生を全うした後の二人のお話。 








おまえはゆっくりでいいからな
わかったか?
その顔で来たら、ただじゃおかねえぞ
…わかったらほら、もう、泣くな――




ゆっくりと瞳を開くと、目に映る景色にフレンは穏やかな笑顔を浮かべた。
辺り一面に舞う花びらが視界を覆う。その花霞の中で佇んでいると、遠くから誰かの呼ぶ声がした。
はっきりと聞こえずとも、それが誰の声なのかわかった。きっと、ここには彼しかいない。
どこだろう?
――早く会いたい。
思えば随分と待たせてしまった。怒られるだろうか。いや、むしろ褒めてもらわねば割に合わない。
急ぐな、と言ったのは彼なのだから。

「フレン」

今度はすぐ後ろで声がした。
ああ…この声で名前を呼ばれるのも久し振りだ。
瞳を閉じ、感慨に耽るように俯いた。口元には笑みを浮かべたまま、静かに振り向いてそのまま目を開けると――
懐かしい友の姿が、あの日のままでそこにあった。

「…やあ、ユーリ。やっと会えた」

柔らかな光を透かして薄紫に輝く瞳。
長い黒髪が揺れ、狂ったように舞い散る無数の花びらが幾重にも重なりながらその上を滑り落ちていく。
薄い唇が僅かに開き、紡ぎ出される声にこの上ない心地好さで全身が満たされるのを感じた。

「久し振りだな、フレン。こんなに待たされるとは思わなかったぜ」

しかし言葉に責めの色は感じられない。腕を組み、楽しそうに笑うその顔がとても幼く見えたのは…こうして再び逢うまでに過ぎ去った年月のせいだろうか。

「君に言われたことを忠実に守っただけだよ」

「…だいぶ貫禄出て、良い感じになったんじゃねえか?」

「そうかな…本当はもう少し頑張るつもりだったんだけどね」

フレンの頭にユーリが手を伸ばし、髪の毛をぐしゃぐしゃと掻き回す。

「うわっ…!やめてくれ」

白いものが混じっていた髪の毛は途端に鮮やかな金色を取り戻し、鬱陶しそうに顔を上げたフレンは目の前の友人と変わらない年頃の姿となって、困ったような表情をした。

「ま、合格点はやってもいいと思うからもっと胸張れよ」

「本当かい?…ありがとう」

「…そのままでよかったのに」

「ちゃんと見せたんだからいいだろ?ずるいよ、君はちっとも変わらないのに僕だけなんて」

「そりゃ仕方ねえなあ…」

髪を翻して歩き出したユーリだったが、すぐに立ち止まるとその場に腰を下ろしてフレンを手招きした。向かいに座ったフレンに小さな盃を差し出し、笑う。

「とりあえず、再会を祝して」

「祝うようなことじゃないけどね」

「固いこと言うなって」

本当に、君は変わらない。
合わせた盃に口を付け、小さく呟く。ユーリは穏やかにフレンを見つめるだけで、何も言おうとはしなかった。

ユーリと再会できたら、言ってやろうと思っていたことが山ほどあった筈だった。
それが今では何も思い出せず、言葉が出てこない。目の前にユーリがいて、笑っている。こんなに屈託のない笑顔を見るのはいつ以来だろう。きっと彼は満足しているのだ。今ならそれがわかる気がした。

「思い残したことがあるか?」

心の内を読んだかのようなユーリの言葉に、特に驚きはしない。何故なら、おそらく彼はずっと見ていただろうから――

「さあ…どうだろう。あるような気もするし、ないような気もする」

「心残りがあると、いつまでも『ここ』から進めないぜ。なんでも話せよ、聞いてやるから」

「うーん…」

やり残したことなら確かにある。だがそれは自分がいついなくなっても問題ないようにしてあったし、周りもそのことは承知している筈だ。丸っきり心配していないと言えば嘘になるが、きっと大丈夫だろう。自分は彼らを信じて託すだけなのだ。

「今さら隠す必要ないだろ?」

意地悪く笑うユーリに、フレンはむっと唇を尖らせた。そうだ、どうせバレている。ずっと胸の奥底に沈めていた想いを、やっと言える時が来た。相手がもうそれを知っていると思うと、ほんの少しだけつまらないが…

「好きな人がいたんだ」

「へえ?」

「でも結果的に失恋した。そのせいでとうとう結婚できなかったよ。それが心残りと言えば心残りかな」

ユーリは小さな盃を指先で弄びながらフレンの話を聞いていたが、ふと動きを止めてフレンを正面から見据えて言った。

「…違うだろ?」

いつからだろう、この視線を受け止められなくなったのは…。
そう、本当に言いたいことはたったひとつだけで、その一言をいつか伝えたいとずっと思い続けていた。
敵わないな、と呟く声が僅かに熱を帯びたようだった。

「君のことが好きだった」

「そうか」

「気付くのが遅すぎて、何も伝えられなかった」

「…そうか」

本当の気持ちを伝えたい相手はもうどこにもいない。その事実に愕然として、人知れず涙を流した。少しずつ気持ちの整理は出来ていったが、想いは変わることはない。何度かあった出逢いも最終的にはその想いを超えることはなく、結局こんなところまで引きずっているのだからどうしようもないと笑うしかなかった。

「勿体ないよなあ、全く。良さそうな相手もいたのにさ」

「仕方がないさ、理想が高くなりすぎたんだ。君以上のひとがいなかったんだから」

「オレのせいみたいな言い方するの、やめろよな」

「君のせいだよ」

「……」

君のせいだ、と繰り返すフレンは今にも泣き出しそうに見えた。
ようやく伝えることができた想いは、もう決して叶わない。俯くフレンの頭をまたぐしゃぐしゃとやりながら、ユーリが優しく囁いた。

「ありがとな、フレン」

「…ずるいよ」

駄々をこねる幼子をあやすように、ユーリは黙ってフレンの髪を撫でるだけだ。フレンは目を閉じ、されるままにしばらくそうしていたが、ふとユーリの指先の感触が消えて顔を上げた。

ユーリは立ち上がり、花びらの舞う中で一点を見つめていた。フレンにはその先が見えない。だがわかってしまった。
そろそろ、時間だ。

「さて…。オレはもう行かなきゃならない」

ユーリはずっと待っていてくれた。心残りが自分だと思うと少し申し訳なく思ったが、ならばそれはもう解消されたということなのだろう。
だが、やっと会えたのにもう…と思うと切なく、つい余計なことまで言ってしまう。

「返事は聞かせてもらえないのかい?」

歩き出していた背中に向けて問いかけると、足を止め振り向いたユーリがわざとらしく肩をすくめて見せた。逆光で表情は見えない。でも想像はできた。
きっと彼は呆れたように瞳を細め、小さくため息を吐いているに違いない。そしてあの皮肉っぽい笑みを唇に浮かべているのだろう。

「返事は、次があればその時にしてやるよ」

どこか楽しげな声に、フレンはやれやれと天を仰いだ。あんなに降り注いでいた花びらも今はもうどこにもない。視線を戻し、霞む視界の中で遠ざかって行く影に向け、言った。

「また会おう、ユーリ。その時を楽しみにしているよ」


言葉は光に吸い込まれ、届いたかどうかわからない。
彼は都合の悪いことはすぐ忘れてしまうから、自分が絶対に思い出させてやらなくては。

きっと会える。その時こそ、もう一度あの言葉を伝えよう。

緩やかに溶けてゆく意識の中、最愛の面差しを強く、強く魂に焼き付けるように――

薄紅色をした小さな花弁が、ゆっくりと流れて落ちる。
フレンは手の中に握りしめたひとひらを胸に抱き、満ち足りた笑顔のまま静かにその瞳を閉じるのだった。