僕の上司は何を考えているのかいまいち分からない上に、やる気がない。
世界中にゾンビが現れるようになっても、それは変わらなかった。
いや、やる気の無さは余計に酷くなったかも知れない。
今日も僕にゾンビを潰させて、自分はダラダラとしている。
僕より先にゾンビに気付いている筈なのに。
流石に腹が立ったので睨み付けていると、視線に気付いた上司がヘラヘラと笑いながら、こちらへやって来た。
「たまにはドクターがゾンビを潰したらどうですか?」
「何を言ってるんだ。ゾンビを潰すのは助手であり相棒でもある君の仕事じゃないか。君はゾンビ潰し、俺は解剖…ちゃんと分担されているだろ」
「仕事という雑用でしょ」
今の世の中の状況で彼の解剖医としての役割は無いだろうと思ったものの、同時にこの人は何を言っても飄々として気にもしないのだろうとも思う。もう溜め息しか出ない。
「で、これどうします?」
気を取り直して潰したゾンビの処遇を訊ねつつ、死体袋越しにハンマーでゾンビをつついた。
上司が今にも『うわぁ』と言いそうな表情をしているが、これは一応、ゾンビが動けるかどうかのチェックをしているだけなので、そんな顔で見られると何だか悪い事をしているような気がしてしまう。
取り敢えず、幾らつついてもゾンビは動かないので無事に潰せたらしい。
「うーん…燃やすか」
モルグの裏手には焼却炉がある。
現在、国が行っているゾンビの焼却が追い付かず、こちらは後回しになっているため、モルグ内でゾンビ化した死体を、自分達で処理しようと上司がわざわざ設置した。
その時に勝手に燃やしても良いのかと訊ねたら『だって臭いし』と返されて以来、僕は考えるのを止めた。だって細かい事を考えていたら可笑しくなりそうなんだもの。
因みにこの小型の焼却炉は一度に燃やせるゾンビは一体のみで、更に火力も強いとは言えない低スペックなものだ。
タイミングを見ていちいち死体を引っくり返さないといけない上に、燃やし尽くすのに時間が掛かる難点しかない代物だった。それでも上司曰く、無いよりはマシらしい。
「ところでさ、今まで死体がゾンビ化する度に死体袋越しに散々潰してきたけど、もし仮死状態になってただけの人間が混ざっていたらどう思う?」
「あなたって本当に嫌な性格ですね」
本当にロクでもない上司だ。
散々人にゾンビを潰させておいて、そんな質問を真顔でするなんて鬼か、あんたは。
でも、この人は悪い事を言っている自覚が無いだけなのだ。いちいち怒る気もしない。
「まぁ、仮死状態になっていた人なら意味のある言葉が出る筈ですから、それで見分けられますよ。それに、いちいち袋を開けてチェックしていたら、命が幾つあっても足りません。前に犠牲になった彼の二の舞はごめんですよ」
「ああ…あれか。あの時は流石に可哀想だったな」
ゾンビが現れるようになったばかりの頃だった。
収容した死体がゾンビ化し暴れていたのを、死者が蘇生したと勘違いした僕の同僚がろくにチェックもせず死体袋を開けてしまい、中から飛び出してきたゾンビに顔面を食い千切られてしまった。
結局、この同僚はその場でゾンビ化し、丁度その場に居合わせた僕がたまたま近くに置いてあったハンマーで潰す事となったのだ。
今ほどゾンビの存在が浸透していなかったが故の不幸な事故だったと思う。
それ以来、僕は死体袋の中で死体が動き始めた時は袋を開けずに、まずは彼らの言葉を聞いている。ゾンビは呻くだけだが、人間なら意味のある言葉を発するからだ。
もっとも、今まで蘇生しただけの人間はいなかったけれど。
「それにしても、いつになったらゾンビは居なくなるんでしょうか」
「さぁ。今、世界中でワクチンの開発を急いでいるみたいだけど。…それに春になれば腐敗が進んで数は減るんじゃないかね、取り敢えずは」
「全滅は難しそうな感じですか」
「ウイルスをどうにかしない限りはいたちごっこだろうな」
ダラダラと喋りつつ、焼却炉に放り込んだゾンビを時折引っくり返しながら上司が淹れてくれたコーヒーを飲む。
最近はこうやって彼と過ごすのが当たり前になっていた。
今のこの状況で、お互いにまともに仕事をしようなんて思えなかった。彼が元々無いやる気を更に無くしているのも分かる気がする。
一体いつになればこの日々が終わるのか、毎日こんな事ばかり考えている。
いつも適当に行動し飄々としている上司も、たまに普段は見せないような深刻な顔で何かを考えている時がある。多分、僕と同じ事を考えているのだろう。
一日でも早く、元の生活に戻る事が僕達の願いだ。
季節は冬から春へと進んだ。
いつも通りモルグへ向かう。
相変わらずゾンビは街のあちらこちらを彷徨いていて、自分以外のまともな姿をした人間と言えば、ゾンビ狩りに勤しむ軍人や警察くらいなものだった。
でも、これから春から夏へと季節が変われば、上司が言っていた通りゾンビは数を減らすだろう。
連日の陽気からか腐敗が進み、ぐずぐずになって道に転がるゾンビを見てそう思った。
少し、気が緩んでいたのだろう。
僕は背後に忍び寄る“ソレ”に気付くのが遅れてしまった。
ツンとした悪臭が鼻の奥を強烈に突くと同時に、首に何者かの歯が食い込んだ。
気が付くと地面に倒れていた。
何故、こんな所で倒れているのか思い出せなかったが、このまま倒れている訳にもいかず立ち上がった。
身体がやけに重たい。一体、自分はどうしたのだろうかと考えようとしたが、頭がぼんやりする所為で何も考えられない。それに何故だか酷く空腹だ。
取り敢えず、モルグに行って何かを口にしようと、おぼつかない足を引き摺るようにして先を急ぐ。
…ズッ
なかなか先に進めない。
…ズッ
急ぎたいのに足がいう事を聞かない。
…ズッ
身体が鉛みたいだ。
…ズッ
ああ…。
何だかこの歩き方はまるでゾンビじゃないか…。
漸くモルグに着くと、僕に気付いた上司が少し驚いたような顔をした。
今までやる気の無い顔か、表情のハッキリしない顔ばかりしていたから何だか新鮮で、それが可笑しくて仕方がなかった。
上司は何故だか僕をじっと見たまま、困ったような顔をしていた。
どうしたのだろう。
どうして僕を見てそんな顔をするのだろうか。
空腹の所為か頭もぼんやりするし、それ以外は何も考えられなかった。
『お腹が空いたんで何か食べさせてください』
どうしたら良いのか分からず、そう言おうと口を動かすと声が出なかった。
代わりに出たのは聞き慣れた呻き声。
…?
何でこんな声を出しているのだろう?
自分の喉の奥から出てきた声に戸惑っていると、目の前の上司はいつも通りの何を考えているのか分からない笑みを浮かべていた。
「安置室に行こう。此処じゃ腐る」
腐る?何が?
僕の腕をグイグイ引いて彼は安置室に向かって歩き出した。
足元がおぼつかず、踏ん張る事が出来ないまま身体を引き摺られる。
今日の彼はいつも以上に何だか変だ。
そして、僕自身も何だか可笑しい。
ふと、通路の脇にあるステンレスのストレッチャーが目に入った。
鏡面で仕上げられた表面に、上司に引き摺られる僕の姿が微かに歪んで映る。
其処に映っていた姿に悲鳴を上げそうになった。
肉を抉られた首元。
目の下の大きな黒い隈。
血の気が完全に引いた白い肌。
ストレッチャーに映る僕の姿は、どう見てもゾンビだった。
ああ、そうか。
あの時、僕は…。
僕は今でもモルグに居る。
あの日からどれくらいの日にちが過ぎたのか聴覚以外の感覚が無い所為か、もう分からない。
それでも、決して少なくない日数が過ぎた事だけは何と無く分かった。
身体は徐々に腐敗しているらしく、真っ先に目が見えなくなった。
ゾンビになったばかりの頃は空腹感が酷かったが、人間にむやみやたらに食らい付く連中と同じになるのが嫌で我慢している内にその感覚は失われた。
けれど、不思議な事に意識は残ったままで正直、戸惑っている。
街に居るゾンビには、どう見てもそのようなものは無いのに、何故僕には残っているのだろう。
ゾンビが全員、僕のようであればウイルスはこんなにも拡がっていなかっただろうに。
足音がする。
どことなく気だるげに聞こえるそれは上司のものだ。
目が見えなくなった分、聴覚だけは鋭敏になり足音で誰が居るのか分かる。
とは言っても、此処に来るのは上司以外には誰も居ないのだけど。
『元気か?』
幾ら動いているからといっても、死体相手に元気もどうも無いとは思うのだけど、彼にとっては僕は僕らしい。
相変わらずよく分からない人だけど、その所為か未だに僕を潰せないようだ。
僕としては潰される事に恐怖はあるけれど、それ以上にいつまで続くか分からない今の日々に終止符を打って欲しいとも思っている。
生体活動を終えた身体は聴覚以外の感覚も飢えや渇きも無い。
言葉で誰かに何かを伝える事も、手足を動かす事もまともに出来ない。
出来る事は日がな一日、残された意識で考えたり、無意味に呻き声を上げる事だけ。
大袈裟だけれど、それは生き地獄に落ちてしまったかのようだった。
そんな僕の気持ちを知る由もなく、続けられる上司の一方的な会話に耳を澄ます。
それはゾンビになってからの唯一の楽しみであったし、何より自分の身体の状態を確認する為には彼の言葉を聞くしかない。
…どうやら僕が思っている以上に腐敗が酷いらしい。
彼の独り言によれば、この安置室は可能な限り冷却しているのだけれど、それでも腐敗がかなり進行しているそうだ。
まだ液状化を始める前ではあるものの、既に髪や皮膚の一部が剥がれ落ちているらしい。
僕が身体を保てなくなるのは時間の問題だろう。
もし、今のように意識を保ったまま、その時を迎える事になったとしたら…。
あの時、足元に転がっていたゾンビの成れの果ての姿を思い出す。
僕も遠くはない未来にああなるのだ。しかも僕には思考力が残っている。
腐敗も液状化するまでに進めば、やる気の無い上司も流石に外の焼却炉で僕を燃やすだろう。
意識があるまま燃やされる…考えるだけで恐ろしかった。
この時初めて、そこらを徘徊しているだけの彼らを羨ましいと思った。
それから更に何日か過ぎたある日。
相変わらず僕を潰さない上司が僕に向けて呟く言葉は、下らない世間話と日に日に原形を崩していく僕への悲哀だった。
今日も会話と言う独り言を散々続けていたが、ふと喋るのを止めるとそのまま黙りこくった。
一体、どうしたのだろう。
耳を澄ませてみたが、新たに言葉を発する気配は無い。
と、彼はその場から離れると、それからすぐにこちらへと戻ってきた。
その時の足音が今までに無いほどに重々しく聞こえ、震えたような息遣いが耳に届くと、そこで彼が僕を潰そうとしているのだという事に気付いた。
彼らしいタイミングじゃないか。
恐怖は無い。
寧ろ、意識を断ち切ってもらえる事に喜びを感じていた。
彼のゆっくりとした足音が目の前で止まると、漸く終わるのだという安堵で胸が一杯だった。
さようならドクター。
有り難う。
僕を殺してくれて。
最期に聞こえたのは、彼の嗚咽と自身の身体が潰れていく音だった。