「オレも、おまえの事が知りたくなった」


穏やかな微笑みと共に差し出された手を握り返し、僕はユーリの言葉の意味を考えてしまう。

僕が思っている『知りたい』と、ユーリのそれとは違う筈だ。まだ数える程しか会っていないのに、と何度もお互い言ってる気がするけど、本当のところ、会話をしている時はそんな事は殆ど気にしていなかった。

…少なくとも、僕は。

会話が途切れたふとした瞬間、その事を感じることはある。だって、実際まだ知り合ってから日が浅いんだ。ちゃんと話が出来たのは一週間ほど前で、その時も個人的な話は全くと言っていいほどしていない。

昨日だってそうだ。

僕は無性にユーリに会いたくなって、勢いのまま彼の店を訪れた。
そこでまた彼を怒らせるところだったけど、ユーリは案外あっさりとその事を許してくれた…というか、その後特に気にしたふうでもなく、最初の時とは随分印象が違うと思ったんだ、本当は。

勿論、初対面でユーリを怒らせた時とは何て言うか…問題の重要性が違うんだろうけど、それにしても僕が思った以上にユーリは…僕に対して、親しげ、に…思えた。

…そう思いたいだけなのかもしれない。それがユーリの人柄で、きっと彼は本来、大抵の人間とは気さくに付き合えるんだろう。

お店に来たお客の女の子にフランクに答えてあげるのも、リピーターのお客さんに自分の携帯番号を教えてしまうのも、ユーリにとっては特に変わった事じゃなく、普通の事なんだ。


そして今、ユーリは僕の事を知りたい、と言ってくれた。


でもそれは、何も特別なことじゃない。
ただの知り合いが友人になって、それが『より親しい友人』になるかもしれない、そういう事だ。

僕は、ユーリとそうなれる事を望んでいた筈なのに。
もっと彼の事を知りたいと思って、ユーリも僕に対してそう思ってくれてるのに、本当なら喜ぶところの筈なのに、どうしてこんなに胸がもやもやするんだろう。


…僕はユーリの何を知りたいんだ…?
ユーリと………

なんだかよく…わからない。


「おい、フレン……いつまでそうやってるつもりだ……?」


頭上から降って来たユーリの声で我に返って、思わず見上げたユーリは不安そうな、不審そうな、何て言うかそういうものが色々と混ざった表情をしていた。

「そう……?え、あ…あ、ごめん」

「いや…何だ、具合でも悪ぃのか?それともまだ立ち上がれねえほど腹いっぱいなのかよ」

「……どっちも違う」

ユーリの表情の理由なら分かってる。
僕はずっと、ユーリの手を握ったままだった。それと、また『トリップ癖』が出たとでも思ってるんだろう。正直、その誤解は早い内に解いておきたいんだけど…。

ユーリの手を離す時に、ほんの一瞬だけ逡巡した。…何にって?
……いや……何でもない。
その考えを振り払うように軽く頭を振って立ち上がると、まだ怪訝そうな表情のままユーリが僕を見ていた。


「…ほんとに大丈夫か?」

「具合悪いとかじゃないから、大丈夫だよ。その、ええと…これからどうしようか、と思って」

「これから?」

「ユーリは仕事で店のほうに戻るんだろう?」

「…そうなるな」

「だから、どうしようかと。今日は君の都合に合わせるつもりだったから、僕は個人的にどこに行こうとか考えてなかったんだ」

僕は普段、休日にどこかへ出るという事があまりない。買い物に行ったりというのは当然あるけど、遊びに、というのは暫くなかった。平日休みが多いから、悉く友人とは予定が合わないんだ。

そういった意味では遊ぶ、というか外で一日過ごす気でいたから、今から帰って何かするつもりになれなかった。かと言って一人でふらふらするのも……ユーリと過ごすんだと思ってたし、ね…。


「…………」

ユーリも何か考えているみたいだけど…どうしたんだろう?
まあ仕方ない、とりあえず一旦家に…


「なあ」

「…ん?何?」

「なんだったらおまえも一緒に店に来るか?茶ぐらい出してやるから」

…意外な申し出に少し驚いた。ユーリは仕事をしに自分の店に行くんであって、そこに僕を連れて行く理由はない。

「え、でも……邪魔じゃないか?何も手伝えないし」

「おまえに何かしてもらおうなんて思ってねえよ。わざわざ付き合わせて休み潰しちまったのに、ここで放り出すのもなんか可哀相だしなあ」

「可哀相って…」

ユーリは何故か、にやにやとしながら僕を見ている。…何となくだけど、考えてる事の想像はつくな。どうせ、友達いない奴だとか思ってるんだろう。平日だからだと言いたいところだけど、よく考えたらもう実際のところ、日曜日とかでも誘われなく……やめよう、悲しくなって来る。
ところが、ユーリはそんな僕に更に追い打ちをかけてくれた。


「どうせおまえ、彼女いないんだろ?」

「………………」

「休みの前日に急に誘って何の予定も入ってなかったりさ」

……そうなんだけど。
友人との付き合いのことばかり考えてて、彼女がどうとか思われてたなんていう事は頭に浮かばなかった。
…あれ、もしかして普通はこっちが先か…?

「いくら休みが平日ったって、予定がオレの店に来るつもりだけだったとか寂しすぎんだろ」

「う……うるさいな!確かにその、彼女はいないけど。でもそのおかげで君だって一人でここに来なくて済んだんだろ!?」

「まあ一応は」


ユーリは顎に手を当て、またあの悪戯っぽい笑いを浮かべていた。な…なんでこんな、余裕なんだ。
ユーリだって別に、彼女いないんじゃないか。エステルさんはそういう関係じゃないって言ってたし…。

いや、でもだからってユーリに彼女がいないってことにはならない…?
ちょっと…今は考えないようにしよう…。

それにしても、これはいい機会かもしれない。
そもそも、僕はユーリの店を取材するために彼の元を訪れたんだ。取材は拒否されてしまったけど、僕自身ユーリの仕事に興味はある。
もし作業の様子が見られるのだとしたら、それだけでも御の字だ。別の店で取材の仕事をする時のプラスにもなるだろうし。

そう思って、僕はありがたくユーリの申し出を受ける事にした。







「とりあえずその辺に座っとけよ。オレ、着替えて来るから」

「ああ、わかった」


ユーリはそう言って、レジカウンターの裏にある扉の奥へと消えて行った。
ここからだとよく見えないけど、あの奥は工房になってるんじゃないのかな?確か昨日、エステルさんも帰る前にあそこから戻って行ったし、工房の更に奥にスタッフルームでもあるんだろうか。

喫茶スペースに座って、店内をゆっくりと眺めてみる。

初めて来た時も思ったけど、それ程広くない店内にうまく配置されたディスプレイの棚やテーブルはとても可愛らしい。本体はシンプルな木の造りなんだけど、淡い色合いのレースやリボンで品良く飾られていて、いかにも女の子が好きそうな感じだ。

まさかユーリがこれを飾ってるんじゃないだろうし、きっとエステルさんのセンスなんだろうな。
…ユーリが飾ってるところを想像したら少し笑える。あながち似合ってないわけじゃなさそうなのがまた……


「フレン!!」


一人そんなことを考えていたら、唐突に名前を呼ばれて顔を上げた僕の目の前に何かが飛んで来た。
慌ててその物体をキャッチした僕を見て、ユーリは腰に手をやって呆れたように溜め息を吐く。

ユーリは髪をバンダナに収め、白いコックコートに着替えていた。腰の少し下できっちりと結ばれたサロンのせいで、細身な体型が強調されている。
身長は僕とそう変わらないのに、改めて見てみると自分と比べてユーリは少し華奢な感じがした。


「なーに一人でニヤニヤしてんだよ…」

「な、何でもないよ。それより危ないじゃないか、いきなり何を…」

手の中の物体を改めて見ると、それはよく冷えた缶コーヒーだった。
正確に言えばカフェオレだけど。

「……まさか、お茶ってこれの事かな」

「なんだよ、何か文句でもあんのか?」

「いや、別に…」

特に何かを期待していたわけじゃないけど、もしユーリがコーヒーや紅茶を淹れてくれるならそういうのもいいな、と思った…なんて言える訳ないし。
でも少し残念に思ったその気持ちは、どうやら顔に出てしまったようだった。


「ケーキの用意したら、おまえにも何かやるからそんな顔すんなよ」

「やるって、餌付けじゃないんだから…別にそんなの気にしなくていいよ」

「その割には随分と不満そうな面してんじゃねえか」

「不満というか残念…」

「は?何が」

「だ、だから気にしなくていいって言ってるだろ!」

「……何逆ギレしてんだよ……」

「ほんとに何でもないって!それより、できればユーリが作業してるところを見せて貰えないか?」

ユーリの表情が僅かに厳しいものになる。


「それは、どういう理由で?」

「純粋に興味があるだけだよ、プロのパティシエの作業風景を見た事もないし」

「取材するつもりなら断るぜ」

「違うよ。今後こういった店での仕事がないとも限らないし、その時のために少しでも知識が得られるならそうしたい。この店の事を何かの媒体に載せようとか、そういう事じゃないから」

「…まあ…そんならいいか…ほんとはあんまり無関係のやつを中に入れたくないんだけどな」

「…そうなのかい?やっぱり、何か見られたくない事とかあるのかな」

「別にそんなんじゃねえけど。まあ衛生上の問題とか、色々とな」

今時は面倒臭いんだよ、と言ってユーリは裏に引っ込み、すぐに戻ると僕に手招きをした。

「?」

缶コーヒーをテーブルに置いてユーリの前に立つと、彼は僕に一枚の白い布を手渡した。
これ…ユーリがしてるのと同じ、バンダナ?


「ユーリ、これ…」

「…オレはまあ、そこまで気にしないんだけどな。ただおまえは完全な部外者だし、他に誰もいない時に何かあったら、ってのがあるから」

「髪の毛を覆えばいいんだろう?別に構わないというか、当たり前だと思うけど」

調理中に髪の毛なんかの異物が混入しないように気をつけるのは当然の事だ。

最近じゃ、お客の側にもちょっと困るというかタチの悪い人もいて、こういった事で不当に店側に金銭を要求したりするというのはもう珍しい話じゃない。
実際、仕事で付き合いがある店からそんな話を聞いたこともある。

「まあ端っこで見てるだけなら別にいいんだけどな。どうせそれじゃ満足しないんだろ?」

「せっかくだから、ちゃんと手元を見てみたいな」

「大したことしねえけどな。デコレーションするだけだし」

「そうなのか?今からケーキを焼くんだと思ってたんだけど」

「時間があればそうしてやりたいんだけど、ちょっと間に合いそうにないからな。向こうにはちゃんと断ったし、昨日焼いたジェノワ使う」

「ふうん……ジェ…って、何?」

「…やっぱそうなるよな」


話の流れから何となくわからなくもないけど、僕は聞いたことがない言葉だった。

説明するのが面倒なんだろう、うんざりと嫌そうな様子を隠そうともしないユーリには悪いと思うものの、こんな機会はそうそうなさそうだし。



ポケットからメモ帳とボールペンを取り出した僕を見て、『普段から持ち歩いてんのかよ…』とユーリが呟いていた。



ーーーーー
続く