収納できる広さの食堂へ行く。
収納には常に沢山の食材が詰められていて、それなりに使われているようだ。
シュノもまた適当に漁り、そうして減った分はいつの間にか足されている。
これもまた、ウィッカ一人が管理しているとは思えないマメさだ。
そうなると外部からの干渉が思いつくが、相変わらず人の気配はない。
閉じられた空間に居るせいか、他の気配には敏感になっているにも関わらず、だ。
明らかに隔離されている。
とはいえ、これについては魔憑きとやらの危険性を考えれば言わずもがな。

「こればかりは、ウィッカに聞くしか無いか……」

気は進まないが、いずれ出て行くのなら必要な情報だろう。
ため息を一つ吐いた後に、シュノは膨大な本がしまわれた書庫を後にした。



「なんじゃお前様、まだ斯様な所に居ったのか」

久方ぶりに顔を合わせたウィッカは、やはりというか何というか魔憑きの処置を施している所だった。
シュノが残っている可能性を考えていなかったことは、その言葉から読み取れる。
やはりこの施設を利用しているだけで管理はしていないのだと再認識しながら、シュノは近くの壁にもたれて口を開く。

「出て行きたいのはやまやまだが、ここがどこかも分からなくてな」
「んん、はて? ここがどこかとはおかしな話よな。ここは魔憑きを隔離ないしは管理する場じゃよ。それ以上でもそれ以下でもない」
「……施設の意味合いじゃない。地理的な話だ」
「地理? ああ、なんじゃ。お前様は知らなんだか。担いで来た時に随分と大人しいと思ったが……そういえばお前様、寝ておったな。いや、寝かしつけたのだったか……平然と受け入れて居るから知って居るのかと思ったが。些事を覚えておくのは苦手でな」

確かに施設の規模を考えても広く周知されていておかしくないとは思う。
思うが、人をさらうように無理矢理連れてきた人間が言うことでもないだろう。
今更だが、どうやってシュノの事を知ったのかすら不明な事に気付く。

「それで、ここはどこなんだ?」
「王都の地下じゃよ。いつだったか、時の王が魔憑きを収容するように申しつけてな。王都に地下のある邸宅がないのは水道設備の為と言って居るが、本質は地下にあるここを知られぬ為よ」
「人の気配が伝わらないのは……」
「それなりに深い位置にあるからであろう。時の王が何を考えこのようにしたのか、ワシは知らぬ。興味も無い。じゃが、魔憑きを人に戻す、という話は愉快であったのでな。以来、ワシはここに居る」

誰が、いつ、ウィッカにそんな話を持ちかけたのか。
恐らくは些事、とやらで済まされて記憶にもないのだろう。
そんな他人事よりも気になるのは、

「俺の事はどうやって知ったんだ」

抜け出した後も、ウィッカからの追跡があるのかどうか。
まだ居たのか、という発言と放置している現状、可能性は限りなく低いだろうが。

「魔王の気配や魔族の気配は熟知して居る。器の気配も似たものだから簡単じゃよ」
「……人の気配より、魔物に近いのか?」
「いいや? お前様のそれは人間の気配じゃよ。ワシが言っているのは魂の質、というもの。それらが分かるのは、壊れては居るがワシがエッダの巫女、世界樹の子だからじゃろうな」
「なら、俺が出て行っても問題はないんだな?」
「人間には興味が無いのでな。出て行くのなら、次に会うときはお前様が魔に堕ちた時、魔王と成った時であろうよ」
「そうか、それなら」

別れの言葉を告げようとした瞬間、ウィッカは両手をたたいて急に机を漁りだした。

「おお、そうだ! お前様、自身の縁を知って居るか? どこに居り、親はなんと言う名で、どういう者であったのか。いわゆる、来歴、という奴よな」
「……人間に興味が無いんじゃ無かったのか?」
「ないのぅ。だがお前様は特別じゃ。出て行くのなら、餞別として受け取るが良い」

何枚かの紙束を、無造作に放ってくるウィッカに驚きながら反射的に受け取った。
一枚目は、アレックス・ヴィラスという男の絵と身の上が弧状書きされている。
それで分かったのは騎兵隊の一員であり、騎士として爵位を受けてヴィラスの姓を賜った事。
彼は任務中に死亡し、母のアヤメ・ヴィラスは生まれ故郷の桜村付近の寒村へ戻った事。
シュノはアレックスとアヤメの実子だが、妹は異父妹。
母は、村中の男達の慰み者となることで生計を立てていたらしい。

「生まれ故郷の割に、扱いは酷かったんだな」

随分と無感情に文字の羅列だけを追い、認識を深めていく。
愛していると言いながら誰にも見られるなと周囲を恐れ、シュノを殺そうとした女。
その行動や言動の全てがシュノの為と言いながら、自分の為にしか動かなかった母という他人。

「うむ、そうなんじゃがな……その辺りは少し情報が混雑して子細が分からぬのよ。お前様の目から見た故郷はどうじゃった?」

故郷、というほど思い入れも感慨もない場所。
思い出したのは、

「白かった。寒くて、冷たくて、村を全部、家も飲み込む白が広がってた」

そして、妹の小さな身体を刺した後に残った赤い痕。
あれもすぐに、降り積もる白に埋まっていっただろう。

「はてはて、ふーむ? 白、か……。おかしいの。桜村は常春で温暖ゆえ、寒村が近くにあるとも聞かぬ。しかしお前様が居たのは白、雪景色かの。あちらは常冬と聞くし、なるほど、それで移動を始めるまでワシに分からなんだか」

一人納得したらしいウィッカは興味を失ったらしく、後片付けを始めてしまった。
こうなると実のある会話を続けることは難しく、そしてシュノもまたそれ以上は興味を持たなかったので部屋を後にする。
その足で食堂へ行き、日持ちのする食材を近くにあった鞄へ詰めて廊下の端へと歩いて行った。
向かうのはこの施設で唯一、上へと続く長い螺旋階段だ。
出口へはそれなりの距離がある事と、薄々感づいてはいたが確証が無かったために存在の確認だけに留めていた場所。
息切れを起こすことも無く最後の扉を開けば、久方ぶりに見る青空が見える。
周りには石造りの塀があり、地下への入り口は頑丈な小屋に隠されている事が分かった。
水道設備の為の施設に偽装しているのだろう。

「知らなければ気付かない、か」

そうやって、この都市の暗部は秘められてきたのだろう。
シュノが知らないだけで他にも色々な物が隠されているのかもしれない。
塀の外には森が広がっていて、一息で木々の枝へと乗り移りながら移動を開始する。
濃い緑の匂いが懐かしく、肩に掛けている羽織を枝に引っかけないようにと目を向け、

「そういえば、これは……」

それが、村を出る際に外套代わりにと持ってきた母の着物だと今更気付いた。
微かな綻びや傷みを丁寧に繕っているそれは、シュノの知らない花の柄が描かれている。
記憶にあるあの人はくたびれた顔をして、柄のない簡素な物をいつも着ていただけに、違和感があった。
大切に、していたのだろう。
思わぬ形見に一瞬眉をひそめ、頭を振って考えを止める。
これが何だろうと、シュノは嫌いではないから使う事をやめたりはしない。
それよりも騎兵隊の情報が必要だと思い直し、目前に広がる都市へと足を向けるのだった。



数年後、冒険者としての登録も済ませたシュノは眼下に広がる人の群れを見ていた。
それらは複数の魔物を相手取っていて、こちらに気付く気配はない。
まさか自分たちが樹上から見られてるとは思いもしないのだから、当然だろう。
たまたま逗留していた町の近くへ騎兵隊が遠征に来ると聞いたのは、ちょうど良い機会だった。
騎兵隊の隊長が代替わりをして、件のクライン家の者が着いたと聞いてから接触の機会を伺っていたのだ。
知りたいのは、シュノを殺せる腕前かどうか。
隊員に声を掛け指揮を飛ばす者がそれだろうかと、注視した。
後方で大人しくしていればいいのに、青年は誰よりも前へ出ようとしている。
汚れた頬に、金の髪が激しい動きに合わせて踊る。
瞳は青く、魔物を射貫く熱量と輝きに、悪くないと思った。

「隊長の名前は……レイリ、たっだか」

貴族として小綺麗に整え、後ろにふんぞり返るような奴なら論外だと思ったが。
期待は出来なくとも、様子を見るには足る人物のようだ。
目の前に立ちはだかる魔物を倒しきると、青年はすぐに背後の部下の様子をと目を走らせる。
ああ、それは悪手だな。
少し離れた場所から森の木々の合間を駆ける音が聞こえている。
更には山の麓に近いものだから、騒ぎを聞きつけたワイバーンが三体、飛翔してくる姿も見える。
最も、音も姿も人並み外れたシュノだから認識出来るだけでしかない。
けれど、それが魔物にとっては間違いなく好機だろう。
地上のそれに気が付いたところで青年が応戦すれば、ワイバーンの格好の餌食だ。
事実、今まさにその状況に陥っている。
部下の何人かは弓矢を、槍を使い隊長から引き剥がそうとするが、分が悪い。
このまま見ていても勝てはするだろう、かなりの負傷者を出した上で。
そしてその負傷者は、間違いなくあの青年なのだ。

「手を出すつもりは無かったが、……まあ良い」

興が乗ったシュノは枝の上で立ち上がり、手にした鞘から太刀の鯉口を浮かせて思案する。
手を出すのは良いが今、直接の援護ないし顔を合わすのはよろしくない。
そうなると考えなく斬りかかるのでは無く、人に知られづらい部位を攻めるほかない。
ワイバーンの飛膜は腰の付け根に繋がっているから、そこを薄く削るだけで風圧が膜の全てを剥がすだろう。
そうなれば、飛べないトカゲなどそう難しい相手でもない。
邪魔な尻尾は切り飛ばすので無く、殴りつければ中の骨だけ砕くなり折れるなりするだろう。
そう考えると同時に滑空し青年に目標を付けるワイバーン二匹を、枝のしなりを使って自身を跳ね上げながら先の考え通りに処し。
頂点に到達する頃、手の届く範囲に居た三匹目には小細工なしに、単純に地面へ向けて蹴飛ばすことにした。
自身の滑空速度と後追いとなる蹴りにより、激突したらしい地面は土煙が待っている。
急に落ちてきた魔物への対処で気は反らせているだろうが、流石に知られる可能性があるかと頭の片隅で考える。
けれどまさか、完全に気配を消しているのに闇夜で視線がかち合うとは思わなかった。
驚きに目を見開きながらも、真っ直ぐに射貫いてくる青色。
他の誰かに呼ばれたのだろう、次の瞬間にはそらされていたそれを、面白いと思った。
枝に着地したと同時にその場から離れながら、あの青年に殺されるのは悪くないと思う。
未だ人となりは分からないけれど、次の接触を楽しみにするのだった。

スミレの人 5

魔王。
それは魔物の王と呼ばれている最上の存在。
人に神が居るように、魔物にとっての神とも言える。
自然派生であり、衝動と性質を翻弄する瘴気を宿しいる魔でありながら影響を受けず、それらを抑える理性と魂を持った者。
神と殺し合う運命にある者。
魂があるが故に魔王は何度殺されても輪廻転生し、血脈ではなく魂に全ての知識と権能を継ぐ。
神の永遠にして絶対的な敵対者であり、魔をも人をも極めし七つの加害者。

「魔王の適正を持つ者を器と言う。いずれ、その魂を食われて王へと至る者の事よ。その恩寵は既にお前様、その身体にも現れて居る」

ウィッカが語り、シュノが眉をひそめながら首をかしげる。
全身が血に濡れて紫銀の髪が乱れた有様ながら、儚さと清廉さを持つ美しい少年だ。

「まず歴代魔王は美しい。それらは全て性質は違えど、さすがは極めし者と言わんばかりの魔性の存在よ。お前様もまた、美しかろう?」

クツクツと喉で笑いながらからかえば、シュノは不機嫌そうに菫の目を細めた。
中性的、というには未だ少女めいた可憐さが際立つ面立ちをしている。
けれど美しければ全て魔王なのかというとそうでは無い。
人間には遺伝、というものがあるのだ。
突き詰めれば、あるいは品種改良を続けていれば、美しい者は作れる。

「それと並外れた力、魔力を持つ。とにかく強い。まあ神の仇敵じゃからな、然もあらん。肉体的に強靱という者やあらゆる術に精通する者、それらは魔王がどのように魔力を使うかで変わってくるが……気付いて居るかお前様? ここへ来た当初は単なる鉄の枷で済んだ拘束が今は呪術的な要素も含んで居る。いずれは魔紐グレイプニルでも持ちださん事には抑え切れんだろうな」
「ぐれい……何だ? 紐?」
「かつて、この地が分かたれる前……なおも彼方の頃に存在した道具だ。あの時は……主神オーディンも勝手な真似をせず存命であったか。各地で暴れて居った紫銀の魔王フェンリルを抑える為に作り出された呪具よ。まあもはや現存する呪具でもない故、そろそろ拘束する意味も無くなるだろう」
「それは、俺に出歩いてほしくないという事か?」
「そうじゃな。器でありながら、やはり素養の問題なのじゃろうな。お前様が近づくと魔憑き共が騒ぎ出す。恐らくは瘴気を宿した部分が病むようじゃ。そこからの浸食は確認されて居らぬから、ただうるさいというだけじゃがな。魔はどのような状況でも惹かれ、群れたがるのだろうよ。
そしてそれが人には末恐ろしく見える故、臆病者で、異質を嫌い、力を望む、そんな人間たちは排除したがるのだ」
「……瘴気から生まれたのだとしても魔力を持ち、魔を寄せると言うだけでか?」
「お前様、のうお前様、此度の処遇ではわずかながら余裕があったのでは無いか? 以前は一週間、いや一月か、殴られ潰され千切られ食われ、様々に死にかけて居ったろう。今はどうじゃ? 拳を受けても前ほど痛まず、傷もなかろう。それは器の身にある魔力が、肉体の強化に費やされている証拠じゃ。短期間で肉体に付加を付けず、見た目には変わらず、そのような変化を遂げる生物をワシは知らぬ」

呆れ、あるいは疲労をうかがわせる声音のウィッカに、シュノは軽く目を見開いた。
どこまでも自分本位で不遜、良くも悪くも他からの影響を受けない彼女にしては珍しい。
菫の瞳を縁取る長いまつげを伏せて影を落としながら、床を見つめて情報を整理する。
瘴気と魔力は相反するため、混ざり合うことはないと言った。
その唯一の例外が魔王なのだとして、理性や魂を持つという事は人間を襲わない可能性もあるのではないか。
暇つぶしや仕返しに手を出す事もあるだろうが、そこは個体の差だろう。
少なくともシュノは人を殺して楽しむ質でも、力を誇示する質でもない。
むしろ人間だけではなく、全てにおいて興味がないので放っておいて欲しいとは思う。

「放っておくっていう選択肢はないのか」
「いずれ魔王と成る身をか? ないのぅ。ワシ等は生命と営みを愛する故、基本的には手を出さぬ。人間はそも気付かず太刀打ちも出来んから一理あるのだろうが……魔王が静観したとて、神が放っておかぬよ」
「神? 下手に手を出す方が痛手を受けるんじゃ無いのか?」
「まあそうさな、犠牲になるのは大抵人間じゃろうが痛手はあろう。一つは魔王を殺した後の恩恵が理由じゃな。その多大なる魔力は多くの魔物を解き、飛ばし、生命を育む。簡単に言うと土地が豊かになる。器もそれほどではないが似たような作用をもたらす。だが真の目的は、私怨だろうの」
「しえん? ……随分とみみっち、人間くさいな」
「元が人間だからの。全てがそうとは言わぬが、最高神は魔王を許さぬよ。あれはとにかく、己の計画を潰されるのを嫌って居ったからなぁ。己が最上の存在となる事に心血を注ぎ、他の追随を許さず、その可能性がある者を嫌って居った。それこそ器や魔王を何度も屠る程度にはな」
「……知り合いか?」

ウィッカは人間では無いのだから、どこかで会ったことでもあるのかと問うた。
どうにも内情に詳しすぎるように思えたからだ。
けれどとうのウィッカは目を見開き、首をかしげて不思議そうな面持ちをしている。
これは問い方を間違えたのか、本当に思い当たる節が無いのか判断がつかない。
そもそも知識に偏りがありすぎて役に立つとも思えない。

「あんたは俺を殺さないのか」
「器である以上、死なねばならぬと考えて居る。無駄に生き長らえたとて、お前様の行き着く先は食われて無くなるだけ。ワシが手を下さぬのは、お前様はまだ人の範疇にあるからじゃ。人であるなら救わねばならぬ。人は殺せぬ、そういうルールでな。故に追い詰め、何度か死にかければ魔に堕ちると思って居ったが……今までの魔憑きや器はそうであったが、お前様はしぶといの。あと一息、という度に身体は再生し、人へと戻る。いや、その速度はもはや復元じゃな。不死ではないが限りなく近い」

ウィッカが手を下した魔憑きの処遇をシュノに任せるのは、単に面倒なのかと思っていたが違ったらしい。
再生と復元の違いは分からないが、おかげで短期間のうちに強くなった。
だけれどまあ、力も命も惜しくは無い。
そもそもが欲しても居ないのだから、当然だ。
ただ、愛おしいと言いながら、シュノへと刀を向けてきた女を思い出した。
白に沈んだ小さな子供を思い出した。
彼女たちが望んだのも、シュノの死だった。
一つ目を閉じ、深く息を吐く。

「どこに居ても、結局はそれか。お前が駄目なら、他に誰が俺を殺せるんだ?」
「人を殺すのは人、魔物を狩るのはいつの世も英雄よな。そうさの、堕神討伐隊は英雄の血筋ならばあるいは、といったところか」

随分と適当な言い草であるが、何らかの法則に従うウィッカが口にするのならそれが一番妥当だろう。
その血筋が今はどうなっているかなど、引きこもりを続けているらしい彼女が知るはずも無い。
ならば後は外の世界へ紛れる知識を深めた方が良いだろう。
幸い、情報の更新とやらの産物か探せば本の類いはある。
知りたいことは、全て聞き終えた。
こうしてシュノは、死ぬために生きることを決めたのだった。

スミレの人 4

「全くお前様という奴は、とんでもなく、突拍子もなく、可もなく不可もなく、規格外じゃの」

もはや恒例行事となったウィッカからの苦言、ないし感想を聞き流しながら、シュノは今し方自分を殴り殺そうとしていた相手をやり返す。
本当なら道具の一つも使いたいところだが、あいにくここに使えそうな物はない。
故に殴る蹴る千切る削ぐという原始的な方法でやり合うしかない。
ウィッカとの会話は彼女の気が向けば応じられ、そうでなければ再び牢に繋がれるという相変わらずの生活だ。
変わるのはその拘束方法で、初めは枷だったそれが縄になったり壁に埋め込まれたりと種類に事欠かない。

「これは殺して良いのか」
「うむ、もはや我を無くした畜生に過ぎぬでな。人であれば救わねばならぬが、魔憑きという病に冒され冒涜され飲み尽くされたそれは、もはや抜け殻。人によく似た単なる魔物じゃからなぁ」

にやにやと、けれど悲しそうに顔を歪ませるウィッカの返事を聞きながら、襲い来るそれにとどめを刺す。
心臓の位置に手の平を突き出すだけだったが、シュノを三人並べてもなお厚い塊はそれだけで沈黙した。
手にした心臓という筋肉の塊はシュノの手の上で脈打っていたがそれも握りつぶす。
今回は壁に枷を突き刺すという簡単なようで硬い緊縛から抜けてきた後なので、とにかく疲れた。
その場に座り込み、汗や血で汚れた髪をかき上げて視界を確保する。
ウィッカは表情を変えながら、けれど気にした様子も無く毎度形の違う下僕に掃除をさせた。

「それで、魔憑きってなんだ。俺の、器?とは違うのか?」

物を教えると言ったわりに自分から情報を何一つよこさないウィッカに、疑問を投げかける。
そうしないと彼女との会話は成り立たない。
能動的なようでいて受動的、それがウィッカだ。

「器は器、魔憑きは魔憑きじゃなぁ。どちらも魔に堕ちる、あるいは魔に至るという点では同じ。だがそもそもの成り立ちが違う」
「成り立ち」
「ほれ、魔物は瘴気が生み出すと言ったであろう。瘴気が魔を形作ると言ったであろう。あれがな、人体に入り込みコブのようになるのが魔憑きじゃ。人には魔力があるでな、瘴気が身に巣くうことは元来ありえん。魔力はプラスの力、瘴気はマイナスの力と思って良い。あるいはS極とN極、惹かれ合えど、殺し合えど、影響し合えど混ざり合うことは無い」
「ぷらす……えす……? だが、これが居るだろう」
「うむ、故に自然では無いなぁ。瘴気は魔力を解かし飲み込むが、魔力は瘴気を弾き解かす。ま、相反する力よ。摂理を超えた存在よ。それだけなら魔族という例外が居るが、器はそちらに近いの」
「まぞく……また新しいのが出たな。瘴気があると駄目なのか」
「人であり、魔でもある、魂を持つに至った魔物が魔族じゃな。あれらは一過性で繁殖する者では無いから増える事はマレ。繁殖したとてそれは下僕でしかない魂のない魔物よ。瘴気はこの世界が出来た時からある故、駄目という訳では無いなぁ。瘴気は魔力に、魔力は瘴気にと循環する事でこの世界は成り立って居る」
「……なるほど」

だから人である冒険者は魔物を狩るのか、と何と無く理解する。
魔物が人間を襲うのは、瘴気のとかしのみこむ、とかいう性質の性だろう。
冒険者が魔物を狩ればそれらは形を失い、はじきとかすという事になるのだろう。
それらを自分の中で咀嚼しながら、結局最初の疑問には何ら答えていない事に気付く。

「おい、結局その瘴気が人間に入るとどうなるんだ」
「超常の力を得るな」
「ちょうじょう?」
「腕にそれがある者は腕力が、足にそれがある者は膂力が、目にそれがある者は魅了など」
「へぇ……便利だな」
「そうでもないぞ。言うたであろう、いずれ瘴気は飲み込むと。まず精神が持たぬな、それに迫害もある。人間は異質を嫌う性質、致し方なかろう。次に肉体が変容し、最終的には魔物に成り果てると思われる」
「ふーん……ん? 思われる?」
「うーむ、そこに成り果てた者はワシも知らん。とんと覚えが無い。いやはや、やはり根源から分かたれ神毒を受けた影響じゃな。今のワシには情報を更新する術がない。どれもこれも、いにしえの賢知という奴じゃ。ワシに出来る事、せねばならぬ事はそう多くもない。人を救い、人の助け手となり、大多数の人の味方となる事。総評で人を侵害してはならんという事じゃ。そのついでに、情報の更新と魔へと堕ちた者を処して居る」

これまでのウィッカの言から、彼女が人では無いという事はよく分かった。
多少長く生きている事も、時折底知れない力を見せる事もよく分かった。
けれど、その精神のあり方だけはよく分からない。
ここにはシュノが出会ったことは無いが、多くの気配がある。
恐らくはそう少なくない魔憑きがシュノと似たように閉じ込められているのだろう。
閉じ込めてどうするのかというと、食事を与えるなどをしてとにかく生かす。
そして一人一人、じっくりと、どういう類いのそれなのかを確認し、一人ずつ何かをする。
何かをして、どうにかなると、ウィッカはそれを処分する。
つまり、

「あんたは何をしているんだ?」
「ワシか? 見て分かろう、魔憑きを救おうとして居る。これでも堕ちるまでは人じゃからな、救わねばなるまい。この世界、こちら側、この大陸には存在せぬが外科摘出手術をする事でコブを取り払い、瘴気を取り除いて居る。そしてそれを成した個体の全てが魔へと堕ちるに至ったため、処して居る」

殺すためではなく生かすためにコレを続けている、という言葉に驚いた。
むしろ殺したくて魔に突き落としてるの間違いでは無いかと。
げかしゅじゅつとやらが何かは知らないが、ウィッカと会話をする為にシュノが殺してきた彼らは苦しんでいた。
そしてウィッカは、慈愛に満ちた顔で、憎悪に満ちた顔で、悲哀に満ちた顔で、喜悦に満ちた顔で全てを行っている。
彼女の中でも整理のつかない感情が溢れているのだろう。
けれどどこまでも受動的なウィッカは、情報を更新しないと他に手段がないのだ。
なるほど、あまりにも意味が無い。
自分の中で納得したシュノは、それら全てに興味が無かった。

「結局、器って何の器なんだ」
「ああ、言っておらなんだか? 魔王の器じゃよ」

スミレの人 3

道中にシュノを拉致した女はその後、彼を地下深くの独房へと幽閉した。
壁から伸びる鎖が身じろぎの度にジャラジャラと音を立て。
ただ大人しくしているだけの状況に、早々に飽いたシュノはそれらを取り去ることにした。
まずは適当に、つなぎ目の部分をひねる事で取ろうとする。
そもそもが、人には力だけで鉄をどうする事は出来ないという知識もなかった。
カンテラの明かりだけが照らす室内は朝も夕も分からない。
なので手首を擦れる手枷にかまわず、ひたすらに鎖を引っ張ったり殴ったり知る限りの暴力を働き。

「壊れた」

真っ赤に擦れ、血の滲む手首には多少の痛みはあれど気にもせず。
鎖は途中から分断され、壊れた輪が床に転がっている。
壁から離れることが出来るようになれば、そこは寝床も整っていない上に数歩で扉へ届いてしまう石垣の部屋だと分かった。
扉に窓はなく、鉄枠がはめられている。
それをシュノは、


どこからか響いてきたけたたましい破壊音に、ウィッカは作業を中断して首をかしげる。
はて、今預かっている広大な地下研究所に、これだけ"生き生き"とした音が響いたのはいつぶりか。
助手として使っている使い魔を目だけで探るが見当たらない。
面倒ではあるがウィッカ自身が動くほかなく、目の前の反応をするだけになった肉塊を捨て置き廊下へと出てしばらく歩く。
と、曲がり角にさしあたった辺りでソレを見た。
片手に身体以上の大きさをした獣を引きずり、血の跡の真新しい紫銀の髪をした菫色の瞳の子供を。

「……ふむ、ふむふむ? お前様、お前様は魔を宿して居るがなにゆえ歩き回って、自由気ままに闊歩して居る。下僕はどうした、あれにはお前様のような輩は餌とすべしと申し渡して居るはずじゃが。とするならば、となるならば、お前様はー……」
「寝惚けてんのか? あんたが連れてきたんだろうに」

辛辣な声音すら涼やかで、眉をひそめる顔は極上。
着ている物こそ些末な貫頭衣ではあるが、肩から羽織る着物が顔の作りと相まって少女じみてはいる。
そこでようやくウィッカは片目を竦め、もう片目をまあるく見開いてぎちりと奥歯を噛みしめながら笑った。

「カッカッカ、思い出したぞ! おうおう、あいすまぬ。何せワシは今人間に使われる身、他人にノルマを課せられている身故なぁ、お前様と違って忙しいのだ!」
「……これ、そこら中に居たが良いのか」
「うむうむ、良い。というのもソレは脱獄者を追うように躾けた我が僕。そう、脱獄じゃ! お前様、のうお前様? なにゆえここに居るのかのぅ」

確かコレには出歩かれては面倒だと頑丈な牢に鎖で繋いでおいたはず。
蛇が獲物を狙うように目を眇ながら、隙あらば飲み込もうという悪意を見せながらウィッカはシュノを見る。
と、血に濡れた少年は肩をすくめ、獣を手放すと片手をあげて見せた。
そこには確かに少年を拘束していた枷が、申し訳程度に引っかかっている。

「あそこは飽きた。それにこれは脆すぎる。こいつらを殴ってたらこの有様だ」
「人外じゃなぁ。まあ器をその程度で留められる訳もなし、か。次はちと趣向を凝らさねばならんの」
「それで」
「うん? おお、おお、なんじゃお前様まだ居るのか! ワシにはそも初めから用はない故、疾く牢へと入って貰いたいのじゃが」
「あんたが言ったんだろう、俺のことを教えてやると。それに器ってなんだ。あんたは何だ?」
「やれやれ、せっかちじゃのう。ワシは忙しいと言って居るに……よいよい、適時休憩は必要か。ワシは人間ではないが、人間とはそういうものじゃと知って居る。それに、ちょうど今この瞬間のワシの興味はお前様にある」

こっちじゃ、と声を掛けて背後の様子をうかがうこともせずにウィッカが先ほどの部屋へと戻った。
そこには作業中であった肉塊、人のなれの果てがちぎれ落ち、床を深紅で汚している。
ウィッカの後に部屋に入ったシュノはそれを気にする様子もなく、近くにあった椅子に腰掛けた。
通常の人間が持ち得る神経では考えられない反応に、ウィッカは笑みを深めて下僕を呼び出す。
別の扉から入ってきた五本足の黒い獣が肉塊を食み、床の汚れも舌で舐めて掃除をした。

「それで、」
「ああそうさな、まずはお前様の名を聞こう。無論、ワシも名を明かそう。とは言っても人が勝手に呼ぶアザ名であり、真名はワシの知るところではないのだが。ところでお前様、そうさお前様、名を明け渡す相手は考えた方が良いぞ? 何せ魂の一端を開示するのじゃからなぁ」

胸に手を当て、横柄に、けれど鷹揚に我が物顔で告げるウィッカに、シュノは眉をひそめて口をつぐむ。
魂のなんちゃら、という意味は分からなかったが、相手を考えろというのなら目の前に居る人物ほど信用出来ない相手は居ない。
けれどまあ、知りたいことを教えてくれるというのなら悪い相手でもないのだろうと小さく息をつき、

「シュノだ」
「然様か、ワシの事はウィッカと呼ぶが良い。予言の魔女、あるいは成れ果ての呪い、はたまた最古の魔術、まあ何でも良い。そういう意味であり、そういう者だと思うが良い」

こうしてようやく、彼らは互いを認識するに至ったのだった。

であいのはなし

真っ暗な闇。

辺りに広がる闇、闇、闇。

「おかあさま…おとうさま…レイシー…どこ?」

幼い少年は暗闇の中を一人歩き続ける。

ぎゅっと抱きしめた黒猫のぬいぐるみに顔をうずめながら歩いていくと、急に辺りが真っ赤になる。

「あ…あ!」

ごうごうと音を立てて燃え盛る炎。

人の焼ける匂いと、苦しげな声。

「あつい…くるしい…たすけて」

「どうしてたすけてくれないの」

「おまえがころした

あちこちから聞こえる怨嗟の声に少年は泣きながら必死に走った。

「おとうさま!おかあさま!!レイシー!!」

必死に呼ぶのは信頼できる親と世話係の名前。

燃える屋敷を駆け回って、べしゃりと転ぶと目の前に焼けただれた誰かだったものが横たわっていた。

「ひっ!」

黒く燃えた体から眼球がどろっと零れ落ちて少年の前に転がってくる。

「い、いやぁぁぁぁぁ!!!」

少年の心はとうとう限界を迎えてその場にうずくまって泣き出してしまった。

両親も、世話役も、使用人も全員が燃える屋敷で怨嗟の声を上げながら死んでいった。

おまえがころしたんんだよ

目の前に自分と同じ少年が狂ったように笑っていた。

ただ一つ違うところは、青いはずの瞳が真っ赤に染まっていた事。

「イリア…どういうこと?」

「レイリが殺した。

お前のせいでみんなが死んだ、お父様もお母様も使用人も全員死んだ!

全部全部お前のせいだ!お前なんかが生まれたせいだ!!」

イリアの高笑いと共にレイリが悲鳴を上げる。

狂ったように、喉が枯れるまで叫び続ける。

「ぁ―――ッ、ぐ、ひぁ、ああ!!」

レイリは怯える様にベットから転がり落ちた。

そして冷たいフローリングだと気づいてハッとしてあたりを見る。

「うるせぇ!静かにしろクソガキ!」

いきなり扉が開いて見知らぬ神父が怒鳴り込んできた。

レイリは恐怖でガクガクと震えたまま、頭から布団をかぶって入ってきた神父を見上げる。

「ひっ!」

「チッ…めんどくせぇな…」

その神父がそっとレイリの前に屈むと、怯えるレイリを抱き上げて背中をぽんぽんと撫でて落ち着かせる。

「ひっく、う、うぇぇっ…」

泣きじゃくるレイリを、何時間も、根気強く落ち着かせて、ようやく泣きつかれて眠ったレイリをベットに戻そうとして、また大きなため息を吐いた。

「クソ。面倒ごとばかり押し付けやがって…」

目元が真っ赤になるまで泣きじゃくり、糸が切れた人形の様にぱたりと動かなくなったレイリ。

まだ9歳になったばかりだと言う小さな体には包帯があちこち巻かれているが、おそらくすぐに外せるだろうことは知っていた。

再生の女神、シャリテ。

その失われた女神の魂をレイリは宿している。

それが判るのはノエルが初代騎兵隊長レイア・クラインの子を授かりし聖女アナスタシアの直系の子孫だから「視える」のだ。

この小さな子供がこの先背負うであろう過酷な運命もすべて。

逃れられない宿命は決して悪い事だけではない。

ノエルの腕の中で気を失ったまま、ぐったりと意識を落とすレイリの小さな体をベットに寝かせた。

レイリを引き取ってからここ連日ずっと夜になると悲鳴を上げて泣き叫び、訳の分からない事を言っては狂ったように頭をかきむしる。

面倒なことが嫌いなノエルにしては珍しく文句を言いながらもレイリの面倒を見ている。

夜は火事の記憶を夢に見るのか、取り乱すレイリを落ち着かせるために自室にレイリを連れていき、自室で行えない仕事以外はレイリを目の届く範囲において夜も一緒に寝ている。

暖かなぬくもりにレイリも安心して眠れるようになってからはノエルが居ないと寂しそうにしていることが多くなった反面、家族を失ったばかりということもあってノエルに強く依存してしまった。

それでも昼間は光を宿さない瞳でぼんやりと外を眺めたり鏡に向かって何かを話しかけたりしている。

唯一屋敷を逃げ延びた時に持っていた黒猫のぬいぐるみをぎゅっと抱きしめたまま。

「ぼくがうまれたから…しんだ。

ぼくがしんだら、みんなかえってくる?ねぇ、イリア…」

『しらない。死んだら返ってこない。

死は終わり、終わったらリセットなんてできない』

「どうしてぼくはいきてるの…?

どうしていっしょにおわっちゃだめだったの?」

『女神の魂をもっているから。

お前の器はお前のものじゃない。

女神のものだから、お前は死ねない。

運命がお前を生かそうとする、理がお前を生かそうとする』

「…しにたい、しなせて…

おかあさまと、おとうさまと…レイシーと、みんなのところに」

『行けない。お前はたとえ死んでも魂ごと保護される。

いつか、女神が求めるあの人に出会うまでは…』

「イリア、たすけて。おとうさまとおかあさまにあいたい……

『誰もお前を許さないよ、お前がみんなを殺したんだから』

………そっか」

レイリは今日も鏡の中の赤い瞳をする自分と会話をする。

誰にも心を開かず、どこか遠くで光を映さない瞳のまま一日ぼんやりしている。

シスター達もどう対応していいか判らず、ノエルの部屋でおとなしくしているうちはそっとしておくようになった。

レイリは今日もノエルの部屋の窓辺に置かれた椅子にちょこんと座ったままぬいぐるみを抱きしめて虚ろに外を眺めている。

最近は多忙なノエルが不在でも昼間は部屋でおとなしく過ごしているレイリだが、焼けるような夕暮れ時は火事の情景を思い起こさせるのか、ひどく取り乱す。

なので夕暮れになる前にローゼスがレイリの部屋を訪れて、分厚いカーテンを引いて夕暮れの光を遮り、昏くなった部屋でレイリの小さな体を抱きしめる。

ローゼスは虚ろなレイリの頭を撫でながら、優しく声をかけて落ち着かせるように語り掛けるが、腕の中のレイリは過呼吸を起こして苦し気に喘いでいる。

「レイリ、大丈夫だからしっかりして」

何度でも同じことを優しくゆっくり語り聞かせ、背中を撫でれば次第にレイリの呼吸も落ち着いてくる。

顔中を涙と涎でぐちゃぐちゃにしながら、ビクビクと体を痙攣させつつ、大人しくなるまで待つ。

「大丈夫よ、レイリには私もノエルもついているからね」

「っつ、あ、ぐぅ

「ほら、可愛い顔が台無しよ?」

レイリのぐちゃぐちゃの顔をハンカチで拭いて、綺麗にしてやれば小さな手が縋る様にぎゅっとローゼスの服を掴んできた。

荒い息を繰り返しながらも、それがゆっくり穏やかになるのを確認するとレイリの小さな体をベットにそっと横たえた。

そして小さな手をぎゅっと握る。

「大丈夫よ、大丈夫だからね。

私がそばに居るからね」

よしよしと頭を撫でながらレイリが落ち着くまで手をきつく握って声をかけ続ける。

恐怖で訳も分からず泣きじゃくるレイリが疲れ果てて気絶する様に意識を落とす。

最近は常にこんな感じだった。

電池の切れた人形の様に眠りに落ちたレイリがぐっすり眠っているのを確認すると、レイリ用の夕食を取りに部屋を後にする。

暖かな食事をなるべく用意してあげたいが、火や肉を見るのはレイリが火事や亡くなった使用人の焼死体を思い出させるのか、ひどく取り乱して怯えてしまう為、あらかじめ調理した卵やパン、スープなどの簡単な食事にしている。

まだ一人で食事をできるほど体力も精神が回復していないため、食事の世話は顔見知りで安心できるローゼスが一任されている。

ノエルが戻ってくるまでの間、そうしてレイリは生かされていた。

「レイリ、ご飯食べれる?」

部屋に戻って来てから優しい声でレイリを起こす。

光を失った深い深海の様な青い瞳がゆっくりと目をあけて虚ろにローゼスを捕らえた。

……

「ご飯持ってきたよ。

少しでいいから一緒に食べよう?」

何の意思もなく、レイリがローゼスを見上げると小さな口を少し開いた。

「あら、甘えん坊さんね」

ローゼスはにこりと微笑んでレイリのベットに腰を掛けてパンを小さく切って口元に運んでやると、ぱくっと小さなパンの欠片を口に含んだかと思うと暫くぼんやりした後にゆっくりともごもご口を動かした。

「大丈夫?まだ食べれそう?」

レイリは無表情のまま口を開ける。

次にスクランブルエッグをスプーンに乗せて口に運んでやる。

二、三口食べるとレイリは首を振ってローゼスの服にぎゅっとしがみついた。

「もういらない?」

……ん」

レイリは頭を擦り付けながら小さな声でつぶやいた。

「せんせぇはいつかえってくるの

「ノエル?そうねぇそろそろ仕事が終わる頃だとは思うけど

アイツも色々と忙しい奴だからねぇ。

ふふ、レイリはノエルの側の方が安心できるみたいね」

にっこりと微笑んでローゼスがレイリの頭を撫でる。

……ローゼスいっちゃうの?

ごめんなさい、おいてかないで」

ぎゅっとしがみついて泣きながら声を押し殺す様に震えている。

「大丈夫、何処にもいかないよ。

レイリを一人にしたりしないから、泣かないで?

ノエルが帰ってくるまで一緒に居てあげるから」

泣きじゃくるレイリの涙を手で拭ってあげると、一瞬安堵した表情を見せた

レイリがもう少し幼い頃、父親の名代としてクライン家に訪れて小さかったレイリを抱きしめた事があった。

何処までも広がる広い海の様な碧い瞳。

ふっくらと桃色の頬に艶やかな薔薇の様な唇。

叔父が天使だと溺愛するのも納得できるほど愛らしい子供だった。

小さなレイリは好奇心旺盛で見たことのない物にすぐに興味を示して両親を困らせていた。

そんなレイリを知っているからこそ、ローゼスは今のレイリがどれほどの恐怖と苦痛を味わっているのか理解できる。

「本当に何があったの

考えれば考えるほどに不可解極まりない事だった。

クライン家は没落してきているはいえ、あのレイアの直系。

その血筋というだけで利用価値はいくらでもある。

クライン家を皆殺しにして幼いレイリだけを残す意味がどうしてもわからなかった。

ただ単に殺し損ねたとは思えない。

使用人全員が皆殺しにされているのだから、嫡男であるレイリを見逃す理由がない。

大人すら残忍に殺して証拠もすべて燃やし尽くした知能犯なら、幼いレイリなど息を吐く間に殺せただろう。

レイリに利用価値を見出して、新たな英雄に祀るならそのまま誘拐されていただろう。

クラインの血筋が邪魔だというのならレイリ諸共殺されていたはずだ。

その状況はまるで、幼いレイリが屋敷の人間を殺し火を放った様だ。

レイリは幼すぎてその身に起きたことを何一つ理解できていない。

命を狙われていないと言い切ることはできない。

どうしたらこの小さな命を守れるのか考え抜いた結果、ノエルに任せるのが一番安全だった。

「クソガキはもう寝たのか?」

思考の途中に不意に扉が開いた。

不機嫌そうに書類の束を抱えたノエルはどさりとそれを机に置いて処理をし始める。

ベットではレイリが小さく息をしながらぬいぐるみをぎゅっと抱きしめながら涙を零して眠っている。

ええ、泣きつかれて寝ちゃったみたい」

「それは静かでいい」

ローゼスがレイリをベットに横たえて布団をかぶせると、ノエルは何も言わずに書類を片付けていく。

「じゃあ、レイリをお願いね」

振り返りも、返事もしないがこうして面倒くさがりな彼が手のかかるレイリの世話をしているのだからそんな必要はない事は知っていた。

ローゼスが部屋を出ても、ひたすら書類の整理に没頭する。

夜、突然目を覚まして泣きわめくこの幼い子供のそばに居るために。

 

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