◆誰そ彼あーるぴーじー◆


◆ご報告◆
3月30日 13:29





「出産の時の痛みなんて、産んだら忘れてしまう」

 本気で言ってんのか。
 こんな痛みを忘れられるなんて、ありえない。
 色んな人が口にした台詞を思い出して、陣痛の最中に盛大に心中で愚痴る。
 本当は舌打ちの一つでもしたい気分だったけれど、3分間隔で寄せては返す痛みの波が舌打ちをも呻き声に変えた。
 深夜の病室での終わりの見えない孤独な戦い。最初に10分間隔の陣痛が始まったのが既に8時間前。
 出産には至らなかった前日からの陣痛を合わせれば、もう24時間にもなる。
 丸2日、痛みでろくに寝ていない体は早くも体力の限界を感じていた。否、限界を感じていたのは精神のほうだろう。
 子宮が固く張り、下腹部に激しく走る痛み。根幹は生理痛と同じ鈍いどんよりとした痛みだ。
 腹式呼吸をしたほうがいいと分かってはいても、痛みに息を詰めてしまって上手く空気が入らない。
 下腹部に手を充てて呼吸を整えようと意識する。
 だが、更なる痛みがその努力ごと奪い去る。
 破水しないまま骨盤まで下がってきた命は、陣痛の度に骨を圧迫する。
 まず両太股の外側の部分。そのすぐあとには脊髄が、内側からかかる圧力に悲鳴をあげる。
 体が内側から破壊されるのはこんな気分なのかと、朦朧としながら北斗の拳の雑魚を思い浮かべた。軽い現実逃避だ。
 だが実際に逃避できるわけもなく、その神経に触れる痛みにのたうちまわる。
 痛い部位を押さえると少し痛みが逃げる気がした。
 熱くて痛くて堪らないのに吹き出した冷や汗が急激に体温を奪う。
 体をのけ反らせて呻いてただひたすらに痛みを遣り過ごしたあとは、蹴りとばした布団をかき集めて、襲う寒さを凌いだ。
 そしてまた2分半ほどしたらお腹が張り出す。
 体が熱を持ち、私はまた布団を蹴る。
 膝を立てた方が楽なのは、出産をしやすくするための人類の本能に依るものだろうか。
 時々、より強い痛みが巡ってくる。気を失うことも許されない、けれど正気ではいられない熱さ。
 お腹の中に息づく命が、外界に出るために少しずつ下がってきているのだ。
 頑張れ、と口にしてみる。
 お腹の中の子と自分と、どちらに対しての言葉かは自分でもよくわからない。
 時折、痛みの合間合間で、眠りに落ちる。
 3分としないうちに覚醒させられる浅い浅い眠りだが、痛みの合間に微睡んでしまうほど、体は休息を必要としていた。
 気を失いたいほどの痛みを越えて、気を失うように微睡み、また気を失いたいほどの痛みで覚醒する。――あと何時間、これを繰り返すんだろう。
 そう思った時に浮かんだ明確な絶望を、私は忘れない。
 痛みで襲う吐き気。力を入れ続けた全身はもはや力の抜きかたがわからず、がたがたと震える。
 たぶん、陣痛への拒否反応だったんだろう。
 3分後が怖かった。
 破水さえしてくれればお産は進み易くなるというのに、あくまで自然分娩を推進する病院は、人為的に破水させることを拒む。
 子宮口もなかなか思うように開かない。
 自然分娩を選択した自分をひたすら責めた。
 今までどんなことでも後悔することなどなかった私が、このとき初めて後悔していた。
 二度と、自然分娩なんてしない。
 自然分娩するくらいなら、二人目なんて欲しくない。
 そう強く思った。
 それでも時は流れ、更に4時間が過ぎた。
 私は憔悴しきっていた。
 汗で濡れた病院着が気持ち悪い。
 喉はからからで、呻く声もひび割れている。
 ベッド脇に置いた水に手を伸ばすこともできない。
 どうせもう、キャップを開ける力も残っていない。
 20分毎に行っていたトイレに行く気力もなくなった。
 相変わらず破水する気配もまるで無い。
 思考が輪郭を失う中で、痛みだけが鮮明だった。
 生き地獄だ、と呟いた。

 午前4時半を回った頃。
 陣痛の最後に、お腹が痙攣するようになった。いきみたくて仕方がない。
 それを訴えると、触診した看護師さんが言った。
「子宮口が5センチまで開きましたね。LDR(分娩室)に移りましょう」
 もう少しで終わる。それは何よりの希望だった。
 陣痛の合間に母と旦那に連絡を入れ、LDRに向かう。
 そこから先はあっという間だった。
 初産婦なら2時間くらいは覚悟しておいて欲しいと言われたが、実際に出産したのはLDRに移ってから50分後。
 駆けつけてきてくれた母が、陣痛と同時に尾てい骨を押し上げてくれる。
 いきむのは止められなかったが、押さえてくれているだけで力が入る場所が調整しやすくなって随分と楽だった。
 お腹の張りは最高潮。
 けれどその痛みは、骨を押し広げられる痛みに掻き消されて覚えていない。
 出来ているんだかわからない腹式呼吸をしながら、声を出して少しでも痛みを逃がす。
 いきむ許可を貰ってからは、陣痛ごとに赤ん坊が出口へと進んでいるのがわかった。
 ここまで来ても破水しない私の体。
 見兼ねたのだろう、ようやく人工的に破水させることになった。
 痛くもなく、音もしなかった。
 破水してから、急にお産は進む。
 異物が挟まったような感覚は、確かに便意と似ていた。
 新たな痛みが加わる。
 皮膚が張りつめていく、尖った痛みだ。
 つねった時の痛みの種類に近い。
 痛いことは痛いが、今まで耐えた陣痛と比べれば耐えうる種類の痛さだったし、何より終わりがすぐそこに見えている。
 終わりが見えていれば、気力が我慢を後押ししてくれる。
 大丈夫、もうすぐだ。
 暗い個室で独り、あとどれくらいかかるとも知れぬ陣痛と戦っていた時とは違う。
 あと少しだとわかれば、1回1回の陣痛もゴールまでの加速のようなもので、痛かろうがなんだろうが泣き言ひとつ浮かばない。
 便が出るかもだとか会陰が切れるかもだとかそんなのはもうどうでもよかった。
 体が求めるままにいきみ、それが終われば水を一口飲ませてもらう。
 助産婦さんが、今、どんな状況かを細かく伝えて励ましてくれる。
 目まで出てきたよと聞いた次の陣痛が最後だった。
 ずるり、という感覚と共に、今まで圧迫していたものが消え失せた。
 それと同時に見た、10ヶ月を共にした命の顔。
 赤黒くて羊水に濡れた命。
 感動より何より安堵した。
 無事に産めたことと、陣痛から解放されたことに。
 午前5時18分だった。
 産まれたばかりの子が泣いた。
 今までとは違う日常の、始まりの音。
 私はそれを、穏やかな気持ちで聞いた。


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