続きです。






好きで呼び出してる訳じゃない。

ならどうしてって、それが自分の仕事の一つだからだ。
しなくていいなら、それに越した事はない。

相手が誰であってもそう。
…彼なら尚の事だ。
そう、思っていた。



学園祭二日目の校内は、放課後になってなおまだ騒がしい。
階下の喧騒を聞きながら、フレンはふと足を止めた。


ちょうど四年前の今頃、ユーリと二人で進路について話したな。
…ユーリは色々と忘れてたみたいだけど…。


もう四年経つのか、と少々の感慨を覚えないでもないが、思い出すと今でも少し切なくなる出来事だ。

何の事はない、ユーリと二人で共にこの学園に入ろう、という話をしたのに、いざ本当に進路を決定する時期には言い出した当の本人であるユーリがその事をすっかり忘れていた。
それだけの事なのだが、当時は悔しいやら腹が立つやら、そんな状態で受験勉強の手助けを頼み込まれて必要以上にユーリに厳しく当たった気がする。

同じクラスでさえあったなら、聞き分けのない仔猫の如く逃げ回るユーリの首根っこを引っ掴んででも図書室、もしくは自宅へ強制連行するものを、放課後になるとさっさと姿を消してしまうユーリを捕まえるのはなかなか骨の折れる『作業』だった。

自分から勉強を教えてくれと言って来たくせにどういう事なのか、と思えば益々苛立ちが募る。だから毎日、昼休みにユーリの元までわざわざ出向き、その日の待ち合わせ場所と時間を殊更大きな声で伝えたものだった。

しかしそうすると当然、昼休みにユーリが捕まらなくなる。そこでフレンは最終手段に打って出た。
生徒会長という立場を最大限利用して、校内放送でユーリを呼び出す事にしたのだ。
幸いにと言うか何と言うか、呼び出す理由には困らなかった。

些細な理由で毎日のように全校生徒へ向けて自らの名を連呼されるのは流石に耐えられなかったらしく、やっとユーリは大人しくフレンを待つようになった。
不機嫌そうに頬杖を突いて窓の外を眺めていたユーリの姿を思い出すと、自然と口元に笑みが浮かぶ。

我ながら無茶をしたなあ、と思いながらも、ああでもしなければ今こうして同じ時間を過ごす事はなかったかもしれない。

しかし念願叶って同じ学園に入学してもユーリの素行の悪さは相変わらずで、しょっちゅう職員室へ呼び出しを食らっていた。自由な校風が売りとは言え、そこはやはり限度というものがある。

二年生でフレンが生徒会長になると、幼馴染みで仲が良いという事もあってなのだろうが、やたら教師からユーリへの伝言であったり、いつどこへ来るように、という呼び出しを伝えるといった類の面倒を押し付けられるようになってしまった。
何故そんな事を自分がしなければならないのか、と思いながらも、それでも初めのうちは仕方ないと思っていた部分もある。

必要があれば校内放送で呼び出した。
中学の頃の事を思い出さずにはいられなかったが、あの頃とは違い、名前を呼ばれる事を嫌がったユーリが大人しくフレンや教師の言うことを聞くようにはならなかった。






「……ユーリ、ここにいたのか」


鍵は開いていた。

屋上が解放されるのは昼休みだけで、放課後は生徒の立ち入りは禁止されている。施錠されている筈の扉を一体どうやって開けているのか知らないが、フレンはその扉を閉めてしっかりと鍵をかけ直し、ユーリの傍へと歩を進めた。

鞄を枕に寝転がるユーリの隣に腰を下ろしてわざとらしく大仰な息を吐けば、こちらもじっとりと眇めた瞳から投げ付けられた、鬱陶しくて敵わない、といった視線が突き刺さる。

二人共に暫く黙ったままで互いの顔を見つめていたが、やがてユーリが視線を外し、怠そうに身体を起こした。

ふあぁ、とユーリにしては控えめな欠伸をひとつ零し、滲んだ涙もそのまま、微妙に焦点の定まらない瞳は投げ出された足元をぼんやり眺めている。

フレンを見ることなく、ユーリがぼそぼそと呟いた。

「…毎回毎回、ご苦労なこったな」

「毎回毎回、君がちゃんと言われたところに来ないからだろう。校内放送するのも馬鹿らしいよ」

「あれやめてくれよな、いきなりおまえの声で名前呼ばれるとか、ビビるんだよ」

「どうして?いつも呼んでるじゃないか、名前なんて」

「…だからだよ」


どうせまたなんか説教だろ、と言いながらユーリがこきこきと首を鳴らし、首回りに張り付いた後れ毛を鬱陶しそうに掻き上げた。


フレンがユーリを『呼ぶ』のは大抵の場合においてユーリが何かしら問題を起こしたからで、ユーリもそれが分かっていながらわざと呼び出しに応じない事が多々あった。
応じないどころか、校内放送を聞いて逃げるのだから始末に負えない。


だからフレンはユーリを捜す。

校舎裏に植えられた木陰や中庭の東屋、保健室。
保健室など、担当教諭がユーリのサボリを半ば容認している部分があるものだから質が悪い。フレンがあまりにしつこく言うので、最近になって漸くユーリの『仮眠室』として使わせる事がなくなった。
最もそれは、高校三年生という年齢的なものも関係しているに違いなかったが。
保健の教諭は女性だ。しかも若くて美人で、男女問わず人気がある。ユーリとはウマが合うのか、特に親しげに見えた。

あらぬ誤解を生む前に、引き離したかったのだ。

噂にでもなれば、今後のユーリの進路に支障が出る。そんな事は許せなかった。立場上、ユーリよりも女性教諭のほうが何かあった場合はまずい訳だが、フレンはそんな事は露ほども気に掛けていない。
大体、ユーリを追い出そうとしないのが理解できなかったし、同時に非常に腹立たしいものを感じていた。

その気持ちが『嫉妬』だという事には気付いたが、その時はまだユーリは『大切な幼馴染み』の筈だった。


保健室という恰好の睡眠場所を奪われたユーリが好むようになったのが、この屋上だ。
余程の悪天候でない限り、今フレンの目の前でそうしていたようにユーリは屋上の片隅に寝転んでいた。

夏休みが終わって半月以上が過ぎ、暦の上では初秋の筈だ。だが未だ日中の陽射しは強烈でジリジリと肌を灼き、気温の下がる気配もない。
放課後を二時間程経過した今も真っ青なまま暮れもしない空が少しばかり高くなったように感じるのは、雲の形に秋特有のものが増えたからだろうか。



湿り気を帯びた風が生温い。

陽射しを避け、給水設備を納めた小さな建物の陰で寝ていたユーリだったが、上半身はしっとりと汗で濡れ、シャツの張り付いた背中や胸元は薄く素肌が透けている。

大きく開いた襟元を握ってはたはたと風を送り込む気怠げなユーリの姿になんとなく気恥ずかしさを覚え、フレンはコンクリートの床についた掌を緩く握っていた。



「…ユーリ」


溜め息混じりに名前を呼べば、まだ少しだけ眠たげな瞳がゆっくりとフレンへ向けられた。
薄らと潤む薄紫の瞳は先程の欠伸のせいであって、そこに艶っぽい何かがあったとか、切ない何かを思い起こさせるような事があった訳ではないことなどわかりきっている。

それなのに、この瞳を見ると落ち着かなくなったのはいつからだっただろう。
思い出せないほど昔からだった気もするし、つい最近になってからのような気もする。

ただ一つはっきりしているのは、自分が常にユーリの姿を追い求め、こうして傍にいれば触れたくて堪らない、ということだ。ユーリが自分を待っていてくれることがなくなったからなのか、どうなのか。
何故なのかわからない。わからないが、とにかく触れたかった。

今までも何度か覚えた衝動を、その都度抑えて来た。それが今日に限って我慢できなかったのは、魔が差したとでも言えばよかったのだろうか。


それとも、密かに限界だったのか。


「………?フレン?」

ぼんやりしていた瞳はしっかりと開かれ、フレンを見上げるようにして見つめている。無意識のうちにその瞳に手を伸ばしていた自分に気付き、フレンはぴくりと身体を引き攣らせた。
気付きはしたがもう誤魔化しようのないところまで指先は近付いていて、咄嗟に口をついて出た言葉にユーリがほんの少し首を傾げ、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。


「……目に、ゴミが」

「は……?」

「あ、いや、僕じゃない。君の」

「オレ?別に痛いとかないし、そんなものは」


フレンが人差し指でそっとユーリの目尻に触れ、そのまま滲んだ涙を拭う。

「…んっ…」

僅かに顔を逸らしたユーリから漏れた小さな声が、妙に大きく耳に響いてフレンの頭の中を掻き乱した。

「…取れたか?」

「………………」

「フレン?…っっ!?」

するすると頬をなぞった指が今度は口元で止まり、唇の端を掠めて顎を掌で包む。
驚愕の表情のまま固まるユーリの姿を漠然と視界に納め、指先に力を込めた、その時だった。


「痛って!!ちょっ、触んな!!」


突如ユーリが声を上げ、顎に触れていたフレンの右手を叩き落とした。

「っつー……」

「えっ、ご、ごめん……え、どう、したんだ?」

「……別に、何でもねえよ」

「何言ってるんだ、そんなの信じられるわけないだろ」

顎下を摩りながら、その場所を隠すようにユーリがフレンから顔を逸らして俯いた。


そこで漸く、フレンは今日ユーリを探していた理由を思い出した。
どうしてもユーリを見つけ出して、話を聞いて確認して、そして叱ってやるつもりだったのだ。

俯くユーリの肩を掴んでこちらを向かせると、反射的にユーリが顔を上げる。
首筋に手をやって押さえ、親指の腹でもう一度、先程触れた部分をなぞった。

「だっ……!!触んなって言ってんだろ!?」

ユーリの抗議を無視して少し強めに指を押し当てると、じわりと熱が伝わる。少し腫れて体温よりも熱く感じるそこに更に残りの指を重ねて顎を横向かせると、ユーリが小さな呻き声を上げた。
尚も無視を決め込んで覗き込んだ先に薄く朱色の線が走っているのを見つけ、フレンは眉を顰めずにはいられなかった。


「…殴られたんだって?」

本当なら、真っ先に確認すべき事だった筈だ。
本当に何故、今日に限ってこれ程までに思考が纏まらないのか。やけに昔の出来事が思い出されては今の自分達とシンクロし、その度に昔とは違う感覚を強く感じている。

ユーリの怪我を案じる自分と、ユーリの声や反応に心を波立たせる自分。


今、勝っているのはどちらだ…?



「フレン!いつまでやってんだよ!?」

「殴られたのか、って聞いてる」

「っ…、そんな大袈裟なもんじゃねえよ、避け損なって掠っただけだ」

触れなければわからないあたり、なるほど直撃ではなかったのだろう。ではこの朱い筋は、相手の爪か何かで付けられた傷なのか。


「…君が庇った相手が、僕のところに来て教えてくれたんだ。先生に見付からなかっただけラッキーだよ」

「あのヤロ…黙っとけって言ったのに…!」

小さく舌打ちしたユーリがフレンの手を払おうとしたが、逆にフレンがユーリの手首を掴んだ為に驚いてその顔を仰ぎ見る。

「…っ、え!?」


近い。

いつの間に、こんな近くに。


責めるような色を含んだ空色の瞳は、肩越しに広がる蒼穹よりもどこか仄昏く思えてユーリが言葉に詰まる。


どうした、と聞こうと思ったのに、それはフレンが更に顔を近付けたせいで声にならなかった。