シェイクスピアの十二夜で始まる第六話
十二夜は退屈な喜劇であるのか。(恋に落ちたシェイクスピアにヴァイオラが出てくるのは面白い)
タイタスアンドロニカスとマクベスは同じ悲劇か。これは間違いなく違う。そもそも復讐は悲劇か。
王陵瑠華子は悲劇の小説にとらわれた 。決められた人生とはシェイクスピアの話の王家そのものであり、それを生徒に重ねてしまった。タイタスはラヴィニアに盲目になったわけではない。あれは親子愛。王陵瑠華子は結局小説にも現実にも負けてしまった。その結果、愛もないのにオマージュとして猟奇的な犯行に及んだ。その行為は、オマージュというよりもはやパロディであり、パロディには笑いがつきもの。つまりこの話自体は喜劇とも言える。
そしてキルケゴールの引用。絶望 を知らなければ希望もないと続ける。これもなかなかひどい。キルケゴールの何を読んだのだろうか。ますます、引用とオマージュで王陵瑠蚊子は縛られていく。
耽溺という言葉は僕の好きな言葉。動機は父親の復讐 。まさにシェイクスピアのハムレット。
泣かせられるのはこっちだ。そもそも「感動」を表現者 が使うことが業である。
八話のタイトルは、あとは沈黙。ハムレットの最後のシーンである。独白が多いハムレットのなかですら言葉にできないほどの感情。槙島が見捨てるという行為は正しい。なぜなら論理でできている人間だからだ。同じ学校の人間を狙うことを尋ねたのもそれが原因だろう。王陵瑠華子は、可能性というところが初期衝動であることから不安定かつ抽象性が高い。槙島はこの次点で論理を不信が上回ってしまった。
ある意味で王陵瑠華子が化ける「可能性」 に賭けた槙島も喜劇の登場人物と言える。
こうがみはオリジナリティーがないことを指摘する。つまり引用、オマージュに縛られた王陵瑠華子を見抜いたことになる。こうがみはこのようなところが槙島と似ている。
そして、王陵瑠華子は沈黙する。悲劇としてのラヴィニアの姿で。