夢二の好きな色は女の肌色。


生まれたとき私は泣き皆は笑った。ならば、私が死ぬとき、私は笑って皆を泣かせたい。成程、夢二は格好が良いわけである。



絶滅危惧種と哲学と小説を読みながら資格試験の勉強をしている。孤独な限りいさかいは起きぬから楽ではある。哲学は、専らメルローポンティの研究ノートを、ひたすら自分の解釈に直す作業をしている。以下に少し書く。


私達の肉体について。これはプラトンをはじめとっくに言論がなされてきた。しかし、世界と肉体の関係性は整合が取れてないのではないかと思う。私以外私じゃないのと、そろそろゲスを極めているのではないかと思うが、唄う輩がいる。私の肉体が私であることから出発する場合、その瞬間の私は主観の極限にいる。わかりやすく言うと、私が私であると私が思い込むことは、まさに主観そのものであるということ。それ以上に主観を感じることはできない。つまり、ゲスの極みが私以外〜♪と歌うのはおっ!と思うわけでもある。話が脱線したが、私の肉体が私であることは主観性を帯びている。そしてさらに、その私の肉体は目に見えている。目が見えない人の肉体も、他人からは見えているので、同質だとここでは判断する。目に見えていることは、主観に基づいているが、客観的に描写すると「世界に映っている」のである。メルロポンティは世界と肉体はお互いを蚕食しあっている、としている。そこに異論はないが、世界は一個体として認識する場合、肉体はゼロからの出発点であるとも言っている。それは違う。吉本隆明に言わせれば、世界は水平かつ国家という概念が加わると垂直になるとしている(僕の解釈)。この場合の水平は形而上、垂直は形而下だと僕は認識している。言わんとしているのは、世界は立方体ではないから数えられない。宇宙のように広がっているわけではないが、垂直と平行の線分の長さは明らかに違うし、箱が組み立てられるとは到底思えない。世界を一個として認識すること自体がナンセンスであると思うわけだ。しかし、メルロポンティの研究ノートは膨大で、肉体の頁もまだまだある。


といった作業だが、無意味でもある。単純に脳を働かせているだけだから気にはならない。ハクスリーのSFの世界やハーモニーをわかろうとするなら、はまってしまうのもわけない蟻地獄とも言えるかもしれないが。


発表用に窪美澄を読み、休憩がてら中島らもを啜る。うっかりウイスキーの味がしたなら、それは本物だ。中島らもが愛した世界をいつまでも水平に。