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「おにいちゃん…、レンキにいちゃんも、どうしたの?」
「……」
「なんでもないよタミ」
風呂の一件の翌朝、タミはいつの間にか戻ってきた煉鬼に初めこそ喜んだものの、兄の見たこともないような不機嫌ぶりに困惑していた。
煉鬼はあれから一言も話さない。どこから調達してきたのか、酒瓶をぶらさけて時折喉を潤している。
「じゃあタミ、オラはお宿の手伝いしてくるから、大人しく待ってるんだよ?」
「うん…。がんばってね」
心配させまいとぎこちなく笑う臣に、余計にタミは心配そうに兄を見送った。
トントントン、と急な階段を下りていく音が遠ざかっていく。
「お兄ちゃんと、喧嘩したの?」
「いつものことだろ?アイツは小さいことですぐ怒りやがる」
「でも、あんなに怒ったおにいちゃん、はじめて…」
「うるせぇな。兄弟揃って口やかましいぞ」
タミの言葉を遮って、鬼が低く唸った。角は生やしていなくても、人間には出せない怒気が部屋を包む。大人であったら失神していたかもしれないほどだったが、普段から煉鬼に慣れていたタミはただ言葉を飲み込んだ。
しかしやはり大人に睨まれて嬉しいはずもない。タミは慌てて立ち上がると部屋を出て行ってしまった。
「・・・ふん。あんなガキ、知るか」
とぷ、と酒瓶から直接酒を飲む煉鬼。階下の臣のところに行ったのだろう。また臣の機嫌が悪くなるな、と考えたところで、鬼は盛大に舌打ちした。
「嫁の機嫌取りなんか誰がするか」
日が傾き、くたくたになった臣が帰ってきた。そこにはいびきを掻いて眠る鬼と、妹が…。
「タミ…?タミ?
れ、煉鬼さま!タミは??タミはどこですか?!」
「んぁ?」
狭い部屋を見渡して、少女の姿がどこにもないことに臣は動揺する。一方鬼はあくびをしながら、胸を掻いた。
「知らねぇよ。お前のところに行ってたんじゃなかったのか」
「き、来てません…」
さっと臣の顔から血の気が引いて、無意識に掴んでいた鬼の腕を離すとバタバタと部屋から出て行く。残された煉鬼は小さな窓を開けて、外の匂いを嗅いだ。
「遠くには行ってねぇな…」
身を乗り出しそうになって、煉鬼は「いや待て」と自分を制止した。
さきほど「嫁の機嫌取りなんかするか」と思ったばかりだ。乞われてもいないのに探す必要はあるまい。そう考えたのである。
ドスンと座りなおして頬杖をついた。
「探してほしかったら、しおらしくお願いしてみろってんだ」
「タミ!タミー!」
宿の主人に外出する許可をもらう際「最近は人攫いなんかもいるから気をつけろよ」と言われ、血眼の臣である。宿を出る前に、ちらりと鬼の顔が浮かんだが、昨日あれだけ怒らせてしまったのだから、頼んだところで加勢は望めないだろう。そう考え、泣きそうな顔で村を奔走していた。
何時間そうしていただろうか、いよいよ日が暮れるという頃になって、神社の近くでしゃがみこんでいた女の子を見たという情報をもらい、そちらに走る。結果として、タミは宿からそう離れていない人気のない神社にいた。
「タミ!!」
「あっおにいちゃん」
兄の姿を見て、ほっとした顔をするタミ。来たのはいいが、帰り道がわからなくなっていたのだ。
「どうして大人しくしてなかったんだい?心配したじゃないか」
「ごめんなさい…。これ探してたの」
そういって少女は握っていたものを兄に差し出す。
それは紫色の小さな花だった。
「タミが病気で寝込んでる時、おにいちゃんこれ摘んできてくれたでしょ?そしたらタミ、元気になったから…、」
兄にも早く元気になってほしかったのだと泣きそうな顔で言われては、叱れなくなってしまう。
臣は、こっそり溜息を吐いて、妹の頭を撫でた。
「ごめんな。タミも心配してくれたんだな」
うん、と頷くタミを抱き上げる。
タミのためにも、臣は帰ったら煉鬼に謝ろうと思った。
よくよく考えたら、わかったことなのだ。
今までだって、誰かに気付かれそうな状況はいくらでもあった。特に隣でタミが寝ていたときなど、どう考えたってあれだけ騒いで暴れていれば起きないはずがない。
煉鬼はずっと前からまじないをかけて事に及んでいたのだろう。だから彼にはいつものことだったのだ。
その不器用な優しさは、とても煉鬼らしい。
臣は暖かい気持ちになった。
「早く帰ろう。煉鬼様が待ってる」
「うん!」
自然な笑顔に戻った兄を見て、妹もこっくりとうなずく。
しかし境内を出ようとしたところで、こちらを伺う気味の悪い男たちが兄妹の行く手を阻んだ。
「…通してください」
男たちはひそひそと何言か交わすと、臣を囲むように立った。
煉鬼よりは小さいが、それでも臣よりは横も縦もある。
「金があるなら置いていけ。なければそのガキでいい」
「ッ…」
タミをぎゅっと抱きしめて、臣は男たちを見上げた。夕暮れの時間だ。男のギョロリとした目がやけに目立った。
「と、通してくださ…」
ドンと横から衝撃が襲う。蹴られた、と思ったころにはすでに臣は境内の石段に倒れ伏していた。しかも運悪く額をぶつけてしまったらしく、顔をドロリとしたものが流れる。
「う…」
「おにいちゃんっ」
クラクラする。霞む意識の中で、しかし臣は妹を離さなかった。男たちが臣を取りかこんでくる。タミを守るようにうつぶせになって体を丸める臣を無情に蹴りつけた。
「死にたくなけりゃ大人しく渡しな。俺らが上手く使ってやるよ」
「やだ…っ」
「けッ馬鹿が」
抗ってみるが、暴力と無縁の臣である。たった数発でも、すでに意識が飛びかけていた。
男たちはさっさと臣を気絶させて、タミを連れ去ろうと考えたらしい。ひとりの男が棒をもって、軽くブンブンと振り回す。空振りの音と、ほかの者が離れていく気配でそれを察した臣は、思わず叫んだ。
「助けて…煉鬼様ッ!!」
「上出来だ、臣」
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