タイトルなし

もうすっかり寒くて身体の節々が痛むので、大学生時分の話も一旦終わりにしよう。
理学部棟の隅に存在している『量子性物性物理学研究室』とやらのドアを開けると、一人の女性が机に腰掛けて、静かに本を読んでいた。畜蠱の箱庭での騒動から数日が経って、彼女――大辻美子から呼び出しを受けたのである。
大辻は視線を本から上げるや否や、「どうしてだ」と投げ掛けてきた。

「……何がです」

私は手近な椅子を引き寄せて、そこに座った。

「天体物理に興味がなくても、数学科なら総合教育の体系的講義で幾らでも関わる機会はあっただろう。なのに、どうして一度も出席していないんだ」

「線形代数学コースなら宇宙工学などで必要やもしれませんが、解析学コースに興味があるので」

「嘘だな。お前は、そもそも数学が好きじゃない」

「そう言われましてもね」

好悪の二元論で語れるほど学問は単純でもないが、確かに好いてはいない。医学部・獣医学部・歯学部・薬学部・農学部と、理系の学部は他にも沢山あるものの、適当に理由をつけて避けてきた。そうして残ったのが理学部で、数学科だったというだけ…… その理学部数学科とて水が合っているとは言えない。入学してまだ数ヶ月と経っていないというのに、既に編入学試験を考え始めているくらいだ。

「花塚。お前は『シュレディンガーの猫』を知っているか」

無論、知っている。どこかの誰かがご丁寧に解説していた。その時は“シュレーディンガー”だった気もするが、今は延ばさないのが主流なのだろうか。

「箱の中に入れられた猫が生きているのか死んでいるのか、開けてみるまで判らない…… という思考実験でしょう」

「回答としては五十点だ。常識的過ぎる。箱の中の事が判らないだけで、どっちかの状態である事は既に前提としている。ところが、ミクロな量子の世界では、本当に死んでいる猫と生きている猫が重なって存在している事が有り得るんだ」

偉そうに採点された…… まあ、助教授なら実際偉い。学生風情よりも。
大辻は持っていた本を閉じて、机の上に置いた。表題には『Physics World』とあり、英字が並んでいる。そのまま訳すなら、物理世界。

「入門者向けの講義でもするか」

そう言うと大辻は研究室の端に追いやられていたホワイトボードを引き摺って、私の前に設置する。

「入門する気はありませんが……」

「最初だからな、『スリット実験』について簡単に説明しよう」

私の言葉をあからさまに無視して、彼女は備え付けられている黒いペンを手に取った。まだキャップは付いている。

「スリット実験の概要はこうだ。まず、一つの部屋の真ん中に縦長のスリットが入った板を置いて、片側からその板に向かって電子銃を撃つんだ。電界放出型でも熱電子放出型でも良いが、実験に使用されたのは電界放出型の電子銃。熱電子放出型の電子銃と比べて電子密度の高い電子線を撃ち出せるって利点が…… 話が逸れたな。とりあえず、電子を撃ちまくったわけだ。電子っていうのは、乱暴に言えば粒。肉眼で視認できないくらい小さな粒だ。粒子とも言う。目に見えないとは言え、所詮は粒だから撃てば真っ直ぐに飛んでいく。スリット板に当たる電子もあれば、スリットの細い隙間をすり抜けて向こう側へと飛んでいく電子もある。スリット板の向こう側は黒板のようなスクリーンがある。運良く当たらなかった電子が、スリット板をすり抜けた証拠として確認できるように」

そこでようやく大辻はペンのキャップを取り外して、ホワイトボードに幾つもの点を描いた。遠目からだと、縦長の模様に見えるような点を。

「無造作に何度も撃ち続けると、スクリーンにはこういう点描画のような細長い点の塊が現れた。ちょうどスリット板にある隙間の形状と同じ形…… まあ、当然だな。電子は粒子で、真っ直ぐに飛ぶわけだから」

「……大辻、助教授の専門は天体物理では?」

「専門だからって好きとは限らない。お前と一緒だ」

大辻は澄ました顔で説明を続けた。

「でだ。今度は、スリットが二つ入った板で同様の実験を行った。こっちのほうが有名かもしれないな。『二重スリット実験』と呼ばれている。『スリット実験』でもやったように、電子銃から電子を撃つ。無造作に。これも当たり前だが、幾つかの電子は二つのスリットをすり抜けて、その先にあるスクリーンにぶつかる。すると、こういう模様が現れた」

大辻はまたも大量の点をホワイトボードに描いていった。しばらくして出来上がったのは、先程のような縦長の模様。それも等間隔に五つ。

「これが、『二重スリット実験』によって導き出された実験結果だった。用意していたスリットは二つ。だったら、二つの点の塊ができるはずなのに、現実は違ったんだ」

「非形式的誤謬があったのでしょう。たとえば、そもそも“電子は真っ直ぐ飛ぶ”という前提が偽だったとか」

「八十点。悪くない発想だな」

先程よりも高得点だ。何となく嬉しい。

「この縞模様は、物理学的には“干渉縞”と言う。干渉縞は本来、波を扱った実験で観測できる現象なんだ。だが、波っていうのは物質じゃない。エネルギーの伝わり方の一種だ。同じ物質がずっと突き進んでいるわけじゃなく、物質が進んでいくエネルギーを別の物質に伝えて、ようやく波という形になる。波は、空間の分布パターンを伝播させる過程で放射状に広がろうとする特性がある。従って……」

大辻は、またホワイトボードに向き直った。

「先程の実験結果を照らして考えると、電子は二重スリットをすり抜けた後、直進したんじゃない。波のように放射状に広がって進んだって事になる。二つのスリットを通り抜けた電子は、お互いに放射状に進み、ぶつかり合う。ぶつかり合った電子は干渉し合いながら、波紋を形成して…… こんな五つの干渉縞が出来上がるわけだ。五つっていう数は便宜的なもの。実際は無数。無数の縞模様ができる」

私は椅子に腰かけたまま唸った。
助教授だけあって、淀みのない説明だ。世間には説明下手な教授連中が巨万と居るのに。

「しかし、だ…… 電子は波じゃない。先程も言ったように粒なんだよ。でなければ電子銃で撃ち出せやしない。だからこそ、スリットが一つしかない時は、スリットと同じ形の点の塊がスクリーンに現れた」

「なら、プロトサイエンス――未科学的とも言うべき物質が関わっていたのでは? 或いは、認識上の錯誤」

「そうだな。お前のように物を知っている人間なら、そういう結論に辿り着く。人類の知らない、プロトサイエンスな物質が電子に悪戯しているんじゃないかって。だからもう一度実験を行った。今度は無造作にじゃなく、一つずつ、時間を置いて撃ち出したんだ。なのに、スクリーンに現れたのは、また干渉縞だった」

少しだけ気味の悪い話のように感じた。
大辻は、さらに言葉を繋ぐ。

「一つしか撃ち出していないのに、それが二つのスリットを同時に抜けて、干渉を起こしている…… 電子銃から撃ち出された瞬間に、粒子だったはずのものが波のように振る舞い始めたんだ。さらに、二つのスリットそれぞれにセンサーを取り付けて、一つずつ飛ばした電子が、どのように通り抜けているかを観測する実験も行われた。電子は粒子という一つの粒なんだから、片方のセンサーで確認できれば、もう片方は通り抜けていないという事が判明する。そうだろう? 一つの粒が、同時に二つのスリットを通り抜けるなんて事は有り得ない。これは、その通りの結果が出た。一度に両方確認される事はなかった。電子は、やっぱり波じゃなかったってわけだ。だが、そんなのおかしくないか? だったら先程の干渉縞は何だったんだ? という事になる。変わったんだよ。変わったんだ。センサーによるスリットの観測を始めた途端に、電子が波じゃなく、粒として振る舞いだしたんだ…… つまり、結論はこうだ」

大辻がペンにキャップをして、そっとホワイトボードの隙間に置いた。

「電子は観測された事で、『二つのスリットを同時に抜けて、左右からお互いに干渉し合うかもしれない』という可能性を捨てたんだ。電子銃から撃ち出されたのは粒でも、波でもなく、“いま電子がどこにあるのか”という可能性そのものだった」

「……それで、シュレディンガーの猫ですか」

私が呟くと、大辻は口角を吊り上げて笑った。

「わたしは言ったよな? ミクロな量子の世界では、本当に死んでいる猫と生きている猫が重なって存在しているって。可能性っていうのは、観測するその瞬間まで偏在しているんだ。少なくとも、電子を含むミクロの世界ではな。『神はサイコロを振らない』なんて言って、アインシュタインが死ぬまで納得しなかった電子スピンの“量子のもつれ”も、実験によって何度も確認された。ミクロの世界なんて言っても、わたし達の身体を構成する物質も、顕微鏡の倍率を上げて覗いてみれば、つまるところ、原子などの量子でできている。量子論の法則の中に、わたし達は居る。わたし達は皆、そこに在るかもしれないという、可能性のまま、多重に存在している。誰かに観測されるまで。だから……」

大辻がホワイトボードから離れて、こちらへと歩み寄ってくる。ゆったりと。そしてその両手で私の頬を包み込むように触れると、椅子に座っている私の顔を優しく持ち上げた。自然と彼女の顔を見上げる姿勢になった。

「わたしが決めてやる。観測者として、お前の可能性を」

彼女の手は暖かく、掌越しに鼓動が聞こえるような気がした。
その時、だったと思う。彼女の言葉通り、私の大学生活の道筋が決まった…… いや、控えめに言って、人生のそれが決まったのである。

タイトルなし

もうすっかり寒くて身体の節々が痛むので、大学生時分の話でもしよう。

【いかがでしたか、初めて参加されたご感想は】

バーに残っているのは、私と鳥居と、アースと名付けられた女性…… そして、この頭の集まりの主催者だけだった。
私はそれに答えず、うつ伏せに倒れているウラヌスの身体に触れた。一切動く事のない彼の身体は血塗れで、衣服から覗く肌に生気が感じられなかった。念の為に脈を取ったが、何も感じられない。
私がウラヌスの顔を持ち上げて、血液の付着したマスクを取ると、背後で様子を見守っていた鳥居が声をあげた。

「やはり…… この人、正親宗市郎という名前の不審者です。何年か前に家を訪ねてきた事があったんです。魔除けに興味があると言って」

正親宗市郎。間人が言っていた“毒”の一人か。超能力研究に傾倒していたと言う、あの…… よもや、こういう対面となるとは思わなかったが。
私はウラヌスから離れて額を押さえた。毒が回ったわけではないが、頭が痛い。今は何も考えたくない。ただ、休みたかった。

「救急車を呼びます」

鳥居は短くそう言った。ルナは首を振る。

【私の持つ解毒剤でなければ助かりません】

「なら、それを救急隊員に渡してください」

【残念ですが、今ここにはありません】

「無駄だよ」

そのやり取りに、私が割って入る。

「彼はもう、死んでいる」

それでも鳥居は何かを言おうと口を開けたが、言葉にならない声しか漏れてこなかった。穢れを祓うのとは訳が違う。今の今まで生きていた人間が目の前で死んだ。その事実が、彼女には計り知れない衝撃を与えたのだろう。
私は立ち上がりながら、ルナに訊ねた。

「一間、と言ったか…… こういう時、君はどうする」

【よく効く解毒剤があります】

ルナは“死んでいる”という私の言葉を無視して、そう言うだけだった。

「それで生き返らせられる、と? この人間が毒によって絶命したとして、今からウマ血清、或いはヒト血清を打ったところで何になる? 君の言葉通り、血清でなく、解毒剤だとしても脈は既に止まっている。薬剤を行き渡らせる為のポンプが停止しているのに、薬も何もないだろう」

【問題ありません】

話が通じない。これ以上関わっても無意味か…… そもそも、目薬の件を解明すべく接触したはずだったのだが、なにやら大事になってきている。一間という呼び名を知れただけでも収穫と考えるべきやもしれない。
そう結論付けた時、沈黙を貫いていたアースが目元の仮面を外しながら、口を開いた。

「……ギリシア神話に登場するヒュドラを倒したのは、英雄ヘラクレスだ。さっきアンタが言っていた、勇者リュケイオスなんて奴じゃない。それにヒュドラは、蝮の女エキドナと巨人テュポーンの間に生まれた怪物。その、アングルモアの魔王だとかいう奴の手下なんて話は聞いた事もない。リュケイオスだってそうだ。ギリシア神話に出てきてすらいない。どうして、嘘を吐いた」

あ、と思った。
アースの話もそうだが、彼女の顔に見覚えがあった。札幌キャンパスの理学部棟で何度か見かけた顔。

「大辻美子?」

私が呟くと、彼女は視線をこちらに向けた。それも一瞬だけ。すぐにルナのほうへと向き直る。つられるように私もルナを見た。
真っ白な仮面が、俯いた。微かに震えている。
笑いを堪えているのだと気付くのに、少々時間が掛かった。

【いいえ】

ルナは俯いたまま、首を小さく横に振った。

【怪物ヒュドラを倒したのは、詩人でもある勇者リュケイオスです。ミケーネの王アマリオスと、妃ユラの息子。そういう伝説が残されています。少なくとも……】

仮面が顔を上げた瞬間、また店の明かりが消えた。

【私の知っていた世界ではね】

言葉と共に、天井に光が灯された。プラネタリウムがまた作動したのだ。空に散りばめられた小さな星達が、キラキラと輝いている。
黄色の線で示された黄道の周りの星を囲むように、緑色の線が空に絵を映し出す。
しかしそれは、先程までの、私が知っている黄道十二星座とは明らかに違っていた。

「なんだ、これは……」

大辻美子の声がする。
鳥居も怯えるように息を呑みながら、私の手を強く握りしめた。

【これこそが、八月の胡桃座や九月の角弓座から十月の天秤座の辺りまで伸びている、海蛇座の姿。これが、私の知るヒュドラ。七月の星座である魔王座が地上に遣わせた三つ目の悪魔です】

赤く光る星が幾つも集まって、不気味な顔のような模様を空に描いている。

【そのヒュドラを倒したのは、十二月の星座…… 韻士座のリュケイオスです】

「そんなものは、存在しない」

ルナの解説を、大辻美子が真っ向から否定する。

【おや? 韻士座を御存じありませんか】

ルナの声がまるで空から降ってくるようだった。

【リュケイオスは、自ら倒したヒュドラの毒を使い、その後も現れる魔王アングルモアの遣わした魔物達を次々倒しました。しかし最後にその強力な毒はリュケイオス自身を蝕み、命を落とすのです。そして、天に昇った。十二月の星座として】

プラネタリウムが一度消え、全天球ではなく、一部の空を映し出した。遠くに瞬いていた星が、今度は少し近くに見える。その中の幾つかの星を緑色の線が結び、尻尾のある怪物の巨体を、キラキラと映し出している。特に、頭部にあたる三つの星は眩いばかりの強烈な光を発していた。

【ご覧なさい。頭部に燦然と輝く三ツ星を。不死を象徴するヒュドラの三つ目を。数少ない実視連星でありながら、三重星を成しており、中央に位置するは世にも珍しい脈動変光星…… さながら瞬きをするように点滅を繰り返している】

近づいてくる。
暗闇に紛れて、あの仮面が。
ルナの濃密な気配が傍らまで近づいてきた時、青白い光が放射状に広がった。今までに幾度となく目にしてきた、鳥居の魔除けが放つ光。
振り向くと、緊張した面持ちの鳥居が小石を左手に持っている。

【それだ。その力が、あなたを縛り付けている。あなたは血によって祓っているのではない。魔を退けるその力は、あなただけのもの。あなたはそれを知りもせず、赤子のように盲信している】

機械の声が、震えて聞こえる。
鳥居がかぶりを振った。

「違う。これは千葉家の…… 間違いなく、わたし達の力です。だからこそ、穢れを祓える」

緊張した声色。だが、凛とした言葉だった。

【本当にそうでしょうか。本当に、あなたは穢れを祓ってきたのでしょうか。こんなにも】

耳元で声がした。

【こんなにも近くに、祓わなければならないものが居るのに、あなたは、祓おうとしない】

私の顔のすぐ側で、暗闇の中、プラネタリウムの頼りない光に照らされて、広い仮面だけが宙に浮いていた。

「花塚さんに近づくな!」

鳥居が叫んで左手を振るったが、彼女の十八番とも言える礫は不発に終わった。
私は身動き一つ取れず、心臓を引き抜かれるようなイメージが走った。
しかし、次の瞬間、不思議な事が起こった。
どこか分からない場所で、なにか分からないものが急激に大きくなっていくような感覚に襲われた。高熱を出して寝込んでいる時に感じるような、あの浮遊感。そして、それが突然、私の胸の内側から噴き出してきた。
その赤黒い霧状のものが、私に迫ってきていた仮面を押し戻した。
ガシャン、という音が耳に届く。ルナがカウンターにぶつかったのだと一瞬遅れて気づく。
その赤黒いものは私の周囲をぐるぐると渦巻くように回っている。

「それは……?」

鳥居が、驚いた顔で私に問い掛けた。そんな事は、私が知りたい。しかし、何故か、懐かしい気がした。
再び仮面が宙に浮かんだ。また、生気のない声がする。

【ああ…… なんと素晴らしい。それは間違いなく、純粋な毒。長い時間を掛けて育まれた愛憎の塊】

それはまるで衛星のように私の身体の周囲を回っている。
ハハハハハハハ……。
部屋中に、薄気味悪い笑い声が響いた。
宙に浮かんだ白い仮面を縁取る模様が、波打つように激しく動いている。
私は身構えた。だが、次に聞こえてきたのは、今までのようなボイスチェンジャー越しの声ではなかった。

『畜蠱の箱庭で作られた毒など無意味。人間の手によって生み出された化学合成の毒物が、自然界に存在するボツリヌストキシンの毒性に及ばない事と同様…… 本物の前ではすべてが紛いもの』

仮面から聞こえてきたのは、静かで、冷たい声だった。

『近いうち、その毒が街中に溢れ返る。眠ってはならない夜が来る。その時はまた、こちらに』

その言葉の最後に重なるように、別の声がした。

【駄目だ。もう二度とここへ来てはいけない】

ボイスチェンジャーの声だ。同じ仮面から、二つの声が発せられているのだ。
私は混乱していた。混乱しながら、ただ、呆然と立ち尽くしていた。
空に浮かんだプラネタリウムの星々が、ますます輝きを強めている。尻尾と鰭のある海蛇の中心部の辺りで、一つの星が激しく輝きながら脈打っていた。その光が大きくなり、目が眩み始めた。
危険だ。なのに、逃げられない。
私は、目を閉じかけた。
その時、何の前触れもなく、すべての光が消えた。空の星はすべて消滅し、完全な暗闇が私達を覆っている。

【まさか】

ボイスチェンジャーの声。そして、カウンターのほうへ走る足音。
明かりが点いた。マント姿のルナが、カウンターの脇にあった照明のスイッチを押したのである。
明るくなった室内で、鳥居が発していた青白い光も、私の周囲を旋回していた赤黒い霧も、何もなかったかのように消えている。まるで幻覚を見ていたようだった。
しかしそれ以上に、私は、部屋の隅を見て驚いた。先程まで居なかった人間が居るのだ。それは見知った顔だった。鳥居よりも背が高く、金色の髪と碧い目が特徴的な女性……。

「イオリス……」

その女性――イオリスの手に黒いコードの束が握られている。コードは、それぞれ部屋の四隅にあるプラネタリウムの装置から伸びていた。
電源コードだ。
それを壁のコンセントから引き抜いたイオリスは、イタズラがバレた時の子供のように目を開いて、私とルナを交互に見ていた。

【やはり、あなたですか】

ルナがそう言ってイオリスに近づこうとしたが、イオリスはコードの束を投げ捨ててクローゼットらしき棚のあるほうに走り出すと、その扉を開けて、上着の束の中へと隠れた。
ルナはそれらを手で押し退けたが、クローゼットの奥が見えただけだった。イオリスは忽然と消えていた。逃げ場などないのは明らかだったのに。
すると、今度はカウンターの奥にある部屋から何事もなかったようにイオリスが顔を覗かせた。小馬鹿にしたような笑みを浮かべて。

「Hey! Fucking bastaed. Try to catch me!」

恐ろしく整った顔から、口汚い英語が飛び出した。
ルナがカウンターの奥の部屋へ、イオリスを追っていこうとしていた。

「今のうちに逃げろ」

大辻美子が短く言い放つ。逸早く反応したのは鳥居だった。彼女は繋いだままの私の手を引っ張った。出入口のほうへ。我に返った私は、もつれそうになる足に力を込めて走った。
視界の端に、流血して倒れているウラヌス――正親宗市郎の姿が映った。それで、先程までここで開かれていた集まりが、現実の事だったのだと思い出した。
部屋から出る時、振り返ると、ルナがカウンターの奥から出てくるところだった。ルナはこちらを一瞥して、両肩を落とす。

【単なる偶然でしょうが、あなたにジュピターと名付けたのは、失敗でした。まさか、あの衛星まで味方していたとは……】

ルナはこちらを追ってくる素振りを見せなかった。嘆くように、首を左右に振っているのみ。
私は鳥居を引き留めて、訊ねた。

「あえて、私もルナと呼ばせてもらうが、最後にルナが片付けた目に見えない金色の毒杯…… あれは、ちゃんと片付けられたのかい」

ルナの動きが止まる。

「しっかり確認したほうが良い。つい口を付けてしまったウラヌス以外にも、空になった杯があるやもしれない」

【……馬鹿な】

「殊の外、悪くない味だった」

【…………】

「数々の魔物を倒した大層な毒らしいが、神話の存在と言えども、LD50は通用するようだ」

その捨て台詞を最後に、固まったままのルナを無視して、私と鳥居は出入口から外に飛び出した。
深夜の寂れた街中は静かで、私達以外に、誰の姿もなかった。
夏を予感させるような風が街を包んでいる。
私と鳥居は、湿り気を含んだ風の中を、あの日のように走った。
駅が見えてきたところでようやく立ち止まり、顔を見合わせて笑った。二人とも、あの奇妙なマスクを付けたままだったから。
マスクを投げ捨てて、息を整えた。気温は低いものの、走ってきたので身体は冷えていない。むしろ、暑いくらいだ。

「いつも逃げてばかりだな、私達」

「遁走も立派な兵法です。長生きの秘訣ですよ」

同様に息を整えた鳥居が可笑しそうに笑いながら、答えた。

「そういえば」

鳥居は羽織っていたマウンテンパーカーの襟元を直しつつ、こちらを見上げながら訊いてくる。

「あの仮面が言っていた“純粋な毒”とは何ですか?」

「……翼とか、ドクターからは何も聞いていないのかい」

鳥居が首を横に振る。
確かに、思い返せば彼女達の口からその言葉が出てきた事はない。ただ単純に“毒”と揶揄されただけだ。ドクターは兎も角、何故か高校生時分の事まで把握している翼が知らないはずはないのだが。

「いずれ解る」

思わず突き放したような言い方をしてしまった。嫌な予感がしたからである。

「そう、ですか」

鳥居は私の顔を覗き込みながら、変に食い下がる事もなく渋々頷いた。しかしその目は、私の奥に在るものを、探ろうとしているようだった。

タイトルなし

もうすっかり寒くて身体の節々が痛むので、大学生時分の話でもしよう。
突然真っ暗になった事で、そこかしこから息を呑む気配がする。私も驚きを隠せなかった。
天井に小さな光が現れた。それは瞬く間に空を覆うように広がり、室内に夜空が生まれた。
プラネタリウムだ。そういえば、部屋の四隅に黒い球体の機械が設置されていた。あれがそうだったのだろうか。

「あら、綺麗ね」

マーキュリーの声がした。
確かに綺麗だった。だが、今更こんなものを見せて一体どうしようと言うのか。
しばらくすると天井で瞬く星の中に、薄っすらとした緑色の線が引かれる。それは、見覚えのある動物などの形をしていた。その上に、白い文字で名前が表示される。
牡羊座、牡牛座、双子座、蟹座、獅子座、乙女座、天秤座、蠍座、射手座、山羊座、水瓶座、魚座…… 黄道十二星座だ。横に長い楕円形の宇宙を、右から左へと横断するように、十二の星座が並んでいる。
どこからともなく、ルナの声が聞こえる。

【皆様も御存じの星座達が並んでおります。一直線ではなく、波打つように見えますのは、中央のラインが天の赤道…… そしてそれを春分点と秋分点の二箇所で、黄道が跨いでいる為です】

頭上のプラネタリウムに、宇宙の中央を割るように真横に伸びる赤色の線と、その上下で揺れるように並ぶ十二星座に沿った黄色の線が補足として引かれる。
再び、緑色が描画された。かなり大きい。蟹座、獅子座、乙女座、天秤座の辺りに渡って、細長い生き物が現れる。それは巨大な化物のように見えた。

【こちらは、海蛇座です。全天八十八星座の中で最も広い領域を持つものです。英語ではHydra(ハイドラ)と言います。どこかで聞いた事がお有りでしょう。馴染みのある古代ギリシア語では、ヒュドラと呼ばれます。ギリシア神話に登場する、とても有名な怪物ですね】

ヒュドラ。夜空に浮かんだその姿は、どことなく緑の身体に彫られたタトゥーを彷彿とさせる。
プラネタリウムを見上げたまま、抑揚のないルナの無機質な声に耳を傾けた。

【ヒュドラは大変強力な毒を持っている事で知られています。ヒュドラはアングルモアの魔王に遣わされて、地上を荒らし回っていましたが、やがて勇者リュケイオスに打ち倒されました。リュケイオスはそのヒュドラの毒を使って、他の多くの魔物を倒したとされています】

そこで、天井の星の光が弱くなり、代わりに私達が囲うテーブルの上に光が集まり始めた。
SF映画で見るようなホログラムのように、何もないはずのテーブルの上に、映像が浮かび上がる。周囲から、「おおっ」という感嘆の声がした。それは、装飾のついた豪華なカップに見えた。カップの中には液体が満たされているようだった。

【それこそが、ヒュドラの毒。多くの魔物を屠ったとされる、神話の中の毒物。毒物に造詣の深い皆様でも、この実物をご覧になった事はないでしょう】

ハハハ、と笑う声がする。ヴィーナスだろうか。

【ですが、それも無理はありません。神話という、物語の中の毒物だからです。即ち、人間が生み出した想像の産物です。しかしヒトの想像力は、時として、在りもしないものを、本当に存在するもの以上に長く世に伝える事があります。可笑しな事ではありません。過去から未来へ連綿と続く、神話の世界においては、これは実際に在ったものだからです。エリュマントスの猪を捕らえ、ケートスを倒した、恐るべき猛毒。いま私達の前に現れたこの杯の中の毒も、後世の何者かが残した記録の中では、投影された映像ではなく、実在しているのかもしれません。この世界は、無数の可能性を持ったパラレルワールドで構成されている。パラレルワールドの確定者であり、観測者たる人間にとって、実に都合良くできているこの宇宙の法則は、『そうでなければ観測者が存在できない』という逆説的な理由により定められる、人間原理的ランドスケープの中にあります】

淡々としたルナの言葉は、不思議なリズムを刻みながら、私の頭の中を掻き乱した。同様の話を、かつて姉が…… 容が、言っていたような、気がする。

【ご覧ください。この聖なる毒杯を。観測と互換する想像力が、無数の可能性の世界を、確定させる。あなたの頭脳は、頭蓋という密室の暗闇の中に閉じ込められている。光の届かない密室で、脳は視神経から送られてくる信号を捉え、あなたに幻を見せる。嗅覚受容体からは活動電位による匂いを、内耳神経の興奮は音を、皮膚の受容体からは圧力と振動を、味覚受容体からは膜電位の活性化により五つの味を、それぞれに受け取り、密室の中に世界を再構築する】

ぐらん、ぐらんと、世界が揺れる。天の星はすべて消え去り、目の前の杯だけが確かなものとして、そこにあった。

【脳は孤独です。それ故に幻を愛している。信じている世界がそうであるように、と願っている。とても、他愛なく】

ギィィィンンン…………。
頭を締め付けるような金属音が響いた。
すべての光が消え、やがて音も消えた。
何もない、真っ暗闇の中に、私は取り残される。
暗い。
寒い。
何も、ない。
そう思った瞬間、綺麗な黄金の杯が、現れた。
目の前に、ではない。
どこだ。どこにあるのだろう。
それは確かに存在しているのに、位置が掴めない。目で見ているわけでもない。物質的な空間ではなく、どこかよく分からない場所にあるようだ。ただ確かな事は、それは真ん中に、この私の世界の、中心にあるという事だけだった。
つまり、頭の…… 中に?

「あ」

眩しさに目が眩んだ。隣の鳥居が素っ頓狂な声をあげる。
室内の明かりが点けられたのだ。すっかり暗闇に慣れた目が、その明かりに拒否反応を示している。思わず手で顔を覆う。

「馬鹿馬鹿しい」

吐き捨てるような声が聞こえる。ウラヌスの声だ。

「俺はこんな茶番に付き合う為に来たんじゃない」

椅子の倒れる音がした。指の隙間から、薄目を開けると、ウラヌスが立ち上がり、カウンターのほうへ歩み寄っている。

「話が違うな、一間(かずま)。俺が求めてんのは超能力だ。研究成果だ。」

カウンターの前に佇んでいたルナに、ウラヌスが掴み掛るのが見えた。

「動くな!」

ウラヌスの隣に座っていたアースが叫んだ。
確かに、不用意に動くのは得策でない気がした。頭の中の杯は依然として消えていない。目の前の光景に、想像上のものを重ねる事ができるように、黄金の杯は確かにここにあった。
しかしそれは、日常で思い浮かべるイメージとはかけ離れた存在感で、且つ、決して自分の自由にはならない強固さで、ここに在るのだ。
そして、厄介な事にそれは、恐るべき猛毒で満たされた杯だった。
アースの制止などお構いなしに、ウラヌスはルナのマントの胸元を掴んで捻り上げた。

「こんなものは、単なるイカサマ。ペテンだ。俺がこれまで一体どれだけお前に投資したと思っている。ある程度形になったからと聞いて、わざわざ来てみれば、集団催眠紛いのインチキを」

【……およしになったほうが良い】

胸元を掴まれて、只事ではない剣幕で迫られながらも平然とした様子だった。

「廃棄だ。お前も、あのガキと同じ様に」

【そんな風に頭を傾けては】

ウラヌスはルナの仮面に顔を近づけて凄んでいた。私も、他の会員達も、狼狽えながらも立ち上がり、その成り行きを見ているしかなかった。
しかし、次の瞬間。

「ぐっ」

ウラヌスが呻いた。

「あが…… アっ……」

ルナのマントを掴む手の力が、急激に緩んでいくのが分かった。
その格好のまま、視線だけが天を仰いでいる。

「かズま…… てめェ、なニ、しやガッた……」

マスクに開いた目の穴の部分から、血が流れてきたのが見えた。その血がマスクと頬を伝って、足元に滴っていく。
次の瞬間、ウラヌスが床に崩れ落ちた。
猛毒で満ちた杯を傾けて、侵されたのだ。誰に言われるでもなく本能で理解できた。

「だから、動くなと」

アースが顔に手を当てて、溜息を吐いた。器用に、頭部の位置を保ちながら。

「案外、呆気なかったな…… まあ、倫理もとる人体実験を行っていた人間の末路なんて、こんなものか」

倒れ込んだウラヌスはしばらく断続的で弱々しい呻き声をあげていたが、それもやがて聞こえなくなった。

「とんだ騒動に見舞われたが、これは素晴らしい」

ヴィーナスが、ゆったりとした口調で言った。

「ええ。流石に初めての体験ね」

マーキュリーがどこを見て良いのか分からない、という様子で、視線を宙に彷徨わせている。

「あー、びっくりしたなあ」

ネプチューンは、動悸を止めようとするように自分自身の胸を抑えている。

「しかし、これでは飲めんな」

サターンが不服そうに言う。頭の上を探るように、手を振り回しながら。
異様な状況だった。目の前で一人の人間が血を噴いて倒れたというのに、誰もが気にも留めていない。宙に浮かぶ毒杯に夢中だ。知人と思しきアースでさえ、他人事のように動かなくなったウラヌスを憐れむだけ。
すると鳥居が、声を震わせながら、ルナに言葉を投げ掛けた。

「い、今のは…… この畜蠱の箱庭の、ルールに反しているのではありませんか。あなたが説明したルールその二は、『参加者は、提供された物を摂取するか否か、自由意志により判断するものとする』だったはず…… でも彼は、自由意志で摂取していません」

鳥居の抗議に、ルナが淡々と返答する。

【毒は杯に注いで提供しました。気化するものでもありませんし、基本的には安全です。それを本人のミスでどこにこぼそうが、私の関知するところではありません】

「き、詭弁です!」

「詭弁かどうかは兎も角、このままでは飲めないのは確かだ」

ヴィーナスが不満げに呟く。
飲めない? そんな事はないはずだ。現に、このウラヌスとやらは杯の中身を飲んで倒れた。

【では、そろそろ片付けましょう】

ルナがそう言った瞬間、また店内の明かりが消えた。
真っ暗な闇の中で、あの不快な金属音が再び鳴り響いた。
ギィィィンンン…………。
何らかの舞台装置なのだろう。私は軽く耳を塞ぎながら、音の出処を探っていた。
しかし気が付くと、照明が点いていて、先程と変わりのない店内の様子が見えた。
私は両手で自分のこめかみの辺りを押さえた。
何だったのだろう、あれは。幻覚と言われたらそうなのかもしれない。だが、確かに先程まで、それは存在していた。
床を見ると、倒れたウラヌスはそのままだった。やはり微動だにせず、呻き声も聞こえてこない。

【さて、私は倒れられた方を治療しなくてはなりません。本日の畜蠱の箱庭は、これにてお開きとさせていただきます】

ルナの言葉に、常連達から拍手が上がる。

「最後のは本当に素晴らしい。もっと研究して、より良いものを見せていただきたいものだ」

ヴィーナスがそう言うと、他の三人が頷く。
常連達はそれぞれ衣服の皺を払うと、ルナに挨拶をして、何事もなかったように店から出て行こうとしていた。
鳥居がその背中に、叫んだ。

「あのヒュドラの毒杯が手に取れたなら、あなた方は飲んだんですか」

一番後ろを歩いていたサターンが振り返り、「無論だとも」と言った。

「神話に伝えられる、伝説的な毒なのだから。興味は尽きない」

「それでもし、死んでしまったら?」

「そういう運命だった…… という事だろう」

サターンはマスクを取ると、目元が見えないようすぐにサングラスを掛け、さらにハンチング帽を被りながら、軽く会釈をした。

「では、ごきげんよう」

最後にそう言い置いて、夜の街へと消えていった。

タイトルなし

もうすっかり寒くて身体の節々が痛むので、大学生時分の話でもしよう。

【さて、常連の方々は、そろそろ退屈してくる頃かもしれませんが、もうしばしだけ初心者向けのご説明にお付き合いください。最初に私は、『あらゆる物質は毒になり得る。重要なのは量だ』と申し上げました。これは間違いなく真実なのです。しかし、量だけでなく、毒性の強さも非常に重要な要素です。量次第で毒になるとは言っても、水とトリカブトを同じ括りにするのは一般的ではありません。常識的に毒と言えば、『少量で健康を害する物質』という定義がしっくりくるのではないでしょうか。つまり、毒性の強さですね。この毒性の強さを表すものとして致死量という言葉があります。ただ、これもあまり正確な言葉ではありません。何故なら、人間には必ず個体差があるからです。数人が同時に、同じ毒を同じ量だけ摂取しても、死ぬ人と死なない人が現れます。体重や遺伝的体質などによって影響が異なるからですね。なので、生物学界隈では“LD50”という基準を用います。これは、『特定の生物の集団に投与して、おおよそ半数が死亡する量』という意味です。半数致死量とも言います。LD0(ゼロ)ならば最小致死量を意味し、最も弱い個体が死ぬ量。LD100の場合は絶対致死量という事になり、最も強い個体でも死ぬ量となります。これら二つは特定の集団内で、飛びぬけた耐性の強弱があると成り立たない為、最初に申し上げた半数致死量のほうが…… つまり、LD50のほうが毒性の強さの表現として、より信頼度が高い基準と言えます】

ルナはそう説明しながら、テーブルのグラスを片付けていった。

【この世に存在する毒の中で、人体に対して、最も強い毒性を持つものとは一体何か。御存じでしょうか】

「……青酸カリ?」

左隣の鳥居がこちらに視線を向けながら、言った。すると常連達が小さく笑う。無知を嘲っているのだろう。
うちの後輩を笑うとは良い度胸しているなと、それぞれに視線を向けると常連達は咳払いをして、何事もなかったように居住まいを正した。

【そうですね。青酸カリはとても有名な毒です。化合物ですので、植物毒や動物毒などに比べると歴史は浅いですが、近年では毒物を使った事件などで、度々使用されるようになりました。“青酸”と言うのが、シアン化水素の事で、カリウムと反応させたものが青酸カリ。ナトリウムに加えると青酸ソーダと呼ばれるものになります。青酸ソーダは一九八四年のグリコ・森永事件でも使われましたね。青酸カリのほうは、戦後まもなくの帝銀事件が有名でしょうか。自身を医者と偽った銀行強盗が、『赤痢の防止薬だ』と言って青酸カリを行員に飲ませ、十二人も殺害しました。痛ましい事件です。人体にとって毒性があるのは、この青酸カリという固体、若しくは液体自体ではなく、それが何らかの物質と反応して発生する青酸ガスなのです。グリゴリー・ラスプーチンという帝政ロシア末期の怪人の名前を、お聞きになった事があると思います。彼は暗殺の対象となり、この青酸カリを混ぜた料理を食べさせられました。しかし、彼には青酸カリが効かず、結局は銃で撃たれた後に川へ放り込まれて、溺死となりました。これは、彼が無酸症という特異体質で、胃酸が分泌されておらず、体内で青酸ガスが発生しなかった為だと言われています。ただ、この青酸ガスは発生すれば猛毒ですが、それを発生させる為に必要な青酸カリの量は、かなりのものです】

ルナが、【お口直しに】と言ってミネラルウォーターのペットボトルをテーブルに置いた。一応、ここでも常連達が飲むのを確認してから口を付けた。

【青酸カリの毒性は、先程のLD50という基準で言うとすれば、体重一キログラムあたり十ミリグラムです。体重が六十キロの成人男性なら、最低でも六百ミリグラムほど必要だという事です。小さじ一杯の十分の一の量ですね。そして、LD50なので、それを飲んだ人の半数が死ぬ程度という事です。こう聞くと、『充分に強い毒性を持っているんじゃないか?』と感じるかもしれません。しかし、並みいる猛毒の中においては、その毒性は低いと言わざるを得ません。たとえば、煙草に含まれるニコチンのLD50は、キログラムあたり七ミリグラムです。意外にもニコチンのほうが、青酸カリよりもずっと毒性が強いのですよ】

それを聞いて、翼を想起した。人前では決して喫わないらしいが、彼女は喫煙者だった。以前、サークル棟の屋上に繋がる階段の前で煙を燻らせていたところを目撃したのである。未成年でもあるまいし、別に隠れる必要もないと思うのだが、独会部長としてのイメージとやらに傷がつくと考えているそうだ。

「リシン、とかですかねえ」

あっという間にペットボトルを空にしたネプチューンが発言する。

【素晴らしい。よく御存じですね。リシンはトウゴマという草の種子に含まれているタンパク質です。トウゴマ自体は観葉植物として親しまれていますが、山のほうに行けば自生しているものもよく見られます。この辺りですと、藻岩山などでしょうか。トウゴマの種から精製できる油は、ヒマシ油と呼ばれていて、下剤として使われる事もあります。リシンは、ヒマシ油精製時の副産物として生まれます。大変強力な毒性を持ち、トウゴマの種を数粒口にしただけでも、含まれるリシンの作用で嘔吐や痙攣を起こし、死亡する事があります。経口摂取よりも血中に直接流し込んだほうが、より強い作用を及ぼします。その毒性の強さは、先程の青酸カリとは比較になりません。リシンのLD50は、キログラムあたり一マイクログラム以下。青酸カリのおよそ十万倍の毒性という事になります。これは、耳掻き一杯分の量で三千万人の人間を殺せるほどの毒性です】

「そんなものが、あの山に……? しかも自生?」

幾らなんでも強力過ぎると思ったのか、鳥居が呟いた。これにはルナの真向かいに位置する常連組の一人である女性――マーキュリーが答えた。

「口にすれば危ないものなんて、世の中には溢れ返っているものよ。毒キノコだってそうでしょう?」

「正月になれば餅という毒が猛威を振るっているしな」

これはマーキュリーの隣、最古参のヴィーナスの発言。
この畜蠱の箱庭においては定番のジョークだったようで、周囲から微かに笑い声が聞こえてくる。

【餅は兎も角として、確かに身近なものでも非常に強力な毒性を持つものがあります。フグ毒などもよく知られていますね。フグの毒はテトロドトキシンと言い、LD50はキログラムあたり十マイクログラムです。青酸カリの千倍ですね。毒物の中でも、十指に入る強さです】

「以前開催された、サバフグとドクサバフグの見分けゲームでは流石に死に掛けた」

右隣のサターンが笑いながら言う。

【フグ毒は、体内で生成しているわけではありません。フグが食べる海藻に付着したプランクトンなどがその起源です。フグがその毒を体内に溜め込み、生物濃縮によって強い毒性を獲得しているのです。このメカニズムは、シガテラという食魚介類の中毒でも同様です。シガテラを引き起こすシガトキシンという毒は、テトロドトキシンとは作用が異なりますが、とても強い毒です。下痢や血圧降下といった症状の他に、ドライアイス・センセーションと呼ばれる珍しい知覚異常を引き起こす事で知られています】

ルナがサターンのほうを、一瞥した。サターンは頷くと痩せ細った両手を目の前に広げる。

「私はいま、そのシガテラ中毒の回復期にある。概ね良くはなったものの、水などが非常に冷たく感じられる知覚異常だけは、なかなか抜けないのだ」

両手には厚手の手袋が着けられている。そういえば、先程のコカ・コーラでも、ペットボトルでも、やけに慎重に手に取っていた。

「素手で持てば、飛び上がってしまう」

サターンは他人事のように笑っている。私は、その姿に不気味なものを感じた。ようやくこの“畜蠱の箱庭”の異常性が垣間見えてきたように思えた。
常連達を改めて観察してみると、マスクの下の顔に、ある共通点が見出せた。肌が荒れているのである。乾燥をする季節でもないというのに、変に黒ずんでいたり、カサカサとした見た目だったり…… これは、毒を体内に取り込み過ぎて、血管やら内臓やらがダメージを受けている証左と言える。特に、右隣のサターンには明らかな黄疸が見られる。肝臓は勿論の事、テトロドトキシンで腎臓も破壊されているに違いない。回復期だの何だのと宣っていたが、サターンという名の席が空くのも時間の問題か。

【さて、先程の、最も強い毒は何か? という問いの答えですが……】

ルナが、サターンから私へと視線を移した。

【ジュピター様ならば、お解りでしょう】

含みのある言い方だった。

「……ボツリヌストキシン」

【まさしく、その通りです。現在はダイオキシン類やVXガスなど、大変な猛毒が化学合成で生み出されていますが、人体に対する毒性という一点においては、ボツリヌス菌が齎すボツリヌストキシンに遠く及びません。ボツリヌス菌は土の中に、芽胞の形で広く存在する細菌です。ボツリヌス菌を含む食物を摂取した人間の腸管内で発芽し、ボツリヌストキシンという毒を出します。乳児に蜂蜜を与えてはいけない、という話を聞いた事があるでしょうか。それは、乳児の腸管内細菌が未発達である為、蜂蜜に含まれているボツリヌス菌の発芽が起こりやすく、乳児ボツリヌス症を発症する可能性がある為です。ボツリヌストキシンの毒性は、先程ネプチューン様が仰ったリシンの、数百倍から数千倍。わずか五百グラムで世界人口の半数を死に至らしめる事ができるとも言われている、最強の毒物です。数年前、東北のアパートで人知れず培養していたという女子学生が居たそうですが、取扱を誤って死亡してしまったとか……】

ルナが、裏から取り出したトレイをカウンターの上に置いた。その、カンッ、という音に全員がビクリとする。鳥居などは、椅子から半分腰を浮かせていた。
しかし、ルナは仮面の下のボイスチェンジャー越しに、クスクスと笑う。

【失礼。畜蠱の箱庭と言えど、流石にボツリヌス菌はお出しできません。とは言え、そろそろ常連の方々は初心者向けの説明に辟易としてきたでしょうから、次のものをお出しします】

再び、グラスがトレイに乗せられて運ばれてきた。今度は赤黒い液体が入っている。見た目だけならばコカ・コーラのそれと似ているが、炭酸が入っている様子はない。

【こちらは、コブラ毒のワイン割りです。かのプトレマイオス朝最後の女王、クレオパトラ七世が自害に使用したという伝説が残っているのが、この毒蛇…… コブラの毒です。彼女は蛇に乳房を噛ませて自殺したと伝えられていますが、その際に使ったのはコブラではなく、クサリヘビだという説もあります。ただ、神経毒のコブラに対し、クサリヘビは出血毒です。その毒は血管や内臓を破壊し、皮膚はただれ、傷口からも多くの出血を伴います。絶世の美女と言い伝えられているクレオパトラ七世の散りざまとしては、あまりに似つかわしくないでしょう。なので、今回はエジプトコブラの毒を使用させていただく事にしました】

「マムシ酒みたいなものかしら」

とマーキュリーが能天気に口を開く。

【蛇の毒はタンパク質なので、熱やアルコールなどで容易に変質します。毒蛇であるマムシを漬け込んだ酒を飲んでも平気なのは、度数の高いアルコールによって毒が変質し、弱まっているからです。コブラ毒のLD50は青酸カリのおよそ五十倍と、それなりに強力ですが、今回のものは毒性を調整してあります。尤も、安心安全なマムシ酒とは違い、お楽しみいただける程度のものにはなっていますが】

ここからが本番だ、と言っているように聞こえた。常連達が興味津々に手を伸ばす中、隣の鳥居は動かなかった。先程は真っ先に取れと言っていたのに。そして、ゆっくりと動くサターンの手が届く頃に、ようやくグラスを持った。私は最後のグラスに手を伸ばした。
澄ました顔で、グラスの中の液体の匂いをかいでいるその姿を横目で見ながら、私は鳥居の思惑を察した。
飲む気はない。
グラスを傾ける常連達に続いて、鳥居もグラスを口元に持っていく。しかし、飲む振りだけだ。赤黒い液体は閉じられた唇に堰き止められる。そして口元を拭って、何食わぬ顔でグラスを置いた。
一方で、私は気にせず口に含んだ。そもそも酒が好きではないというのもあるが、それを差し引いても度数が高く、飲み難い。常温なのに熱を感じる。

「あっ、花塚さん」

それを見て鳥居が目を見開きながら、グラスを持っている私の腕を強引に引っ張った。次いでお叱りの言葉が控えめに飛んでくる。

「あなたという人は……! 危機感とか、そういうのはないんですか! 散々忠告したのに」

「まあまあ。折角だから」

「なにを呑気に! 今すぐ吐き出して!」

「無茶を言わないでくれ……」

などと小声でやり合っていると、「ううっ」と呻くような声がした。向かい側のウラヌスの口から発せられたようだ。ウラヌスは左右に頭を振ると、「俺にはキツイな」と溜息交じりにこぼした。その時、ウラヌスの隣に居るアースと目が合った…… ような気がした。彼女の手元にあるグラスの中身も、鳥居と同様に減っていない。彼女も飲んだ振りをしたのか。
他の常連達は平然としている。そして、身体の変調を確かめるように、目を閉じてゆっくりと深呼吸をしていた。

「なるほど」

ヴィーナスが感慨深そうに呟いた。
何が“なるほど”なのが一切解らないが、馴染みのない私でさえ何の不調も起こさないのだから、彼らにとっては物足りないのではなかろうか。
その後も、主催者ルナによる毒物に関する蘊蓄を聞かされながら、数品の飲食物が提供された。
秦の始皇帝が求めた不老不死の妙薬『丹薬』の伝説や、ルネサンス期のメディチ家繁栄の陰で暗躍したとされる、『貴婦人の毒』と呼ばれるトファナ水の逸話など、結構心魅かれるものも幾つかあったが、それに因んだ提供物は、流石に口にしなかった。手を伸ばそうとする度に鳥居が睨みつけてくるからである。
飲んだ振り、食べた振りばかりしていて、感想を聞かれたらどうしようかと思っていたが、ルナだけでなく、他の参加者も他人には興味がないのか、常連達もこちらに話し掛けてくる事はなかった。
そうして、今まで経験した事のない異様な空間での時間は刻々と過ぎていき、やがて、毒を飲んでいないはずの私の頭がじんわりと眠気を訴えてきた頃…… パンッ、という乾いた音がして顔を上げた。
ルナが両手を叩いたのだ。全員の視線がそこに集まる。

【さて、皆様。本日の催しも、残すところ最後の一つとなりました。ここまでお楽しみいただけておりますでしょうか。初めて参加された方々の一部は、戸惑いもあったかもしれません。至らない点につきまして、主催者として申し訳なく思います】

慇懃に頭を下げたその姿には、意味深なものを感じた。
私は、途中から一切口にしていない事がバレたのだと思った。私達に向いた常連達の視線もそれを物語っている。
だが、些末も些末。文句があるのなら言ってみろ、と開き直って椅子に深く腰掛けた。

【最後は、常連の方々も馴染みのない、一風変わった毒をお目にかけようと思います。毒物を口に入れる事が、なかなか躊躇われる初心者の方々にもご参加いただけるものです】

黒いクロスで覆われているテーブルの上は、すべて片付けられている。

「末端の枝葉の違いは兎も角、大抵の毒は経験してきたと自負しているがね」

常連達を代表して最古参のヴィーナスが言った。

【勿論、皆様の毒物への興味や好奇心、そして愛情からくるこれまでの経験は、並々ならぬものであると承知しております。それでも、これは恐らくご覧になった事がないものでしょう】

ルナの自信満々な言葉に、ヴィーナスは、「そこまで言うのなら」と頷いて一旦溜飲を下げた。

【――では、始めます】

ルナが両手を広げた瞬間、室内の明かりが一斉に消えた。

タイトルなし

もうすっかり寒くて身体の節々が痛むので、大学生時分の話でもしよう。

【まずお飲み物をお持ちしますので、少々お待ちください】

ルナがカウンターのほうへ移動した。
鳥居がまた顔を寄せてきて、囁く。

「花塚さんの右隣に居る痩せぎすな人と、あっちの太った男の人がここの常連みたいですね」

「そのようだね。特にあの恰幅の良い男性は最古参だとか」

「なのに、どうして金星なんですか」

言われてみれば確かに。参加者それぞれに名付けるとしても一番最初ならば水星が妥当なところだが、金星。太陽系惑星の二番目…… つまるところ、最古参であっても一番最初の参加者ではない。

「最初の水星は居なくなったと考えるべきだろう。さらに、その次に古株と言われた土星までの地球・火星・木星も居なくなった。詳しい事は分からないが、間違いなく私達は二週目以降…… 一体それまでに何名の人間が去っていったのやら」

肩を竦めて言うと、鳥居の表情がわずかに強張った。入れ替わりが激しいという事が何を指しているのか理解したのだ。

【時に、新しい四名の方にお訊ねします】

ルナがカウンターの上にグラスを並べながら言った。

【まずもって“毒”とは一体何でしょうか】

「人体にとって有害とされているものさ」

先んじて私が答える。

【ええ、ええ。とても良い答えです。主体が“人体にとって”というところがポイントですね。たとえば、殺菌に使用されるアルコールは人体にさほど影響がなくても、虫や細菌などに対しては極めて有害な毒と言えます。遡れば…… 太古の昔、地球に存在した生命体は本来、酸素のない環境で生きる嫌気性生物でした。それが、海中の酸素濃度の上昇に伴って多くの種が絶滅しました。彼らにとって、酸素は猛毒だったのです。やがて、その大量絶滅の中から、酸素という毒に耐性を持った生物が誕生し始め、エネルギー源として使用するようになります。今では人間にとって、酸素はなくてはならないものです。私達にとっては何でもないものでも、他の生物にとっては有害かもしれません。どこかに主体を置かないと、定義できないのです。つまり、“人体にとって”という定義があって初めて私達は毒を語る事ができるのです。勿論、鼠にとって、猫にとってと…… その都度、主体を変えて論じる事もできますが】

私は尤もらしい解説を話半分に聞き流していたが、左隣の鳥居は何気ない体を装いながら、ルナの一挙手一投足を観察しているようだった。

【では、私達人間にとって、酸素は毒ではないと言えるのでしょうか】

ルナは自問するように投げ掛ける。

【答えは、いいえ。混じり気のない純粋な酸素は人体にとっても大変有害です。恐ろしいほどに。高濃度の酸素を吸引すると、たちどころに酸素中毒を起こし、意識障害や呼吸困難を引き起こします。大気中においては、約二十一パーセントという濃度でこそ、人体に影響がないだけです。では、水はどうでしょう。水こそ無害だとお思いかもしれませんが、これも大量に摂取すると中毒症状を起こします。血液中のナトリウムイオン濃度を低下させて、頭痛や嘔吐、痙攣、そして呼吸困難を引き起こし、死に至らしめる事も…… 要するに、基本的に人体に入るあらゆる物質は生物活性を持ち、毒となり得るという事です。重要なのは、その量なのです。これは薬においても同じ事です。毒と薬をまったく逆のものだとお考えになっている方もいらっしゃるかもしれません。しかし本来、毒と薬に明確な違いはありません。どちらも人体に入ると生物活性に影響を与える物質です。人体に有効な効能を持つ薬であっても、副作用として、少なからず害をもたらします。また、薬として処方されているものは、必ず用法用量が定められていますが、これを超えて摂取すると、中毒や副作用の危険性が増してしまいます。逆に、有名な毒として知られているトリカブトですが……】

ルナはひとしきり説明を終えると、【どうぞ、お試しください】と言って、皿の中のものを全員に勧めた。

【こちらは、食用の塩附子です】

附子か。生薬としてなら幼少期からうんざりするほど飲んできたが、調味料として対面するのは初めてやもしれない。
私達が様子見をしていると、ヴィーナスやマーキュリーといった常連達が気軽に手を伸ばし、その赤黒いものを摘まんだ。そして匂いをかいだ後、口に入れた。

「久々に口にしたが、悪くない。個人的には生姜と混ぜた乾姜附子湯のほうが好みだが」

と私の右隣のサターンが咀嚼しながら、誰に言うでもなく呟いた。
私達と同じ新顔のウラヌスとアースも、恐々としながらも食べたようだ。残された私と鳥居も顔を見合わせた後で、塩附子を手に取った。
口に入れると、辛味が広がり、舌先がわずかに痺れた。存外に嫌いではない。一方の鳥居は顔をしかめて、小さな舌を出している。口に合わなかったらしい。

「乾姜附子湯も良いですが、渋味のある麻黄附子細辛湯のほうがいかにも漢方らしくて好きですね」

先程のサターンの発言を拾って感想を言ってみると、サターンはこちらに向き直って、「ほう」と感嘆した。

「漢方薬の素晴らしさが理解できるとは…… 若そうに見えるが、見どころがあるな」

「諸事情で沢山の漢方薬と触れてきたもので」

「なるほど。君とは話が合いそうだ」

サターンが肩を揺らして笑う。

【ちなみに、世の中には毒島と書いて“ぶすじま”と読む、変わったお名前の方がいらっしゃいますが、毒を“ぶす”と読むのはトリカブトの附子(ぶし)から来ているそうです。日本においては、それだけ代表的な毒だったという事でしょうね】

ルナはカウンターから、銀色のトレイを持ってきた。トレイには液体の入ったグラスが八つ。そのトレイのまま、テーブルの上に置かれる。

【コカインという麻薬を聞いた事がお有りでしょう。あれは、南米原産のコカという木の葉から抽出した成分を使用しています。南米のインディオ達は、古くからこのコカの葉を、疲労回復の作用があるとして噛んでいたそうです。やがてインカ帝国を征服したスペイン人が、ヨーロッパにコカの葉を持ち帰り、ワインと混ぜた、ビン・マリアーニと言うアルコール飲料を考案します。これがアメリカにも輸入されてブームを起こしますが、十九世紀末葉の禁酒法の時代になり、流通が困難になります。そこで、ジョン・ペンバートンという薬剤師が、ノンアルコール飲料として、コカの葉の成分を使用したものを開発しました。コーラの木のナッツのエキスと混ぜたそれは、『コカ・コーラ』と名付けられて販売されるようになります。当初のコカ・コーラは百ミリリットルあたり、約三ミリグラムのコカインを含み、鎮痛作用や覚醒作用を持つ薬品として扱われていました。しかし、コカインの中毒や禁断症状といった危険性が知られるようになると、コカ・コーラも規制の対象となり、二十世紀初頭には、コカインの成分は取り除かれるようになりました。皆様も、一度はコカ・コーラを口にした事があると思います。それだけ有名なコカ・コーラにも、そんな毒と薬の歴史があったのです】

「今も、コカインの成分が入ったコーラが秘密裏に販売されている、なんて都市伝説がありますけどね」

ネプチューンと名付けられた大柄な男性が、ぼそりと言う。体格に似合わず、陰気そうな声色だった。
するとネプチューンの隣…… ウラヌスが反応する。

「俺はペプシ派だな」

【ペプシ・コーラも、元々は消化を助けるペプシンという薬用成分の入った薬用飲料です。まあ、コカ・コーラは麻薬という人体の害となるものでも用法用量次第では薬になる、という好例ですね。本日は、そんなアメリカの歴史に思いを馳せていただきながら、当時のコカ・コーラを再現したものを、楽しんでいただきましょう】

私達は、改めてトレイの上の乗せられたグラスを見つめる。真っ黒な液体が、ぷつぷつと細かな泡を浮かべていた。

「本物のコカインが入っているのか」

アースが訊ねた。

【ええ。ですが、ごく少量ですよ。薬用飲料の一つとして広く飲まれていたものです。畜蠱の箱庭というアンダーグラウンドなこの場に、麻薬取締法が気になるような方は、恐らくいらっしゃらないかと思いますが】

挑発された形となったアースだったが、本人はあまり気にしていない様子でグラスに手を伸ばした。
それを見た鳥居が、私に素早く耳打ちをする。

「花塚さん。とりあえず、取りましょう。どれでも良いですから」

そう急かされて私は身を乗り出し、一番手前のグラスを取ろうとしてから、もうひと伸びして一つ向こう側のグラスを掴んだ。鳥居も同じようにした。
そして、ゆっくりと残りのグラスを常連達が手に取る。全員に行き渡ってから、鳥居がまた私に耳打ちする。

「様子を見ましょう」

鳥居は、常連達の動きをじっと見ている。やがて彼らが、グラスを傾け、それぞれ感想を述べ合うのを見計らってから、OKサインを出した。
ほんの少しだけ口に含んでみる。開発当時のコカ・コーラと言われると、多少興味があった。
普通のコーラとは、やはり違った。先入観があるからか、市販のそれよりも薬臭い。薬用飲料と言うだけある。だが、コカインの成分とやらは分からなかった。身体にも特に異常はないようだ。
口の中で歴史あるコカ・コーラを味わいながら、私は鳥居の言葉の意味を考えていた。
解っている。畜蠱の箱庭は、もう始まっているのだ。
もし飲み物に危険な毒物が混入されているとしたら、新顔の私達が狙い撃ちされる可能性が高い。たとえば、常連にのみ判別可能な目印や配置の仕方があって、先に安全なものを取られてしまうと、私達が残った毒物入りのものを取らざるを得ない事になる。そこで、常連よりも先に取る事で、そういった状況に陥るのを防ぎつつ、さらにすべてのグラスに毒物が混入されているような場合であっても、先に飲ませる事で、様子を見る事ができる。
先程の塩附子のように皿に盛られて出てきたものとは違って、グラスの飲み物なら、内輪の決まり事を設定しやすい。
私は、周囲の参加者を順番に見回して、緩みかけている気を引き締めた。
プロフィール
窓さんのプロフィール
性 別 男性