書きたいことがたくさんあって、長文駄文失礼します。
こんなこと書くのどうかと思ったけど、たくさんの人に自慢させてもらった、わたしの父方の一緒に住んでたおばあちゃんについて、今日は長々とかきます(笑)
根っからのガキ大将気質で、せっかちで勝気で、くよくよするってことを知らなくて、人一倍人情深い人。
とにかく声がでかい。(笑)
日赤社員58年目。
83歳になった今でも着物で草履で、レガシィ飛ばして年中無休でどこでもいきます。
口癖は「まだ83歳。」
ってのが一年前までのおばあちゃん紹介。
一年前の今日、誰に別れを告げることなく、昼寝中に自分のお布団の上でぽっくり亡くなりました。
大動脈瘤の破裂で即死だったみたいです。
全然苦しまなくて、ずっとおばあちゃんの宣言してた通り生涯現役ピンピンころりでした。
前日まで自力でバスターミナルまで運転して、バスで東京に会議行ってて、最後の最後まで現役で、今年の四月までカレンダーにびっしり予定が入ってました。
てことで亡くなったのもみんな全然信じられなくて。
昨日電話したばっかだった、来週会う約束してたなんて人もたくさんいて。
兄弟三人とも最後に話したのが、6月19日の台風の日の夜に心配して電話くれたのだったってのがまたすごくおばあちゃんらしくて。
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末っ子ですぐ喧嘩に負けて、泣いてるわたしに、心配より先に「泣くんじゃない」って喝いれてから、「姉ちゃんか、兄ちゃんか、おらがかっとばしてきてやる」っていつも言ってくれて、いつもわたしの味方してくれて、正義のヒーロー的存在で、そんなわたしはずーっとおばあちゃんっこでした(笑)
おばあちゃんの部屋に一緒に寝てた小学生時代とか、たくさんわがまま言って困らせたこととか、一緒にお酢のごはんつくったり、お兄ちゃん帰ってくると三人でお寿司食べ行ったりもうないんだね。
大学はいってからは、免許とってすぐ教官してくれたり、一緒に買い物行ったり、(お兄ちゃんに会いに)鹿児島にも京都にも二人旅したし、亡くなるちょっと前にお姉ちゃんと三人で新宿泊まったり、なんだかんだ後悔なくたくさん思い出つくれてよかった。
けど花嫁姿も見せられてないし、おばあちゃんのお寿司もけんちん汁もまだ完璧に作れないよ、おばあちゃん。
さっちゃんがお嫁に行ったら、ついてって老後みてもらうってずっと言ってたのになー。
三越の食堂で三食丼食べる約束したのにな。
あと、最期におばあちゃんの念願だった被災地訪問できたのはほんとにいいタイミングだったと思います。
被災直後からずっと関わってきた福島から君津に避難してるみなさんの故郷に、「君津にきてもらってるだけじゃおいない」って、亡くなる一ヶ月前に一泊で訪問して、それが果たせて満足だったってこといつも電話で言ってたから、あとになって思えば、それはほんとによかったなーと。
ハードな日程におばあちゃんの年齢気にかけてくれた人もいたけど、「日頃から訓練してますから」っていった鎌田委員長は、ほんとにかっこよかった。
お葬式のとき、福島のちびっこが「君津のおばあちゃん」って言ってたのに対して、ちょっと嫉妬したけど(笑)、おばあちゃんとしてはその関係が理想で本望だったんだろうな。よかったね。
震災発生直後も日赤職員、各地域奉仕団の人に「今はあんたがしっかりするとき」「負けんじゃないよ」ってたくさんの人を激励してて、その姿がかっこよくて、頼もしくて。
身内の欲目かもしれないけど、そのときのことを大勢の人に話されるとやっぱり誇らしくて。
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葬儀のほうは亡くなった当日から毎日、朝から夕方まで、何度も何度も隣組のおじさんたちが相談して、これからのこと取り仕切ってくれて、おばさんたちが台所まもってくれて、あいにく自宅から送ることはできなかったけど、たくさんの人の協力で、田舎の盛大なお葬式をあげることができました。
亡くなってあらためて気づいたこと。
おばあちゃんがどれだけたくさんの人に愛されてたかということ。
わたし自身、家族、親戚、みんなが、おばあちゃんにどれだけたくさん愛されてたかということ。
お通夜お葬式で全国から1000人弱の人が参列してくださって、お盆にはいるくらいまで、毎日毎日たくさんの人が弔問してくださって、何冊もの追悼文集が出版されて、人の偉大さ、というか、おばあちゃんをここまで大きくしてくれた周りの人の協力と最高の仲間に囲まれたんだなーって気づかされました。
この一年、参列、弔問にきてくれた人に「いつもさっちゃんさっちゃんいってたのよー」って言われるたびに、びっくりするくらいたくさん涙が出ました。
あとお通夜の日におばあちゃんの妹さん(わたしの大叔母さん)と寝ずの番で線香番したんだけど、すんごい中身の濃い夜で。
戦時中のこと、女学校時代のこと、おじいちゃんとの馴れ初め、親戚みんなのこと、わたしの知らない和子さんをたくさん教えてもらって、そこには、おばあちゃんのお父さんお母さんもいて、こういうこと語れるのもお通夜の醍醐味なんだろうなーって。
すごく楽しくて、あの日の夜明けもあの時間も一生忘れられないものになりました(^ ^)
そのときね、人が亡くなることは、一人の人の時間にピリオドを打つことなんだなーって改めて気づいた。
たくさんの人の時間と重ね合ってきたおばあちゃんの時間。
おばあちゃんの孫に生まれてきて、おばあちゃんの歴史の最期の21年を一緒に過ごせて、とてもとても幸せでした。
最期まで和子のかっちゃんで、姉ちゃんで、お母さんで、おばあちゃんで、田舎の大奥さんで、先生で、委員長で。
おばあちゃんにはもう会えないけど、みんなの心の中で、いつもだれかを叱咤激励しながら、いつまでも元気でいてほしいなーと思います。
いつもみんなの真ん中でにぎやかにしてくれるような、元気のない人の背中をそっと押すような、どこからともなく声が聞こえてくるような。
おばあちゃんの性格上、じっと天の上から見守らないで、ついこっちの世界におりてきちゃうと思うから、いつか会えたらいいな(笑)
これからもずっとずっと自慢のおばあちゃんです。
ありがとう。
2013.6.21