あくまで個人的な思い。

あるブログにて、某殺人事件に関して、犯人を残酷な方法で死刑にするべきだとの意見をみた。
そう考えてしまう気持ちもわからなくはないけれど、それって少し早計なのではないかと思う。

日本は絞首刑らしいけど、自分で首くくるより楽に死ねるらしい。だから、それを知った自殺志願者が、死刑になるために残虐な方法の殺人を犯すことが結構あるそう。
何故楽に死ねるのかといえば、憲法で残酷な刑罰は禁止されているから。(第36条)できるだけ死刑囚に苦痛を与えないように、日々研究が重ねられているとのこと。
そして日本の死刑執行は、死刑囚の精神が安定していないと執行されないらしい。「残虐な」刑罰はしないと憲法で決められているから。
だからどれだけ極刑を望んでも今の憲法下では、いろんな人が望むような相手を恐怖に陥れる残虐な処刑はできないということ。
被告人が、罪を心から悔やむことを望むならば、死刑は妥当ではないと思う。死刑が人道に反するとか、そういう立場から言うのではない。
そもそも、罪を犯した人間に求めるものって、なんなんだろうか。刑罰を加える目的とは、なんなのか。被害者と同じ苦しみを、恐怖を味わわせることか。多大な賠償金(そもそも賠償金って戦勝国が敗戦国に求めるもので、言葉として合ってるのか。なんかよくわからん)を支払わせることか。
犯罪抑止のためならば、古代の某法治国家のような厳罰主義をすればいい。遺族・被害者の感情を慰めるためならば、それこそ目には目を方式でいけばいい。
やっぱりありきたりな話になってしまうんだけど、罪を犯した人が、自分の愚かさを知って、反省し心から悔やむっていうことが一番の目的とするべきなのではないかと思う。
先進国(この言葉あんまり好きじゃない。いや正直不快)の崇高でお綺麗な理想主義から、押し付けられた形で残虐な刑罰を否定しているんじゃないと思う。
一生犯した罪と向かい合わせることこそ、一番望ましい方法なんじゃないか。

私も、小さいときずっとずっと虐めてきた連中に、復讐したいと思ったことが何度もある。比べ物にならない話かもしれないけれど。
その人たちって、もう私にしたことなんか覚えていないんだ。断片的に覚えていたとしても、「ああ、あのころはやんちゃだった」程度で片付けられてしまう。
私の好きな歴史小説のせりふに、「恩も讐も、あたえたほうは忘れても、与えられたほうは覚えているもの」というものがあるんだけど、本当にこれなんだ。時間と共に、風化していってしまう。
恨めしいですよ。私だけがこうして引きずっているなんて、心に傷負ったままこれからも生きなければならないなんて。
家族や親しい人を失ったという痛みはもっともっと大きいものかもしれない。でも、人を恨むという気持ちは、程度は違うかもしれないけれど理解できる。

結局何がいいたいかというと、自分の犯した罪を、死という形で、しかも大した苦しみもなく償うことができるなんて、最高刑といえないんじゃないかと思う。
それよりは、終身刑のほうが最高刑の名にふさわしい。
自分の犯した罪を、文字通り一生かけて償わせることができる。忘れさせたりしないで済む。

私が遺族とか、そういう立場に立ったことがないから言えることかもしれない。でも、だからこそ客観視できるのではないのかとも思う。
生意気なことを書いて申し訳ありませんでした。



12/20 21:41
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