[愛について]

自分の中にたしかな愛情がある、と確信している人ほど、
愛情表現がクールになってしまうものなのかもしれない

もっと言えば、相手の中に愛情がちゃんとある、と信じている人ほど、
態度がさらっと、淡泊になりがちなのではないだろうか


それが原因で行き違いが生じたりするのは
「確信している」ことが、結果的に
「相手を無視した甘え」に繋がってしまった
ということなのではないだろうか


相手の中にある愛情が見えなかったり
自分の中にある気持ちがあやふやだったりするときほど、
人は、強い愛情表現をどうしても
必要とするのだろう


精神的に自立していて、
しっかりした愛が胸の中にある場合、
その人の愛情は、
第三者からはほとんど見えなかったりする


外野から「あの人たち、大丈夫なのかな」と
心配されたりすることもあるわけですが
実際、心配は要らない状態。


胸の中にあるものが確かであればあるほど、
表面が冷たくさらっとする。


一方、愛が確かでない場合は、
大袈裟な愛情表現の果てに
刹那的に、淡雪のように
その関わりが消えていく。


恋する人々は、
愛の熱さや烈しさを求めますが、
長く続いていく愛は
ほとんど「愛」と呼べるかどうか疑わしいような
微熱程度のものだったりすることもある。


「これは、愛なのかな?」
と、よくわからなくなることもある。
でも、それが疑わしくて、
何度も自問を繰り返したくなるなら
おそらく、そこには愛の芽が
すでに顔を出しているということなのだろうと思う

「愛」という言葉と「自立」という言葉は
かけ離れたイメージをまとっているが、
現実には、両者は切っても切れない関係にある


自立しない人間同士は、
一時的に甘えあうことは出来ても
長い時間をかけてお互いを育て合うことは出来ないから。

「愛」のほんとうのほんとうは
自立や意志、責任といった、
「愛」という言葉のイメージからは遠く離れた要素で形づくられていると思う


だからこそ、なんとなく
「こういうのは、愛っぽくないなあ」
と思えることもあるけど、
実際は「それが何よりも愛だ」ということに
なっているのではないか、な


10/06 19:45
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