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零が暴走して優姫と一線越えちゃう話3




学校が終わり、顔を合わせないように真っ直ぐに帰宅して。
ガチャリ、と自室の扉を開いたまま、零はピキリと固まった。
そのまま何事もなかったように扉を閉めて出ていこうとした零を引き留める、華奢な腕。

「ま、待って、零」

眉尻を下げた優姫は零の腕を掴み離そうとしない。
零が厳しい表情で一瞥しても優姫はしがみつく力を緩めようとはしなかった。
どうしてこんな所にいるんだ、とか、勝手に部屋に入るな、とか。言いたいことは沢山あったけれど何故か言葉にはならず、逸らされることのない視線に戸惑い、瞳を伏せる。

「ね、零」

躊躇いがちに優姫が零の服の袖を引く。

「こっち、見てよ」

懇願の、声。
頼りなく零を呼ぶ夢姫の声に、つい体は反応してしまう。
目線を下げた頭一つ分下に、悲しげな色の瞳が揺れていた。
どうにも気まずさが先行して、零はまた視線を逸らす。
そんな零の態度に、ついに、優姫の中で何かが切れた。

「………零の馬鹿っ!」

煮えきれない零の態度に流石に痺れを切らした優姫は、そのまま体重をかけ思いきり零を部屋に引っ張りこんだ。
ぐらり、と零の体が傾き優姫の方へ倒れてくる。
このままでは零もろとも床に盛大に倒れ込むだろう。
お尻ぶつけちゃうだろうなあ、とか、背中痛いだろうなあ、とか。
少しだけ考えて、でもそんなことはもう、どうでも良かった。

「お、おい…!」

油断していたらしい零は、突然の出来事にバランスを崩し、らしくない慌てた声を出す。

「──っ、この馬鹿!」

続いて耳に届く罵声と、腰を抱く力強い腕。
このまま倒れ込めば優姫は零の下敷きになるはずだったのだけれど。
小さな衝撃と、どすん、という鈍い音にきつく閉じていた瞳を開けば、どういうことか、下敷きになっていたのは優姫ではなく零だった。

「──痛っ」

思いきり背中を床に打ち付けたのだろう零が、小さく息を洩らす。
零に抱き締められるようにして同じく床に転がっていた優姫は、その声にパッと身を起こし、心配そうに零を見つめる。

「だ、大丈夫?零、怪我とかしてない?」

あわあわと、目まぐるしく表情を変えながら顔を覗きこむ優姫に、つい零の顔に笑みが浮かびそうになる。
けれど、ああ今は彼女を避けているんだったと思い出し、優姫に自分がしてしまった行為を思い出せば、居たたまれなくなりそっけなく大丈夫だ、と返事を返した。
それを見て、また頬を膨らませるのが優姫だ。
きっ、と零の瞳を睨み付けると、零なんか大嫌い…と呟いた。
思いの外その言葉にショックを受けつつ、零はこのまま立ち上がり部屋から出ようとする。

けれど、それもまた目の前の少女に阻まれる。

「…零の馬鹿。馬鹿馬鹿、大馬鹿。もう零なんて、嫌い。大嫌い」
「……優姫」
「嫌い、嫌い。」

暴言を並び立てながら。
ぐりぐりと。優姫は零の胸に額を押し付けた。
腕は零の腰にしっかりと回されていて、離れる気などないようだった。

ふぅと一つ息をこぼし、零は優姫の頭をぽんぽんと、叩くというには優しすぎる仕草で撫でる。

「嫌いなら離れろよ」
「……嫌」
「……優姫?」
「………嫌いだから、離れてあげない」

零の馬鹿。そう何度も呟いて、優姫は零の胸に頬を摺り寄せる。
それほど寂しかったのか、優姫は甘えるように零に身を任せている。
これは、一体どういう解釈をすればいいのだろうか、と零は眉間に皺を寄せた。

普通あんなことをされて、こうも無防備に近寄ってくるだろうか。
こっちはもうあんなことをしてしまわぬようにと距離を取ったというのに。
いくら幼なじみで兄妹のように育ったといっても、もう近寄りたくない程酷いことを、してしまったのに。
そう、自覚しているのに。

「馬鹿、零。離れていかないで。寂しいよ。……悲しいよ」

零の胸の中で、優姫が小さな声で言った。
消え入りそうな声に零が頭を撫でていた手を止め、視線を腕の中の少女へ向ける。
重なるように、二人の視線が絡まった。

「嫌だよ、零」

そう言って。
優姫は零の頬に手を伸ばす。
ポロリと、何かが頬を伝うのを感じながら。
そのまま、優姫からキスをした。

少し、しょっぱかった。





*次でラストです。多分(笑)
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ありがとう

*原作コルダの最終話、その後の妄想話です。ネタバレしまくりですので、「まだ最終話見てないよー!」って方は戻ってください。大丈夫な方はそのままどうぞ。































 秋と冬の間の、なんともいえない涼やかな風が吹き抜けていくのを感じながら、香穂子は月森の腕の中、未だ固まったまま動けずにいた。
さらり、と月森の前髪が頬を擽り、その近さにまた体の熱が上昇する。
もとより赤く火照っていた顔がより色づいていくのがわかり、恥ずかしくて、そんな顔を見せたくなくて、より月森の胸に顔を押し当てた。
柔らかな香りが香穂子の胸一杯に広がる。それは月森の香りだった。





演奏会が終わり、もしかしたら彼がいるかもしれないと、微かな望みをかけて学校に行き。
ふいに屋上から聞こえた旋律に、香穂子は脇目もふらず走り出していた。
案の定扉を開けば、そこにいたのは月森で。
あまりの偶然に驚いて、感動して、背筋がふるりと甘く震えた。
その激情のままに後ろから思いきり抱きついてしまったけれど、今思えば酷く恥ずかしかった。
決して後悔しているわけでも嫌なわけでもない。
けれど、無性に恥ずかしい。今の、この状況も。
心がふわふわして、落ち着かなくて。喉の奥がきゅんと痛む。
顔に籠る熱を逃がそうと息をふぅと吐き出すけれど、次に吸い込む息の甘さが、より羞恥心を煽るのだった。

それに、と香穂子は思う。あの月森の笑顔は反則だった。あんなに優しい瞳、これまで見たことがない。
好きだ、と瞳が言っていた。確かな愛情が、空気から溢れ出ていた。
恋愛初心者の香穂子が、そんな表情で見つめられることに慣れている訳もなく。あの優しい、優しすぎる瞳を少し思い出すだけでも、また鼓動が激しく脈を打つ。

ふいに、月森の腕の力が弱まり香穂子の体を解放した。
未だ恥ずかしく顔を上げることが出来ない香穂子に、ひとまず帰るか、と月森は言う。

「……うん」
「……もう遅いから、送ろう」
「……う、ん、ありがとう」

いつもと違う雰囲気に緊張して上手く言葉が紡げない自分を不甲斐なく思いながら、ちらりと月森の顔を伺い見れば、その頬もほんのりと淡く染まっている。
珍しい表情だな、と変なところに感心して、でも素直に可愛いなと思った。





とぼとぼと、電灯の灯りに二人分の影が並ぶ。
半年ぶりに月森と歩く帰り道は、会話がなくともいつもより特別に思える。
大通りを抜けてしまえば、香穂子の家がある住宅地。そこまで来れば道のりはもう僅かしかないため、二人の時間も終わってしまう。だから。
自宅までもう少しと言った所で、意を決し立ち止まったのは香穂子だった。
「あ、あの!」
香穂子の一歩前を歩いていた月森が、その声に立ち止まり振り返る。
「…日野?」
正面から重なる視線に、また体がかちんと固まってしまうけれど。
でも、香穂子はまだ月森の真っ直ぐな想いに答えを返してはいなかった。
まあ、突然香穂子から月森に飛び付いたり、月森も香穂子の答えなど聞かずに抱き寄せたことを踏まえれば、きっともう香穂子の気持ちなどバレているのだろうけれど。
もう逃げてしまうのは嫌だったから。ヴァイオリンからも、月森からも。だからこれはけじめなんだと自分に強く言い聞かせる。

さわり、と。
香穂子を後押しするように穏やかな風が吹き抜けた。
香穂子が月森に一歩踏み出す。
きっと顔はどうしようもないほど赤いのだろうけれど、震える心を叱咤して月森の瞳を見つめた。

「あ、あのね、」

伝わるように、届くように、一文字ずつ心を込めて紡いでいく。

「私、あの後、どうしても月森くんに会いたくて。それで学校に来たら月森くんがいて、本当に、嬉しかった…。また月森くんの音が聞けて、また月森くんに会えて……本当の本当に、嬉しかったんだよ…?」

「……ああ」

正面に立つ月森の手が、胸の前で固く握りしめられている香穂子の手を取ると、ゆっくりほどいていく。
そのままその手を取ると、きゅっと優しく包み込んだ。
その温かさに胸の奥が甘く痛む。

「えっと……それでね、あの……私も………好き」

好き、です、と。
一度声に出してしまえば、もう想いは止められなくて。
ああ自分はこんなにも彼を好きだったのかと思い知らされる。

「月森くんが、好き。好きです。………大好き」


ぽろぽろと、言葉が、気持ちが止まらない。
何故か喉が圧迫されて、最後の方は声が小さく掠れてしまったけれど。

「……君はずるいな」
小さく、困ったような声が聞こえて。
ふいにまた、香穂子は月森に抱き寄せられる。

「また、調子を狂わされた」
そう言って、くすりと笑い月森が香穂子の頭に頬を預けた。
先程のものより強い抱擁に、一瞬驚いて、けれど今度は満たされる気持ちの方が強かった。
これまで回すことの出来なかった腕を、おずおずと月森の背に回す。
ややあって、月森が、ありがとう、と囁いた。受け入れてくれてありがとう、と。とても、嬉しそうに言った。

香穂子は月森の胸に頬を擦り寄せる。
言葉だけでは伝えきれない想いが、全身から、全て彼に伝わればいい。
そう願いをこめて。

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パーティーナイト

*王国パロ





 天井にはきらびやかなシャンデリアが輝きを放ち、一面大理石の床を覆う真っ赤な絨毯は一目で一級品だと分かる代物。室内に並べられたテーブルを飾るのは純白のテーブルクロス。
テーブルには、王族主宰の晩餐会に相応しい国中から集められたご馳走が並べられ、その隣では選りすぐりの音楽家たちの生演奏が場の雰囲気を盛り上げている。
 それらを横目で一瞥しながら、蓮ははあと溜め息をこぼした。
どうも自分は、こう華やかな場所が苦手らしいと気づいたのはまだ幼い頃。
何度となく参加している社交場だが、つんと鼻につく香水の香りや愛想笑いと欲望に溢れるこの場所に、いつまで経っても慣れることなど出来そうにない。

「いかがですか?」

 ふんだんにレースのあしらわれた赤いドレスを身に纏った女性が、妖艶な笑顔でワインを差し出すのを片手だけで制しながら、蓮はすぐさまその場から離れた。
先程から何度も差し出されるワイングラスと小皿に盛られた料理の数々。
月森様、公爵殿、と。彼らは皆同じような笑みを浮かべ近づいてくる。
『笑顔』という固い鎧を身に纏い、取り入ろうと必死な形相を隠してはいるが蓮には全てわかってしまう。分かりたくなくても、分かってしまうのだった。

 開口一番、まず「貴方様のヴァイオリンはとても素晴らしい!」と褒め称え。
その後は聞いてもいない彼らの家柄の話をペラペラと始めるというのがいつもの、このような場で出会った貴族の行動パターンである。
もう。流石に。辛気くさいやら何やら言われようが溜め息の一つや二つ、こぼすくらい何だと言うのか。
社交場に参加した後はもう二度と行くものかと毎回思うのだけれど、しかし、これでも公爵家の息子という立場がある。
普段からあまり他人を寄せ付けるタイプではない自覚はあるが、このような場での付き合いが大切なものだということも良く理解しているのだ。
多少、いや多分に腑に落ちないけれども。
それを自制出来ぬ程、蓮はもう子供ではない。

けれど。
流石に。流石に。こうまで続くと相手をする気も失せてくる。
どこぞの令嬢なのだろう、派手に着飾った女性が無理矢理蓮の体に身を寄せて来た時には本気で引き剥がしそうになった。
あからさまな態度に辟易しつつも、冷静を装いながら彼女から身を離し逃げてきたばかりだというのに。

 もういっそこのまま帰ってしまおうか。
パッと浮かんだ考えは、我ながら良い案だと思われた。
体調不良だ何だと言えば、退出することも可能だろう。
あれこれ余計な詮索をしてくる者もいるだろうが、そこは何とか言いくるめてしまえば良いだけの話。
はあ、と。眉間に手を当て本日何度目かわからない溜め息をこぼしながら踵を返しかけた所で、蓮の胸に蘇る一人の少女の面影があった。

 この晩餐会の主宰である王の娘、香穂子。
一国の姫である彼女とは幼馴染みであり、彼女にそれ以上の特別な感情を抱いていることはとうに自覚している。
本来ならばあまり人目に触れることなくこの場から抜け出したいものだけれど、特別な感情を抜きにしても、主宰である彼女に退出することを伝えるのが最低限のマナーだろう。
そう結論付け、さっとやや乱れた感のある帯を直しつつ、特別賑わう一角へ足を進める。

多少よろめきながらも人混みをすり抜けた先、探していた少女はすんなりと蓮の視界に飛び込んで来た。
決して派手なドレスではないものの、一目で上質だと分かる薄生地に細やかな刺繍が施された、淡い空色のドレス。
ひらひらと裾が揺れる様は、まるで水面を踊る小鳥のように愛らしく、彼女のすらりと伸びた手足の美しさを更に際立たせていた。

 見知った少女の姿を視界に入れたことで安堵しつつ、無表情を貫いて来た顔の筋肉を多少柔らげる。
そのまま近づき、香穂子に声をかけようとしたその時。

「いや〜、しかしプリンセスは御美しくなられましたなあ!」

見るからに酔っぱらっているのだろう赤ら顔の紳士が、据わった瞳で香穂子の手を取り口づけている。

「またまた、御冗談を……」

薄い微笑を浮かべ答える香穂子も多少困惑しているようだった。
それに気づいているのかいないのか、呂律すら怪しいその紳士は馴れ馴れしく彼女の肩に腕を回す。
一国の姫に対し明らかに行き過ぎたその行動も、周りの参加者らも程よく酔いが回って寛容になっているのか、誰一人咎めようとはしない。
瞳を伏せ、あの……と言葉を濁す彼女を見ていられずに、蓮は思わず右手を伸ばした。

「失礼」

細腰に腕を回し引き寄せれば、香穂子が驚いたように目を見開く。
突然の横槍に何だ、と顔をしかめたその紳士も蓮の姿を認めた途端、これはこれは!公爵殿ではありませんか、と媚びた笑みを作った。

「プリンセスの顔が赤いように見えたのでね。酔ってしまわれたのかと思い、支えになろうと手を伸ばしたのでございます」

胡麻をするように手を捏ねながら、悪びれることなくふふふと紳士は笑う。
──本当にたちが悪い。
目の前の男に激しい嫌悪を覚えながらも、彼を鋭い瞳で一瞥するだけに止め蓮は香穂子に向き直る。

「では、どうでしょう姫。酔いを覚ますためにも、一度お部屋にもどられては?」
「……ええ、そうしようかしら」
「ではお手を」

頭を垂れ、すっと差し出した蓮の腕に重ねられる手。
流れるような仕草で彼女のエスコート役を勤めながら、ざわざわと未だ騒がしい大広間から颯爽と抜け出した。



 木製の重厚な扉を閉めれば、先程までの喧騒が嘘のように静まりかえり、ひんやりとした空気が室内の熱気に当てられた頬を冷ましてゆく。
いつの間にか詰めていた息をふぅ、と吐き出せば、隣の香穂子もまた緊張を解いたように肩の力をふわりと抜いた。

 パーティーが行われていたホールは城の隣に併設されており、短い通路を通ることで城に直接戻ることが出来る。
通路の両脇は庭となっており、様々な花やハーブが風に揺れていた。
思わず、すぅと胸に吸い込んだ新鮮な空気は、庭のハーブが放つ爽やかな香りを混ぜ、蓮の気分を多少和らげてくれる。

 同じく隣で一息ついていた香穂子が、くるりと長いドレスの裾を翻し蓮に向き直った。
「ありがとうね」
そう言って此方に微笑みかけた彼女は、もういつもの、幼馴染みの顔をした香穂子だった。
先程までの、凛と佇む『姫』としての風格は身を潜め、朗らかで無邪気な笑顔が顔を覗かせる。
自分だけに向けられるその無防備な笑顔に自然と月森の目も細められる。
けれど、すぐに香穂子の綺麗な笑顔は消え、その赤土色の瞳を曇らせた。

「でも、ごめんなさい。蓮までお部屋から退出することになってしまって……。まだパーティーは始まったばかりなのに」
「いや………」

しゅんと肩を落とした香穂子は、どうやら月森を巻き込んでしまったことに責任を感じているらしい。
別に月森自身パーティーに未練などないし、どちらにしても早々に帰るつもりだったから気にするな、とも主宰である彼女に言うのは憚られて。
さて、どうしようかと視線をさ迷わせた庭先。
月森はあるものを見つけて開きかけていた口を閉じた。

「……蓮?」
「君はここにいてくれ」

そう言い残し、蓮は一人明かりの届かない薄暗い庭先へ一歩踏み出す。
かさり、と葉が擦れる音がして、けれどそれもすぐに聞こえなくなった。
しんと、恐ろしい程静まり返る空間に香穂子一人が残される。
一人になった瞬間、先程まで気持ち良かった夜風が急激に温度を下げた。
ざわり、と何かが背中を駆け上がる。

「……どこなの…?蓮……?」

少しだけ、香穂子の声が震える。
目映い光に慣れた両目は、暗闇では全くと言っていいほど役に立たない。
「……ねぇ、蓮……?」
拳をぎゅっと握りしめながら、香穂子もまた暗闇に身を踊らせようとしたその時。
かさり、と近くで葉の鳴る音がして、香穂子は思わず身を縮こまらせた。

「すまない、驚かせてしまっただろうか」

耳に届く、清涼でやや硬質な声。
反射的に固く閉じてしまった瞼を慌てて開けば、そこには申し訳なさそうな顔をした蓮が立っていた。
その手には、一輪の薔薇の花。

「見事に咲いていたから……。」

そう言って、蓮は暗闇の中のある一点を見つめる。
その方向に目を凝らせば、ようやく暗順応した香穂子の瞳が、職人の手によって美しく手入れされた薔薇園を写し出した。

「……良い香り」
目の前に差し出された一輪の薔薇からは、なんとも香しい香りが届いて。
香穂子がうっとりと瞳を閉じるのを、優しい瞳で蓮は見ている。
「少しだけ、そのままで」
そう言って背を屈め顔を近付かせた蓮に香穂子の心拍数が急激に上昇していく。体の熱が一気に上がるようだった。
「……れ、れ、蓮?」
戸惑いを含んだ頼りない声にも、蓮は気にする素振りはなく。こんなところが鈍いのだ、と香穂子はいつも悔しくなる。
きっとドキドキしているのは自分だけなのだから。
そう香穂子が頬を染めている間にも、蓮の指が香穂子の髪を器用に耳にかけ、先程の薔薇の花を飾った。
蓮は近づいた時と同じ唐突さで香穂子から一歩離れると、満足げに目を細める。
「良く、似合っている」

何でもないことのように言う蓮に、香穂子は真っ赤になってしまった顔を上げることが出来ない。
もしかして、蓮の方こそ酔っているのではないかとも考えたけれど、思い返してみれば、蓮はときどき、本当にときどき何気なく、今のような爆弾発言をさらっと落とすことがある。
またそれが、本人に自覚がないぶん酷くたちが悪いのだけれど。

下を向いてしまった香穂子を心配したらしく、蓮が「どうかしたか?」と声をかける。
赤い顔を隠すように少しだけ睨み付けるような視線を送れば、蓮は訝しげに眉をひそめた。
ああもう。本当に。何もわかってないんだから。
じとりとした香穂子の視線に何なんだ、と憮然とした蓮の顔を見て。
何だか悔しくて、『ありがとう』とは言えなかった。
「何でもないですーっ」
そう言って、ぷんと子供じみた仕草で蓮から顔を逸らせば自らの頭から先程挿された薔薇の香りが香穂子の鼻腔をふわりと擽る。
甘い、甘い、大人の香りは、まるで今の自分の幼い態度を笑っているようで。

数秒考えて、何かに背を押されるように、香穂子はもう一度蓮に向き直った。
「……ほ、本当に似合ってる…?」
今度はしっかりと顔を上げて、正面から聞いてみる。
「俺は思ったことしか言わないが」
腕を組み、また憮然とした表情を浮かべる蓮は、その言葉と態度がどれほど甘く、優しいものであるのかをわかっていない。
その些細な一言で、どれだけ乙女心がときめき、震えるのかをわかっていない。

「ありがとう」と、香穂子が何とか絞り出した言葉は自分が思っていた以上に喜びに溢れ。
ああ、こんなにも彼に恋をしているのだと再認識させられる。
さわさわと庭先をそよいでゆく風も、もう頬の熱を冷ましてはくれなかった。







*
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葛藤

 晴れ渡る青空に突き抜けるような高音が響いた。
流れるような音の洪水。
目まぐるしく切り替わる旋律の中心に彼は一人立っていた。

普段ならば声を掛けるところだけれど、今日はなんとなくそんな気分ではなくて。
香穂子は今開いたばかりの屋上へ続く扉を閉めた。
ガチャリと重く響く音が、香穂子の心に暗い影を落とす。
そのまま閉めた扉に凭れると、ふと息を吐いて瞼を閉じた。
扉一枚隔てた屋上からは、先程よりも少し遠くなった音がそれでも確かな質量を持って耳に届く。

心が、ざわつく。

圧倒的な差。到底追い付くことなど出来ない、距離。
それらのどうしようもない現実が、今更香穂子に襲いかかる。
聞きたくなくて耳を塞いでも、見たくなくて瞳を閉じても。
心が記憶してしまった鮮烈な青が脳裏をよぎり、香穂子を内側から乱していく。

最初は憧れだった。
彼みたいに弾けたら良いのにと毎日思い、必死になって練習した。そして、音楽にのめり込んだ。
けれど、今はどうだろう?
『憧れ』なんて綺麗な言葉で表せるような感情じゃなくて。
『執着』と呼ぶに相応しい熱情が自分の中で彼を追い求める。

彼の隣に並びたい、と思うようになってしまった。
あの素晴らしく美しい音色だけではなくて。
冷静で、不器用で、容赦がなくて言葉少ない、そんな優しいあの人を好きになってしまった。

恋を、してしまった。


気がつけばいつだって彼のことを思い描き。
けれど縮まることのない実力差に肩を落とす。


音楽に恋をすれば良かった、と香穂子は思う。
そうすれば、何に縛られることもなく、自由に楽しく弾けたのに。





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春風

*土千



真上には、どこまでも青い空が広がっている。
季節はもう春を迎えようとしていた。
けれど暖かな陽気とは裏腹に、時折吹き荒ぶ風はまだ冬の余韻を残している。

その中でいつものようにちょこまかと、何がそんなに楽しいのか、にこにこと笑顔で庭先を掃いている少女。
風はまだ、切れるように冷たい。
全く、と土方は溜め息を着いた。
体を壊したらどうする。
庭先を見下ろす縁側から、その小さな背に声を掛けようとしたその時。
ざわざわと、葉が鳴った。
続いて全身を襲う冷たい強風に、鬼の副長も思わず顔をしかめる。
所謂『春一番』と言われる強風が、屯所を盛大に吹き抜けた。


ひりひりと、風が駆け抜けた肌が痛む。
あいつは大丈夫か、と声を掛けようとして、けれど土方の喉から言葉が漏れることはなかった。

春独特の、包み込むような柔らかな陽光と輝かしい新緑の中で。
風に思い切り弄ばれた髪を指先で整えているのは、土方のよく知る少女ではなくもう立派な一人の『女』だった。
何がそう思わせるのかは、よくわからない。
瞳か仕草か、雰囲気か。
子供だ子供だ、と思い込んでいた少女はもう『女』になってしまったのだと。
この時土方は唐突に理解した。
理解せざるを得なかった。
それほどの変化が、目の前の彼女にはあった。

「あ、土方さん」
何かご用ですか、と嬉しそうに千鶴がひとつに結った髪を揺らし駆けて来る。
「ああ、いや…」
にこりと微笑む少女の笑顔に、土方は曖昧に苦笑を溢した。
それは、もしかしたら自嘲だったのかもしれない。
きょとんと首を傾げた千鶴の頭をぽんぽんと軽く叩く。
「……今日は風が冷えるからな。お前の淹れる茶を飲みたくなった」
そう言えば、はい、とほんのり頬を染めて千鶴は笑った。
眩いその表情に、土方は目を細める。
「でしたら、今すぐお茶を淹れて参りますね!土方さんはお部屋で待っていてください」
律儀にぺこりと頭を下げ、少女は駆けていく。


「ったく。どうしたもんかな……」
土方の小さな独り言は、風に流されて瞬く間に消えた。

少女は恋をすると女に変わるのだと、以前島原で聞いたことがある。
男が思っているよりあっという間の出来事。
恋を知ることで蕾となり、愛を得ることで艶やかに咲くのだと、あの時は酒のつまみ程度に聞き流していた戯言が真実味を持って胸に迫る。
殊更満更でもない自分に、呆れを通り越して笑いすら込み上げた。


さらさらと、先程よりも柔らかな風が土方の頬を撫でてゆく。
出会いと別れを引き連れて、新たな風が人を、組織を、世界を、変えようとしている。

見上げた空は、やはりどこまでも青。
春がもう、すぐそこまで迫っていた。
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