*まとめ*




 それから暫く後、銀時が桂と坂本を連れて走ってきた。三人を待っていた時間はほんの数分程だったのだろうが、高杉には無限のようにも感じられた。


 「どうしたんだ高杉、新八くんが崖から落ちて意識がないだと!?」

 新八を抱き抱える高杉の傍らに、最初に駆け寄ってきたのは桂だった。頬に少しばかりの泥汚れがあるが、それ以外は至極きちんとした身なりのままだ。敵をどれだけ斬っても乱れぬ様相が桂らしい。

「ああ……どう呼び掛けても目を覚まさねえ」

 高杉は新八を抱いたまま、ポツリと答える。
 雨雲に隠れた中でも陽は既にかなり傾き、先程から敵の姿も見えない。どうやらここでは攘夷の軍勢に勝てぬと踏んだのか、幕軍は手痛い成果を持って逃げ帰っていったものらしい。戦は終わったのだ。
 しかし戦だけならこれで終わりでいいが、ここに残った誰もが皆、一向に晴れぬ心を抱えたままだった。


 高杉に抱えられたままの新八をチラと見て、その次には切り立った崖に目を馳せるのは坂本である。

「でも、あそこから落ちたんじゃろ?あの高さから落ちて、よう無傷でいられたもんぜよ。運はこっちにある。新八くんもきっと助かる……だからそう悄気るな高杉」

 確かに坂本の言う通り、新八は相当な高さから落下してきたものらしい。なのに、新八の身体には目立った外傷はほとんどない。山の中腹から数メートルの高さを落ちて尚無傷でいるなんて、普通であれば有り得ぬ事だ。だから生きているということ自体が、既に幸運なのだ。僥倖だ。
 しかし、そうとは分かっているのに、坂本の励ましにもギリリと牙を剥くのはいつもの高杉でしかなかった。

「悄気るだと?テメェ誰にもの言ってやがる。ふざけんなクソ天パが」

 坂本への罵倒に込められたフレーズに、傍らの銀時がひょいっと顔を起こす。

「いやそれ、俺に常に言ってる罵倒だよね。辰馬にも応用しだしたお前の語嚢がマジ貧困過ぎて、軽くかわいそうなレベルなんだけど」

 だけど、もうどう評価されようとも高杉は銀時と争うつもりはなかった。真剣な面持ちで新八の身体を見定める桂に向け、検分しやすいように新八を抱き起こす。

「こめかみに傷があるな。頭を打ったのか。外傷は……見てみるから、俺に少し手を貸せ。高杉」
「分かった」

 新八の身体を見ていた桂は、新八の頭の傷が一番気にかかるのか、何度も何度もそこを確かめていた。だがやはり皆の見た通り、新八は身体だけを見れば無傷も同然である。手足は無数のかすり傷だらけだが、骨が折れた形跡もない。軽い捻挫や打撲はあろうが、著しい損傷はどこにもない。なのに、新八は目を開かぬ。
 ほとんど無傷で生還した事への幸福と、なのに一向に目覚めない事への不安が刻一刻と募っていく。


 やがて桂は重いため息を吐いた。

「目立った外傷はないな。かすり傷は至る所にあるが……だが、それ故にこうまで意識を失ったままなのが気にかかる」

 桂の診立てに賛同するのは銀時だ。だらりと下がっていた新八の手を取り、優しく摩る。

「確かに、何かで引っ掻いたみてえなかすり傷がすげーな。でもよ、あの高さからそのまま川に落ちてたら無事でいられる訳ねーよ。岩にぶつかりゃ骨だの何だの飛び出るし、下手すりゃ水面に叩きつけられた衝撃で内臓系が全部パーだって」
「と言うことは……」

 銀時のセリフに言葉を挟み込もうとしていた桂の声を遮り、その後を高杉が受け継ぐ。銀時と桂の顔を、交互に見据えて。

「ただ落ちるだけじゃなく、一回や二回は斜面に生えてる木の茂みに突っ込んで、どっかでバウンドしてんだろう。落下の速度をそれで殺してる。だから……川に落ちてもそこまで酷い外傷は負ってねえ」
「なるほどのう。つくづくラッキーぜよ。さっすが新八くんじゃ」

 高杉の見解に坂本が感嘆の意を唱えた。ふむ、と唸って斜面に生えた木を見ている。

 高いところから落ちた人間が、無傷で済むはずはない。人間の身体ほど柔く、脆いものはないのである。どれほど身体を鍛えていようが、地面や水面に叩きつけられでもしたら、そしてその衝撃で内臓系の臓物が少しでも飛び出そうものなら、大抵の人間は間違いなく死ぬ。だが何かしらの幸運が重なり、その運命から免れる事例がない訳ではない。
 何らかの障害物に細かくぶつかって落下のスピードを殺せたであろう事が、今の新八の生死を分けたと言っても過言じゃない。恐ろしく幸運なことに、新八がほとんど外傷を負っていないのはその為なのだろう。

 高杉や銀時の話を聞き届け、桂はまた深く息を吐いた。新八の青白い額にそうっと手を添える。

「しかしそうも言ってられん。頭を強く打ってるなら、身体以上に脳へのダメージが懸念される」
「脳って……」

 桂の言葉に何かの不吉な気配を感じ取ったのか、銀時がすぐに気色ばんだ。紅い眼を見開き、桂の顔を見る。しかしながら、桂がそれで言葉を区切るはずもない。

「新八くんがこのまま目覚めずにいる可能性も、なきにしもあらずということだ」
「テメェ……!」

 次に気色ばんだのは高杉だった。絞るような声と震える右手で桂の胸元を掴むが、桂は凛然とした声音を決して崩さない。

「止めろ高杉。俺は可能性を口にしただけだ。新八くんをそんな目に遭わせたい筈がないだろう。お前だけじゃない……ここに居る誰もが、新八くんを助けたいと思っているんだぞ」
「っ……」

 しんと澄んだ眼差しで見られれば、高杉も手を引っ込めざるを得ない。ここで桂を殴ったところで、桂の診立てが消える訳ではないのだ。新八が目を覚ます保証など、どこにもない。
 渋々と引けば、桂が居住まいを正すのが分かった。高杉に掴まれて乱れた着物の胸元を直し、きっぱりと口を開く。

「とりあえず、もうここには居られまい。新八くんを城に運ぼう。もうじきに陽が暮れる……此度の戦は俺たちの勝ちのようだな」

 静かに勝ちを告げる桂の声。やはり高杉が立てた作戦のおかげで、今回の戦は幕軍に圧勝したのだ。しかし間接的にとは言え、危険を顧みずに作戦を決行した高杉の判断により、新八は今こうして意識を失っている。
 これほどに嬉しくもクソもない勝鬨が、今までにあっただろうか。これほどに後悔しかない闘いが今までにあったか。しかも高杉の心痛を分かっていてなお、銀時が皮肉るように呟くのだから。

「ああ。勝ったな今回は。どっかのクソ総督が立てたクソみてーな作戦のおかげでな」
「銀時も止めるんだ。こうなったのは誰かが悪い訳じゃない……高杉の気持ちを考えろ」

 銀時の盛大な皮肉を、さすがに今度ばかりは桂が諌めてくれる。だが高杉はもう聞いても居られず、ひどく冷えた新八の身体を無言で背負った。座ったままの姿勢で、新八の腕を己の肩に回す。

「……ヅラァ、てめえの鉢金寄越せ。銀時もだ」

 そうしてから、呟いた。
そんな高杉の行動とセリフに虚を衝かれたのか、銀時は二、三回ほど目を瞬かせる。

「あん?俺らの鉢金なんてどうすんだよ。つーか何で急に新八を背負ってんの」
「俺が新八を運ぶ」
「はあっ!?何言ってんだよお前、無茶過ぎるわ!左腕斬られてんだろうが!やめとけよ、新八は俺が運ぶからいいって!」

 高杉が告げた言葉を、間髪入れずに銀時は持論で撃ち落とす。
 高杉は分かっている。ここは誰が誰に嫉妬しているだの、誰を好いているだのと甘い事を抜かしていい場面ではないことを。銀時だとてそうだ。負傷もなく危うさもない自分の頑健な身体と、片腕もろくに使えぬ高杉の身体を秤にかけて、自分に新八を任せろと言っているに過ぎない。

 だが新八の身体に触れようとした銀時の手を、バシッと容赦なく払いのけたのも高杉だった。

「……触んじゃねェ」
「あ?てめえ……誰のせいで新八が、」

 低く唸るような声を出す高杉を見下ろし、銀時が即座にこめかみに青筋を立てる。だけどすぐさまに高杉に食ってかかろうとする銀時を止めるのは、その背後にいた桂の役目だ。

「銀時!止めろ!……まずは高杉の話を聞こう」

 そして、辛いような苦いような、何とも言えない表情で高杉に向き直った。その目の奥に浮かぶのが、新八への心配だけでなく己へ向けた心配でもあると分かるから、高杉は今度こそ桂から目を逸らさない。


 あの日、桂に初めて新八との事で呼び出しを食らった日。

あの夜はどうしても見ることができなかった桂の目を、今はしっかりと正面から見捉える。すうと息を吸い込み、高杉は話しだした。


「俺の左腕は……使えることは使えるが、普段のような力は出ねえ。だから新八を落とす事がねえように、俺の身体と新八の身体を布で固定しろ。きつく縛れ。そうすれば……」

 先ほど新八が高杉を手当てした時のように、鉢金を捨てた後の額当てはただの白い布と化す。それを包帯のように利用し、新八をおぶった高杉の左肩を中心にしてぐるりと二人を巻けば、一応は新八が高杉の身体に固定される算段だった。
 意識のない新八には自力で高杉の背にしがみつくことはできない。高杉だとて左腕を斬られているのだから、そんな新八を自力で背負い続けるのは土台無理がある。けど確かにこの方法であれば、最初から新八の身体を高杉の背に固定しておくのなら、使えぬ左腕の為に高杉が新八を取落す心配はないだろう。

 だがしかし。


「確かに、お前の脚は健在だからな。できることはできるだろうが、やれば確実に傷に響くぞ。下手をすれば左腕の傷が開く」

 桂がほうと息を吐く。やれやれと言った風情がありありと透ける、その表情。

 左肩を中心にきつく紐を巻いて新八を負ぶうのなら、それすなわち負傷した左腕への影響は免れない。出血は止まってはいたが、人一人分を背負って山道を行くだけの力が高杉の身体に残されているとも思えない。

 なのに次にはもう、高杉は一切考える事もなく口を開いていた。

「いい。かまやしねえ」

 どキッパリと宣言した高杉を呆れ顔で見たのち、桂はしみじみと首を振った。本当に微かにだが、確かに優しい笑みを湛えて。

「……だそうだぞ、銀時。どうする?お前にこの馬鹿を止められるのか?」

 そして今度はもう一人の幼馴染である、銀時を横目に見る。桂に促され、銀時もまた深くため息を吐いていた。

「お前さあ、高杉。お前ってマジバカなー。ほんっと、つくづくバカ……」

 バカバカと罵りながらも、銀時だとてもう高杉を止められぬ事はとっくに分かっている。このバカ(高杉)がどれだけ新八を好いているのかも、つくづくと、嫌になる程分かっている。いや──分かってきていた。

 だけどそうと分かっていてさえ、ハイそーですか、とは行かぬのが世の常。銀時の常なのだ。


「わーったよ。好きにしろよ。その代わり、てめえが少しでも弱音吐いたら新八は俺が奪うからな。てめえが痛そうなツラなんざ見せたら、即座に新八は俺が抱える。俺が新八を横抱きにして走ってった方が早えわ。その方が絶対ェ早えし、絵面的にもマジかっけえ。こういう時のチビはかわいそうだよなー、選択肢少ねえし」

 ぶちぶちと抜け目なく言い募ると、間近にいる高杉の怒りがふつふつと燃えるのが分かった。その怒りのボルテージが冷めやらぬままに、銀時は桂に向けて手を差し出す。

もう片方の手では、己の額当てをしゅるりと紐解いて。


「……このクソ銀時がァァァ……」
「よっし。ならもう縛るぞ。ヅラも額当て貸せや」

 高杉の憤怒も聞き届けず、素知らぬ顔をした銀時はもうさっさと布地だけにした額当てを使い、簡易な固定具を作り始めている。
 そんな銀時と、新八を背負ったままの高杉に目をやり、桂は己の額当てをするりと解いた。銀時に手渡しながら、ふっと唇を緩める。



「全く……つくづく粒揃いのバカが揃っているな、新八くんの周りには」
「まっことヅラの言う通りじゃ。まあ、そんなバカを止められんのがわしらの定めよ」
「ああ。本当だな坂本」


 その密やかな笑みに気付いたのは、当然の如く桂の横合いにいた坂本だけだ。