【明け方・箒星のユーリの部屋・フレンを見送るユーリ】でリクエスト頂いた捧げ物です。



真冬の早朝、しん、と冷えた空気が満ちる部屋は静寂に包まれて、鳥の声さえも聞こえてはこない。まだ目覚めの時間には早すぎるにも関わらず、ユーリはベッドの上でため息をひとつ零すと気だるく重い全身を小さく震わせ、ゆっくりと身体を起こした。
たいして上等とは言い難いベッドの軋む音が、やけに大きく耳に響く。自分たちを包み込む静寂の中、鎧戸を閉めてもところどころに隙間を隠せない窓から細く射し込む光はまだ頼りなく、夜が明け切らないことを改めてユーリに悟らせた。
隣で眠るフレンの肩が視界の端に僅かに映る。こちらに背を向けて眠るフレンは、シーツをほぼ独占している状態だった。
シーツを巻き込んで寝返りを打ったのだろうか。布はフレンの胸のあたりでだいぶ余っていて、肩から背中にかけて晒された素肌が寒々しい。シーツを掛け直してやろうと思う前に、ユーリは今日ふたつめのため息を吐き出していた。

寒さに目が覚めるなんて久しぶりだ、とユーリは思った。
二人ぶんの体温で程よく温まったベッドは寝心地が良くて、共寝をした朝は起きるのがついつい遅くなることもある。多くの場合で先に起きだすのはフレンで、ユーリはフレンが身支度を整える物音か、あるいはフレンが自分を見つめる『気配』に目を覚ますかのどちらかの場合が多かった。
後者の場合、初めの頃は気まずくて仕方がなかったのだが…いい加減、慣れた。気まずいというよりは気恥ずかしい、のほうが正しいかもしれない。

触れてもいないのに視線だけで人を起こすなんて、おまえの瞳には妙な力でもあるんじゃないのか――

そんなことを言った時もあった。フレンは笑って、もし何かあるのだとしてもそれはユーリにしか働かない力だ、と答えた。思い出すだけで背中がむず痒くなってくる話だ。

微かに聞こえていた規則正しい寝息が止まる。むき出しになっていた肩をもぞもぞと縮こませ、フレンは更にシーツを手繰り寄せてその中に顔を埋めた。ややあって再び漏れ聞こえてくる穏やかな呼吸音。今フレンの顔を覗き込んだら、さぞ幸せそうな寝顔が見られることだろう。
自分ばかりが見られているのは不公平だ。そう思って顔を近づけようとしたユーリだったが、ふと動きを止めると慌ててフレンから顔を逸らした。そして、くしゃみをひとつ。
すん、と鼻を啜りながら見下ろした背中は緩やかに上下し続け、フレンが起きる気配は全くない。
起こさずに済んでよかったと思う反面、ほんの少しの苛立ちと呆れにユーリの眉間に皺が寄る。が、それも一瞬のことで、ユーリはみっつめのため息を落としながら枕元のポールに手を伸ばし、そこに引っ掛けてあった上着を取って肩から羽織った。
そうしてそっと覗き込んだフレンは、想像通りの表情で――少し幼い寝顔に、ユーリはつい口元を緩ませる。起きたら文句の一つも言ってやろうと思っていたのに、そんな気は全くなくなってしまった。

それにしても、いつからシーツを奪われていたのだろう。冷えきった腕は、少しさすったぐらいでは温まらなかった。
お世辞にも寝相が良いとは言い難いフレンと同じベッドで眠ると穏やかではない方法で起こされることもあったのだが、それに比べればマシかと思うしかない。

眠気も覚めてしまったし、何か温かい飲み物でも淹れてこようか。たまにはフレンよりも先に起きて、いつまで寝てるつもりだ?なんて言って笑ってやるのもいい。

ユーリがそう思った時、隣でまた気配が動いた。むき出しの背中が寒いのか、フレンは更に体を丸めてうずくまるような格好になっている。そのせいで余計にシーツがめくれて、後ろから見えるのはほとんどフレンの肌だけになってしまっていた。
さすがにシーツを掛け直してやろうと思ったユーリは布の端を摘んで軽く引っ張ったが、フレンの腕にしっかり抱き込まれた布はただ強い抵抗でもってその場に居座るばかりで、どうすることもできない。
仕方なしにシーツから手を離すと、ユーリは眠っているフレンの背中を見つめた。
薄暗かった部屋はだいぶ明るくなって、程よく筋肉のついた肩や二の腕、薄く浮いた背骨の隆起とそれが生み出す陰影がよくわかる。
逞しくなったもんだ、などと思いながらユーリはフレンの背をそっと指でなぞると、音を立てないようにしながらそろそろと身体をベッドに横たえた。
眠いわけではない。ただ、もっと近くでその背中を見たかった。

見慣れているはずの背中だ。子供のころから、ずっと見てきた。ただ、今はその背中に思うユーリ自身の『想い』が違っていた。少なくとも、今この瞬間に考えているようなことは思ってもいなかった。
――愛しい、とか。

そろそろとにじり寄って間近に見つめた背中には、小さな傷があった。もうほとんど消えてうっすらと紅い筋を残しているだけの傷は、フレンの不注意でついたものではない。背中を傷付けられるようなことなど、そうあってはならないのだ。
ユーリは自らが付けた傷跡にそっと指先で触れ、それがいつのものだったかを思い出そうとした。確か、数週間前……一ヶ月は経っていないはずだ。フレンに抱かれながらつい爪を立てたあの夜、ほんの一瞬だけ息を詰め眉を歪めたフレンにユーリも呼吸を忘れ、見入ってしまった。
痛みのせいだけではない、あの切なげな表情――
もう一度見たいと思っていた。だが、昨晩はフレンが手を離してくれなかったのだ。勿論、背中を引っかかれまいとしての行動ではないのだろう。それにユーリも相当追い詰められていて、最中には余計なことを考える余裕などなかった。今、フレンの背中を前にしてやっと思い出したぐらいだ。

ユーリは、フレンの背中をなぞっていた指先に少しだけ力を込めてみた。ぐっと押し付けるようにすると、それまで規則正しいリズムで緩やかに波打っていた肌がぴたりと動きを止める。構わずにそのまま軽く爪を食い込ませたところで、さすがにフレンも目を覚ましたようだ。
後ろのユーリに向き直ろうとしてすぐに皺くちゃのシーツに気付き、それを整え、ユーリに掛けてやる。すまない、と申し訳なさそうに笑うとそのまま起き上がってベッドから降りようとするフレンの腕を、ユーリは思わず掴んでいた。
振り返ったフレンが小首を傾げる。と、掴まれた腕もそのままに身体を捻り、見上げるユーリにキスをして満足そうに微笑んだ。
別に、キスをねだったわけではなかった。何を勘違いしたのかフレンは完全にそう思っているようで、にこにこと嬉しそうな様子に何も言えず、ユーリはふいと視線を逸らしてフレンの腕を離した。

ベッドから降りたフレンの背中の傷は、こうして少し離れただけでもう見えないほど薄い。次に会う時はすっかり消えてしまっていることだろう。
次がいつなのかなんて考えることはしない。特にユーリはそうだった。いつだって先の予定は不確かで、約束をすれば守れなかった時がつらい。
それでもフレンはよく、ユーリにこう訊ねるのだ。次はいつ逢える?と。
それに対してユーリがはっきりと答えることはほとんどない。さあな、と笑って去るのが常だった。

ユーリはフレンが着替える様子を眺めていたが、静かに瞳を閉じて見えなくなってしまった背中を瞼に描いた。
あの表情を見るために、また傷を付けてやりたいなんて考えていると知ったらフレンはどう思うだろう。
そして、傷が治りきらないうちに逢いたい、なんて――

支度を整えたフレンが振り返り、一呼吸の間の後で口を開く。しかし、フレンが言葉を発するより先にユーリはこう訊ねていた。

次はいつ逢える?

フレンは目を瞬いたが、開きかけの口元は既に悪戯っぽい笑みを形作っている。さあね、と返したフレンはことさら嬉しそうに表情を綻ばせ、ユーリを抱き寄せた。

逢いたいと思えば、いつでも

ユーリは耳元で囁くフレンを抱き返し、嘘をつくな、と傷を残せない背中に爪を立てた。