俺的理論「+」と「−」

中学生の頃、人生の「運」はいい時と悪い時を合わせて「0」になるんだと考えていた

 

ちょうどそのころ、自分に起こった出来事などの調子のいい悪いが足したらゼロ付近だなーと感じていたからだ

 

そのころは毎日「今日のツイてる具合」を測るのがとても楽しかった。友達との会話のたのしさ、登下校中の信号の引っかからなさやかわいいことしゃべれたり、便が快調だったり

授業で当てられたり、忘れ物したり、部活の野球でヒットだせなかったり、便が頑固だったり

 

そういう「+」の面と「−」の面を、その凸凹をはめていくのが楽しくてしょうがなかった

 

 

あれから10数年…人生はそんなもんでは測れんよと、そう今は考える

ファクターが多すぎるファクツァーが

人によっては何万分の1という確率の難病にかかったり不慮の事故だったりで若くして亡くなる人もいる。そんなひとたちはその分の不幸に値するほどの幸運を手にしていたのかと考えると、そうとも言い切れない

 

幸福度という言葉もあるが、そもそもそんなもの測れるもんじゃないし同じ現象でも人によっても度合いが違いすぎる

 

ただ言えることは「ある程度の幸せ」というものは、日々わけが分かっていなくとも「なんとなく頑張って」いないと手に入らない

 

みんなが当たり前のようにもっているもの(先天的なもの以外の人それぞれのステータス)は、なんとなく、だけども「とりあえず」がむしゃらに頑張っているからなのだと

 

 

まぁだからなんだと言われればそれまで(本当はそれまでではないとも思っているが長くなるので省略)だが

調子のいい悪い、人のいいとこ悪いとことかもそうだが、測れるもんでもないよねって話。天は二物を与えることもあれば逆もまた然り。

まぁ後者は特に人(第3者)からの視点だしね

 

ただそういうの考えるの面白いよね